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1968年末の日本と1979年の映画劇『さらば映画の友よ インディアンサマー』


1967年の映画劇『ロミオとジュリエットゥ』と児童虐待問題

   1961年(昭和36年)8月、ランドゥンで、ローマ普遍教会信徒の43歳のミュルエル・スパーク(Muriel Spark、1918年2月1日~ 2006年4月13日)の小説『ジーン・ブロウディ先生の最盛期』The Prime of Miss Jean Brodieが刊行された。

 1966年(昭和41年)5月5日から1967年(昭和42年)9月まで、ランドゥンのウィンダムの劇場(Wyndham’s Theatre)で、ミュリエル・スパーク原作、44歳のジェイ・プレスン・アレン(Jay Presson Allen、1922年3月3日~2006年5月1日)脚色・演出、ローマ普遍教会信徒の29歳のヴァネッサ・レッドゥグレイヴ(Vanessa Redgrave 、1937年1月30日~)主演の舞台劇『ジーン・ブロウディ先生の最盛期』The Prime of Miss Jean Brodieが公演された。

 1930年代の10歳の美少女ジェニー(Jenny)役にアルヘンティーナのタンゴ歌手オズバルド・リボ(Osvaldo Ribó、1927年11月30日~2015年4月19日)の娘で15歳のローマ普遍教会信徒のオリビア・ハッセイ(Olivia Hussey、 1951年4月17日~)が起用された。

 1967年(昭和42年)5月29日、『朝日新聞』で、東京本社社会部の35歳の本多勝一(ほんだ かついち、1932年1月28日~)と大阪本社写真部の40歳の藤木高嶺(ふじき・たかね、1926年9月2日~2021年9月29日)のベトナム・ルポ戦争と民衆』の連載が始まった。

 1967年(昭和42年)5月末、44歳のローマ普遍教会信徒のフランコ・ゼッフィレッリ(Franco Zeffirelli、1923年2月12日~2019年6月15日)が、ローマ郊外の別荘に、シェイクスピア原作、ゼッフィレッリ脚本・監督のカラー映画劇『ロミオとジュリエットゥ』Romeo and Juliet に出演する若者たちを集めた。
 ロミオ(Romeo)役の16歳のローマ普遍教会信徒のレナードゥ・ワイティング(Leonard Whiting、1950年6月30日~)、ジュリエットゥ (Juliet)役の16歳のオリビア・ハッセイもいた。

    1967年(昭和42年)6月末、イターリア中部トスカーナでカラー映画劇『ロミオとジュリエットゥ』Romeo and Julietの制作が始まった。

    1967年(昭和42年)6月25日から26日にかけて、ブリティッシュ放送協会(BBC)をキー局に、5大陸、14か国の放送局が参加した『われらの世界』Our Worldという番組が31地点を4個の衛星で結び、世界24か国で中継放送された。
 日本からは日本放送協会(NHK)が参加し、1967年(昭和42年)6月26日、午後3時55分から6時3分にかけてNHK総合テレビで放映された。
 日本での進行役は45歳の宮田輝(1921年12月25日~1990年7月15日)だった。


 ヴァティカーノ南東端にあるローマ普遍教会の総本山サン・ピエートゥロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)でのカラー映画劇『ロミオとジュリエットゥ』Romeo and Julietのイングリッシュ語での稽古風景も中継された。

 1967年(昭和42年)7月、日本政府が資本自由化を実施し始めた。
「第1次資本自由化」は、自由化の対象となる業種を決め、17業種については100%の資本自由化、33業種についてはまず50%の自由化が規定された。その33業種のなかにレコード製造業が含まれていた。

 1967年(昭和42年)7月、東京都杉並区在住の左派の文学者、映画人、29歳の森弘太(1938年7月17日~)、51歳の野田真吉(1916年1月28日~1993年11月22日)、53歳の佐々木基一(ささき・きいち、1914年11月30日~1993年4月25日)、39歳の長谷川龍生(はせがわ・りゅうせい、1928年6月19日~2019年8月20日)、46歳の中薗英助(なかぞの・えいすけ、1920年8月27日~2002年4月9日)、23歳の夫馬基彦(ふま・もとひこ、1943年12月2日~)らが映画上映運動団体「杉並シネクラブ」を結成した。

  1967年(昭和42年)9月、映画劇『ロミオとジュリエットゥ』Romeo and Julietの撮影の終わる頃、バルコニーの場面と寝室の場面が撮影された。

 1967年(昭和42年)12月、ニュー・ヨークで、44歳のジョナス・メカス(Jonas Mekas、1922年12月24日 ~2019年1月23日)の呼びかけにより、ヴィエトゥ・ナム戦争に介入するアメリカ連合国の連邦政府に反対する週替わりの左派映画上映団体「ニューズリール(Newsreel)」が結成された。
 おおえまさのり(1942年~)がこれに参加した。


 1968年(昭和43年)3月4日、ランドゥンのオウディオン劇場(Odeon Theatre)で、映画劇『ロミオとジュリエットゥ』Romeo and Juliet(138分)のイングリッシュ語版の王室先行上映会が催された。
 41歳のエリザベス二世女王(Queen Elizabeth II、1926年4月21日~2022年9月8日)、46歳のエディンバラ公爵フィリップ公子(Prince Philip, Duke of Edinburgh、1921年6月10日~2021年4月9日)、19歳のチャールズ王子(Prince Charles、1948年11月14日~)が鑑賞した。
 57歳のダニー・ケイ(Danny Kaye、1911年1月18日~1987年3月3日)、32歳のトポル(Topol、1935年9月9日)、25歳のダリア・ラヴィ(Daliah Lavi、1942年10月12日~2017年5月3日)、40歳のロジャー・モーア(Roger Moore、1927年10月14日~2017年5月23日)、44歳のリチャードゥ・アトゥンブロ(Richard Attenborough、1923年8月29日~2014年8月24日)、34歳のジョウン・コリンズ(Joan Collins、1933年5月23日~)、26歳のデイヴィドゥ・ヘミングス(David Hemmings、1941年11月18日~2003年12月4日)らが出席した。

 1968年(昭和43年)11月9日、日比谷のみゆき座で、ゼッフィレッリ監督の映画劇『ロミオとジュリエット』Romeo and Julietのイングリッシュ語版の53歳の高瀬鎮夫(たかせ・しずお、1915年8月13日~1982年10月14日)訳の日本語字幕スーパー版が公開された。

   1971年(昭和46年)4月17日、ラス・ヴェガスで、20歳のオリビア・ハッセイが53歳のディーン・マーティン(Dean Martin、1917年6月7日~1995年12月25日)の19歳の息子ディーン・ポール・マーティン(Dean Paul Martin、 1951年11月17日~1987年3月21日)と結婚した。

 1973年(昭和48年)2月12日、21歳のオリビア・ハッセイが長男アレクザンダー・マーティン(Alexander Martin)を出産した。

 1978年(昭和53年)9月14日、27歳のオリビア・ハッセイが26歳のディーン・ポール・マーティンと離婚した。

 2018年(平成30年)7月31日、ニュー・ヨークで、67歳のオリビア・ハッセイ、彼女の45歳の息子アレクザンダー・マーティン著『バルコニーの少女オリビア・ハッセイが『ロミオとジュリエットゥ』以後の人生を見出す』The Girl on the Balcony: Olivia Hussey Finds Life after Romeo and Juliet(Kensington Publishing)が刊行された。 
 序文は95歳のフランコ・ゼッフィレッリだ。

 『フォックス・ニュース(Fox News)』2018年(平成30年)8月9日号の、ステファニー・ノラスコ(Stephanie Nolasco)の取材記事「オリビア・ハッセイが『ロミオとジュリエットゥ』の16歳での論争的な役を振り返り、個人的な悲劇を打ち明ける」Olivia Hussey recalls controversial 'Romeo and Juliet' role at 16, reveals personal tragediesが掲載された。

この歴史劇ではトップレスが目に見えるにもかかわらず、ハッセイは撮影現場で不安を感じなかったと述べた。
Despite being visibly topless in the epic drama, Hussey said she felt at ease on set.

「とても上品に撮られたせいだと思います」と彼女は説明した。 「それに欧州では、それはまったく違っていました。 アメリカでは、それはまさしくタブーでした。 でも、欧州では多くの映画に裸体表現がありました。 それを気にする人はいませんでした。 そうでも、私が16歳だったという事実だけで多くの注目を集めました……。
私たちが一緒に働いた大人数の制作要員は、ごく基本的な人たち、つまり一握りの人たちだけに絞り込まれていました。 それを撮ったのは、暇があった日の後半でした。非公開の撮影現場でした……。
“I think because it was done very tastefully,” she explained. “And in Europe, it was very different. In America, it was very taboo. But in Europe a lot of the films had nudity. Nobody really thought much of it. But it was just the fact that I was 16 that got a lot of publicity…
The large crew we worked with was whittled down to only the very basic people, a handful of people. It was done later in the day when it wasn’t busy. It was a closed set...

  『興行(Variety)』2018年(平成30年)10月7日号のスーザン・キング(Susan King)による取材記事「50歳の「ロミオとジュリエットゥ」:視聴者の大疑問についてのオリビア・ハッセイとレナードゥ・ワイティングの発言」’Romeo & Juliet’ at 50: Olivia Hussey and Leonard Whiting on Viewers’ Big Questionにこうある。

この映画は論争の的ともなった。ハッセイとワイティングの裸体の濡れ場のせいだ。 欧州映画では裸体表現は珍しくなかったが、当時のアメリカでは一部の人がこの場面に眉をひそめていた。
The film also had its share of controversy, because of Hussey and Whiting’s nude love scene. Though nudity was commonplace in European films, the scene was frowned upon by some in U.S. at the time.

「私と同年代の女優がやったのは初めてでした」、撮影中に16歳になったハッセイは述べた。ゼッフィレッリはそれを上品に撮ったと彼女は付け加えた。 「映画のために必要でした」
“Nobody my age had done that before,” said Hussey, who turned 16 during filming. She added that Zeffirelli shot it tastefully. “It was needed for the film.”

 2019年(令和元年)6月15日、フランコ・ゼッフィレッリが96歳で亡くなった。

 2019年(令和元年)10月13日、52歳のキャルフォーニア知事ギャヴィン・ニューサム(Gavin Newsom、1967年10月10日~)が48歳のロレナ・ゴンザレス(Lorena Gonzalez、1971年9月16日~)議員の提起した、未成年者に対する性虐待への時効を3年間に限って撤廃する議会法案218(AB 218)に署名した。

 2020年(令和2年)1月1日、議会法218が発効し、その効力の期限は2022年12月31日までだった。

 2022年(令和4年)12月30日、71歳のレナードゥ・ワイティングと71歳のオリヴィア・ハッセイが、最高級映画社(Paramount Pictures)を相手取り、ロス・アンジェレス・カウンティ上級審裁判所(Los Angeles County Superior Court)に思春期の子供の性的搾取と裸体画像の配布の罪で提訴した。

 訴状によると、映画劇『ロミオとジュリエットゥ』の撮影前、二人はゼッフィレッリ監督から、実際に裸体になることはなく、寝室の場面では肌色の下着を着けると言われていた。だが、撮影も終わりに近づいたある日、突然、監督は、ふたりに裸体で演技をしろと要求してきたのだという。
 それらの演技は映画に使わないし、撮影もしないとのことだったが、密かに撮影されていたという。
 この出来事のせいで二人は精神的に深く傷つき、その影響で、就業の機会が失われてしまったのだという。

1968年の日本と若者向けの音楽

 1968年(昭和43年)4月1日、日本放送協会(NHK)は、テレビ受像機が大半の家庭に普及したことを受け受信料体系を見直し、ラジオ受信契約を廃止し、代わりに、テレビの普通(白黒)契約とカラー契約の形態に変更した。
 これによりラジオ放送は無料化された。
 当時のテレビ受像機の世帯普及率は96.4%(うちカラーテレビは5.4%)だった。
 これを期に、日本放送協会、民間放送共にカラー番組が大幅に増加し、全国のニュースも全時間帯カラー放送になった。

廃虚の鳩

    1968年(昭和43年)10月1日、日本グラモフォンから、五人組のグループ・サウンズ「ザ・タイガース(The Tigers)」の7枚目のシングル、「廃虚の鳩」A White Dove(3分28秒)、「光ある世界」The Glorious World(3分13秒)のシングル盤(SDP-2030、400円)が発売され、30万枚を売り上げた。
 20歳のトッポこと加橋かつみ(1948年2月4日~)がリード・ボーカルの「廃虚の鳩」は、32歳の山上路夫(1936年8月2日~)作詞、23歳の村井邦彦(1945年3月4日~)作曲だ。
 20歳のジュリーこと沢田研二(1948年6月25日 ~)がリード・ボーカルの「光ある世界」は、30歳のなかにし礼(1938年9月2日~2020年12月23日)作詞、37歳のすぎやまこういち(1931年4月11日~2021年9月30日)作曲・編曲だ。

 1968年(昭和43年)10月12日から11月22日まで、新宿文化劇場で、明治百年記念芸術祭参加作品、44歳の岡本喜八(1924年2月17日~- 2005年2月19日)脚本・監督、25歳の寺田農(てらだ・みのり、1942年11月7日~)、一般公募で選ばれた18歳の大谷直子(1950年4月3日~)主演、「「肉弾」をつくる会」、日本アート・シアター・ギルド制作のモノクロ映画劇『肉弾』(116分)が公開された。
 併映は40歳の久里洋二(1928年4月9日~)監督のアニメーション映画『馬鹿。馬鹿。馬鹿な世界』 Crazy World(6分)だった。

 1968年(昭和43年)10月20日、日比谷映画劇場、松竹セントラル、新宿ミラノ座、渋谷パンテオンで、ジャン・エルマン(Jean Herman、1933年5月17日~ 2015年6月16日)監督、アラン・ドロン(Alain Delon、1935年11月8日~2024年8月18日)、チャールズ・ブロンソン(Charles Bronson、 1921年11月3日~2003年8月30日)主演のフランセ語のカラー映画劇『さらば友よ』Adieu l'ami(115分。1968年8月14日初公開)の61歳の清水俊二(1906年11月27日~1988年5月22日)監修の日本語字幕スーパー版が公開された。
 自己中心的な二人の男性同士の美しい友情を感動的かつ象徴的に描いている。

「さらば友よ」シングル

 1968年(昭和43年)11月、日本コロムビアから、日本ヘラルド映画配給オリジナル・サウンド・トラック、「さらば友よ」Adieu l'ami(1分52秒)、「プロップのテーマ」Propp(2分06秒)のシングル盤(LL-2207-AZ、400円)が発売された。
 音楽はフランソワ・ド・ルーベ(François de Roubaix、1939年4月3日~ 1975年11月22日)だ。
 ド・ルーベは、1967年(昭和42年)5月18日に日本公開された、リノ・ヴァンチュラ(Lino Ventura、1919年7月14日~ 1987年10月22日)、ドロン主演の冒険的な男同士の友情を描くフランセ語のカラー映画劇『冒険者たち』Les Aventuriers(112分。1967年4月12日初公開)、1968年(昭和43年)3月16日に日本公開された、社会の法より個人の貸し借りの感情を優先する殺し屋を描く、ドロン主演のフランセ語のカラー映画劇『サムライ』Le Samouraï(105分。1967年10月25日初公開)の音楽を作曲した。

ヒューマン・ルネッサンス

 1968年(昭和43年)11月25日、ザ・タイガースの3作目のアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』Human RenascenceのLP盤(SMP-1420、1,750円)が発売された。
 録音は1968年(昭和43年)7月25日から9月19日にかけておこなわれた。

 1968年(昭和43年)12月19日、東京映画、渡辺プロ制作、ザ・タイガース主演の映画劇『ザ・タイガース 華やかなる招待』(87分)が公開された。
 沢田が演じる高校生・宇野健二と19歳の久美かおり(1949年2月8日~)が演じるレストランのウエイトレス瀬戸口久美子が幻想デートする場面で「光ある世界」が使われた。

     1968年(昭和43年)12月、1年前からザ・タイガースを起用していた明治製菓のチョコレートのテレビ広告撮影のため、ザ・タイガースが、サン・フランシスコ、ニュー・ヨークなどアメリカを10日間訪れた。

 1960年代末から1970年代初頭にかけての日本の芸能産業分野における資本の規制緩和、資本自由化に伴う、流行に敏感な日本の上流中間層の若者向けの麻薬やアメリカ黒人音楽に親和的な商業音楽の国際化を促進したのは東京の六本木を拠点とする超富裕層、国際語のイングリッシュ語、フランセ語話者の若者たちだった。

 1969年(昭和44年)2月24日、ランドゥンのオウディオン劇場で、ミュリエル・スパーク原作、ジェイ・プレスン・アレン脚色、57歳のロナルドゥ・ニーム(Ronald Neame、1911年4月23日~2010年6月16日)監督、33歳のマギー・スミス(Maggie Smith、1934年12月28日~2024年9月27日)主演のカラー映画劇『ジーン・ブロウディ先生の最盛期』The Prime of Miss Jean Brodie(116分)の王室先行上映会が催された。
 撮影は1968年(昭和43年)4月29日に始まった。
   68歳の女王母エリザベス・ボウズ・ライアン(Elizabeth Bowes-Lyon、1900年8月4日~2002年3月30日)、38歳のマーグレトゥ王女(Princess Margaret、1930年8月21日~2002年2月9日)、38歳のスノウドゥン伯爵アンソニー・アームストゥロング・ジョウンズ(Antony Armstrong-Jones、1st Earl of Snowdon、 1930年3月7日~2017年1月13日)、32歳のアレクザンドゥラ王女(Princess Alexandra、1936年12月25日~)、46歳のマイクル・オヴ・ケントゥ公子(Prince Michael of Kent、1942年7月4日~)らが鑑賞した。
   40歳のロジャー・モーア、60歳のレックス・ハリスン(Rex Harrison、1908年3月5日~1990年6月2日)、60歳のマイクルレッドゥグレイヴ(Michael Redgrave、1908年3月20日~1985年3月21日)、36歳のロバートゥ・ヴォーン(Robert Vaughn、1932年11月22日~2016年11月11日)、43歳のピーター・セラーズ(Peter Sellers、1925年9月8日~1980年7月24日)らが出席した。

 12歳のサンディ(Sandy)を18歳のパメラ・フランクリン(Pamela Franklin、1950年2月3日~)が演じた。

川添象多郎

 1969年(昭和44年)3月、21歳の加橋かつみザ・タイガースを突然脱退し、4月にパリに滞在し、六本木のゴーゴー・クラブ「ザ・スピード」経営者の28歳の川添象多郎(かわぞえ・しょうたろう、川添象郎、1941年1月27日~2024年9月8日)の音楽プロデュース、24歳の村井邦彦(1945年3月4日~)、フランスのポップ音楽産業界の大物の48歳のエディ・バルクレ(Eddie Barclay、1921年1月26日~2005年5月13日)の全面協力の下、アルバムを録音した。
 川添象多郎は東京飯倉のイタリアンレストラン「キャンティ」を創業した川添紫郎(川添浩史、1913年2月17日~1970年1月10日)の息子だ。

2022年(令和4年)7月22日、81歳の川添象郎著『象の記憶』(ディスクユニオン DU BOOKS、本体2,300円)が刊行された。

 1969年(昭和44年)6月1日、キングレコードから、ザ・フィンガーズ(The Fingers)のシングル、ロンドン・ポップス「失われた世界」(3分22秒)、「LOVE ME!」(3分11秒)のシングル盤(TOP-713、400円)が発売された。
 ボーカルはクロード芹沢だ。
 「失われた世界」の作詩は32歳の山上路夫、作曲は上智大学国際学部の21歳のシー・ユー・チェン(1947年12月14日~)、編曲は、まさひこオーケストラ(葵まさひこ、1937年~ 1984年9月29日)だ。
 「LOVE ME!」の作詩は34歳の山口あかり(1934年5月26日~2007年5月10日)、作曲は葵まさひこ、編曲は、まさひこオーケストラだ。

 1969年(昭和44年)6月、帰国した「おおえまさのり」が、34歳の金坂健二(かねさか・けんじ、1934年9月22日~1999年7月2日)、30歳の中平卓馬(なかひら・たくま、1938年7月6日~2015年9月1日)と共に、「ニューズリール・ジャパン」を結成した。

『ヘアー』Hair日本語版

 1969年(昭和44年)夏、ザ・フィンガーズ(The Fingers)が解散し、シー・ユー・チェンは大学を中退した。

   1969年(昭和44年)10月14日~28日に開催予定だった赤坂・草月アートセンターでの「フィルム・アート・フェスティバル東京1969」は、招待作品の35歳のヤン・シュヴァンクマイア(Jan Švankmajer、1934年9月4日~)脚本・監督の実験映画『部屋』Byt (13分。1968年)を上映したところで、「ニューズリール・ジャパン」の35歳の金坂健二杉並シネクラブの学生、日大全共闘映画班の学生など約100人の造反グループ「フェスティバル粉砕共闘会議」により初日に全面中止に至った。
 造反派の反対理由は、「(1)草月流といういけばなの家元制につながる文化体制」「(2)運営委員の大半が日本万国博覧会(1970年3月15日~9月13日開催予定)に関係している」「(3)航空会社や新聞社が後援と引き換えに審査に加わっている」「(4)コンクール、審査という権威主義でシネクラブ(映画の自主上映運動)を系列化している」などだった。

 『TBS調査情報』1982年(昭和57年)12月号~1983年(昭和58年)4月号に連載された『戦後文化その磁場の透視図(パースペクティブ)』、秋山邦晴(1929年5月22日~1996年8月17日)「草月アート・センター」を、1985年10月30日発行、『文化の仕掛人現代文化の磁場と透視図』(青土社、3,400円)、秋山邦晴、Ⅳ-2「草月アート・センター」より引用する(496~497頁)。

 そんななかに、一九六九年十月十四日に開幕した「フィルム・アート・フェスティバル東京一九六九」がゲバによる実力行使にあって、やむなく全面中止になるという事件が起きた。杉並シネクラブ、ニューズ・リール一派や金坂健二らが、「粉砕」を叫んで、会場に乱入するという騒ぎがおこったのである。
 この「造反」劇は、いまでは、まったくくだらない不純な私怨、それに「アンダーグラウンド映画」仲間同志[ママ]の醜い主導権争いのトラブルが引き金になっていたと分析されている。
 そのことは、当時、すでに新聞に、「フェスティバル造反は内ゲバか?」といった報道があったように、「造反有理」に便乗して、「活発してきた個人映画の流れに自己の立場を〝有利〟に結びつけようとした」(奈良義巳)ともいえる。つまり造反有理ならぬ〝利益〟の〝利〟と結びついた造反有利の目くろみからの行動だったといえよう。
 この「エセ造反」の劇については、ぼくにも何とも砂を噛むにがにがしい思いがある。
 後になって、あるとき、金坂健二の評論集を本屋で立ち読みしていて、この騒動記の一文を眼にした。そこには、この騒ぎが静まるころ、それまで会場の隅に隠れていた秋山邦晴が、後ろのほうから小児病的な発言をした……云々といった一節があった。こうした事実の誤まり、虚偽を平気で書くこのひとの態度も困りものだが、この際に当時のぼく自身の体験を書いておこう。
 初日の夜、ぼくは作曲家の高橋悠治と仕事をやっとすませて、大いそぎで会場にかけつけたのだった。もう、何本も上映されてしまったろうと思って、ホールに入ってみると、フィルムは上映されてはいなかった。そのかわり舞台のうえに男たちが立ち、ゲバ特有の発声練習ふうなしゃべり方でなにやら叫んでいる。はじめのうちは、何にが起きているのか、よくわからなかった。そのうちフェスティバル粉砕のゲバであることがわかった。かれらの無責任きわまる暴論をきいているうちに、ぼくはいたたまれなくなり、発言したくなった。そこでぼくはかれらに聴衆のひとりとしての質問と意見をのべたのだ。しかし、何ひとつ説得力のあるかれらの意見はきかれなかった。すると、ぼくの隣に座っていた高橋悠治がゆっくりと立ちあがって、「いったい、君たちは何にをやりたいというの?」と質問した。粉砕派のかれらは、この簡潔な質問にグッとつまり、黙してしまった。そしてまもなくこのゲバも、解散が宣せられておわったと記憶する。
 しかし、フェスティバルは中止と決定された。これ以上粉砕派ともみ合い、フェスティバルを強行すれば、機動隊が介入してくるのは眼にみえていた。運営委員たちは、警察権力の介入によるフェスティバルなどは絶対にしたくないと考え、やむなく中止を決めたのだという。
 この年に集った一般公募作品は百四十五本、招待作品は二十七本だった。そのうちチェコスロヴァキアの短篇一本を上映しただけで、開会後一時間たらずで、このフェスティバルは中止されてしまったわけである。
 商業映画館では上映されることのないこのような作品群。それらを紹介する新しい〝場〟としてのフェスティバルは、こうしたくだらない行動によって消されてしまった。このような新しい映画と、それをつくる作家たちの創造活動はどのように深めあってゆけるのか。そのような発展への実践的な解答と状況への理解を、当時粉砕派たちはまったくもちあわせてはいなかったようだ。
 事実、それ以後、「日本の実験映画の動きは半年ぐらい全く中絶して、確実にボルテージが落ちた」(松本俊夫)といわれる。

 1969年(昭和44年)11月26日、有楽町のスバル座で、カラー映画劇『ミスブロディの青春』The Prime of Miss Jean Brodieの日本語字幕スーパー版が公開された。

川添象多郎2

 1969年(昭和44年)12月5日から1970年(昭和45年)2月25日まで、渋谷東横劇場で、松竹とアスカ・プロ提供、川添象多郎の専任プロデュース、ラブ・ロック・ミュージカル『ヘアー』Hair日本語版が初演された。
 ヴェトナム戦争に召集される反戦主義者のヒッピーの集団のリーダー、クロード(Claude)役は21歳の加橋かつみクロード芹沢のダブル・キャストだった。
 川添の友人のシー・ユー・チェンが出演すると共に、外国スタッフとの通訳も任された。
 ザ・フィンガーズのファンで、シー・ユー・チェンが「ユーミン」のあだ名をつけた立教女学院の中学生の15歳の荒井由実(1954年1月19日~)は楽屋でシー・ユー・チェンから加橋かつみに紹介された。

 1969年(昭和44年)12月20日、日本ビクターのフィリップスから、21歳の加橋かつみのアルバム『パリ・1969』Katsumi Kahashi Avril 1969 ParisのLP盤(FX-8004、1,900円)が発売された。
 編曲・楽団指揮は25歳のジャン・クロードゥ・プチ(Jean-Claude Petit、1943年11月14日~)だ。

川添象多郎3

 1970年(昭和45年)1月20日頃、川添象多郎の自宅でハシシュ・パーティが開かれた。26日、川添象多郎、加橋かつみシー・ユー・チェンら5人が大麻取締法違反の容疑で8か月前から内偵していた警視庁保安二課に逮捕された。
 松竹は予定されていた『ヘアー』大阪公演を中止した。

古井由吉『杳子』

 『文藝』(河出書房新社)1970年(昭和45年)8月号に、32歳の古井由吉(1937年11月19日~2020年2月18日)の小説「杳子(ようこ)」(240枚)が掲載された。

 1971年(昭和46年)1月18日、古井由吉杳子」が第64回芥川賞を受賞した。

 1971年(昭和46年)4月25日、日本フォノグラムのフィリップスから、加橋かつみのアルバム『1971 花』のLP盤(FX-8012、1,900)が発売された。
 編曲・指揮は、34歳の阿久悠(あく・ゆう、1937年2月7日~2007年8月1日)作詞、39歳のすぎやまこういち作曲・編曲の「微笑」 A Certain Smile(3分06秒)を除き、28歳の玉木宏樹(1943年3月13日~2012年1月8日)だ。
 加橋作詞、17歳の荒井由実(1954年1月19日~)作曲の2「愛は突然に」Suddenly, Our Love(3分58秒)も収めた。

 1971年(昭和46年)8月15日、58歳の第37代アメリカ大統領リチャードゥ・ニクスン(Richard Nixon、1913年1月9日~1994年4月22日)がアメリカの基軸通貨ダラー(dollar)と金の交換停止を発表した。

 1971年(昭和46年)10月10日、日本放送協会総合テレビ全国放送が全面カラー化された。

 1971年(昭和46年)11月30日、「新鋭作家叢書」13、『古井由吉集』(河出書房新社、680円)が刊行された。
 「木曜日に」、「先導獣の話」、「円陣を組む女たち」、「不眠の余り」、「杳子」、「妻隠(つまごめ)」、「言葉の呪術」、43歳の川村二郎(1928年1月28日~2008年2月7日)「主題を求める変奏」が収録された。

 1972年(昭和47年)3月21日、「感じる洋画雑誌」『ロードショー』(集英社)1972年5月号(創刊号)(360円)が発売された。

 1973年(昭和48年)2月14日、為替相場(Exchange Rate)が変動相場制(floating exchange rate system)に移行した。

 1973年(昭和48年)2月15日、ミュリエル・スパーク著、43歳の岡照雄(1930年1月2日~)訳『ミス・ブロウディの青春』(筑摩書房、1,200円)が刊行された。
 装幀は37歳の畑農照雄(はたの・てるお、1935年2月4日~2004年8月2日)だ。
 『貧しい娘たち』The Girls of Slender Means(1963年)を併録した。

 1973年(昭和48年)10月10日、おおえまさのり訳編『チベットの死者の書バルドソドル』(唵(オーム)書房、3,000円)限定千部が刊行された。イングリッシュ語訳からの重訳だ。

   1974年(昭和49年)2月25日、おおえまさのり訳編『チベットの死者の書バルドソドル』(講談社、820円)が刊行された。

 2011年(平成23年)3月20日発行、太田俊寛(おおた・としひろ、1974年~)著『オウム真理教の精神史ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社、本体2,300円)、第2章「ロマン主義闇に潜む「本当のわたし」」、「ドラッグ神秘主義」より引用する(90~91頁)。

 リアリー[Timothy Leary(1920年10月22日~1996年5月31日)]の活動においてもう一つ注目すべき点は、『チベットの死者の書』を、ヒッピーのあいだでの教典的な存在にしたということである。同書は、神智学に傾倒していたアメリカ人のエヴァンス・ヴェンツ[Walter Evans-Wentz](一八七八~一九六五)によって、すでに一九二七年に英語訳[The Tibetan Book of the Dead]が刊行され、ユング[Carl Gustav Jung(1875年7月26日~1961年6月6日)]もこれに関心を寄せていたことが知られている。
 『死者の書』は、先に述べたようにチベット密教ニンマ派の教典であり、死者の魂を解脱へと導くための書である。それによれば、魂は死後、六道輪廻に由来するさまざまな幻影に苦しめられる一方で、「光明クリヤーライト」という解脱への光を見る。チベット僧は「中陰バルド」の期間に当たる四九日間、死者への呼びかけを続け、彼を解脱へと導こうとする。 リアリーは、LSDの実験を繰り返し行うことによって、ドラッグ体験が天国のように甘美なものとなる場合(グッドトリップ)と、地獄のように苦痛に満ちたものとなる場合(バッドトリップ)があるという事態に直面した。そして、ドラッグ服用者の精神を周囲の人間が適切に導く必要があるということ、そのための手引き書マニュアルとして『死者の書』を用いることを提案したのである。
 ドラッグ体験においては、一時的に自我の枠組みが解体・解消されるが、多くの人間はそのことに強い恐怖を覚える。それは実に、死に類似した経験だからである。しかし、恐怖という否定的な感情がいったん芽生えると、それ以降の幻覚もまた苦痛に満ちたものになってしまう。ゆえに、自我の解体を肯定的なものとして受容させるための導きが必要とされるのである。

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