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小さい頃からずっと自信がなかった

今でこそハイクラス女子交流会なんて
大それたネーミングの会をしている私ですが

幼少期からつい最近まで
自分ができないことをずっと避けて生きてきました。

そんな私は、何かが変わったわけではなく
できないままの私なのです。

何を言っているかわからないと思うので
ちょいとお付き合いくださいね。

時は、幼稚園時代に遡ります。
教育熱心な母は
私を幼児教室というところに通わせていました。

今でこそ幼児教室も珍しくはないですが
今から50年以上前ですから
当時はとても珍しいことだったと思います。

しかし、その頃から私は先生がおっしゃってることが
わからない子供でした。

今でもなんとなく思い出すのが
黒板にサイコロや積み木の絵が描いてあって
見えない面の数を答えるような問題を
出されていたのではないかと思いますが
私は、座っているのがやっとで
先生のおっしゃっていることが頭に入ってきていなかったか
本当にわからなかったといったところだった。

そんな私は
小学校受験をするわけですが
受験に受かれば制服を着て、黒いランドセルを背負って
家から遠い学校に電車に乗って行くことと、
仲良しのお友達と別れ離れになるのは嫌。
赤いランドセルで
好きなお洋服を着て
お友達と近くの小学校に行きたいと
母に訴えていました。

母に抵抗しながらも
私は私なりに真面目に試験を受けしましたが
結果は不合格。

母の手前、
「行きたくなかったから不合格でよかった」
とは言ったものの、
幼い子供なりにも自分は受からなかったのだという
ことは感じていました。

公立の地域の小学校時代も
私のお勉強が苦手なのは続きました。

教育熱心な母は私に数々の習い事をさせ
私はお友達の間で
習い事の多い子、と言われていました。
何を習っても上手にできない私。
私より後から始めたお友達の方が
あっという間に上手になっていくのを感じながら
習い事に通っていました。

小学校の低学年の頃から
家庭教師に習い、
高学年の時は塾通いと、家庭教師。

当然母は中学受験をさせるわけですが
私はここで落ちるとまた高校受験でこの経験をするのは嫌なので
絶対に合格するラインの学校を選び
これで私は合否を決められる受験から解放された!と思いました。

中学、高校、短大とエスカレーターで
呑気に学生生活を送っていた私は
次に迎えたのが就職活動でした。
ここでまた合否が出ることに向き合えなかった私は
なんと、
母に適当な理由をつけて就職活動から逃げて
専門学校に行かせてもらうという
なんとも情けない選択をしました。

幼稚園の頃からずっとお勉強が苦手、
人と比べられたり、
合否の判定が怖い私は
逃げ続けていました。

しかし結局時が来たら
就職活動というのに直面します。
しかしその時も何やら適当な理由をつけて
就職活動をしませんでした。
そんな時、友人が会社で求人してるから来ないかと誘ってもらい
簡単な面接で入社させてもらい
なんとなく会社にいたという程度の社会人時代を送りました。
しかも、その会社にも1年も在籍せずに辞めてしまいました。

結局私は幼稚園の頃から
大人になるまでずっと合否をつけられることから
逃げ続けていた人間だったのです。

さてこんな人間がどうしてハイクラス女子交流会を
運営するまでになったのかについては
また次の機会に書こうと思います。



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