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亡霊たちの地図を片手に、その境界を探す旅

「始まりがあるものは必ず終わる。」

私の大学時代に一時お世話になっていた財政学者が、よく彼の師匠の言葉を引用してこう言っていた。

そして、このNoteも2021年の初めに始まり、2024年の暮れに終わる。月に2本ペースで書いていければ、96本の記事が投稿される予定である。(予定とは大抵狂うものだ、人間のように。予定も私も見事に狂ってしまった。)
2022年の大学院受験に向けた研究計画のラフスケッチ、日本語のリハビリ、そして他者(太っちょのおばさん)とのコミュニカシオンがこのNoteでの目的である。

海外在住8年目となる今年2021年、ようやく紙とペンを取り、走り出せている。去年のパンデミック以来、決まっていた次の国への異動も白紙(上記の「紙とペン」に掛けているのだろう)になり、外出制限によりKindleとNetflixと接する機会が増えたことで、これまでなんとなくぼんやり思っていたアウトプットの場を持ちたいなという気持ちが固まり始めた。それが去年の7月ぐらいだったと思う。それからこの文章を書き始めるのに5カ月もさらにかかってしまった。やりたいと思ってから行動に移すまでが如何せん遅い。落ちこぼれグローバル人材ゆえんである。

ビジネスと哲学と探究

基本、ビジネスも哲学も一緒だと考えている。(今は割と、ジンブン的な知と自然科学的な知の間にビジネスは存在しているのではないかと思っている。)
すべては探究(Inquiry)から始まる。そこから秩序(Order)を獲得する概念(Concept)を構築し、真理(Truth)なるものを仮定(Assumption)し探究(Inquiry)に戻る。

そこで、ここでも感謝から始めるのが筋だろう。私は年に3-4本ほど、とある地方シンクタンク系の経済情報誌のコラムを担当している。そこの編集者が、コロナ禍の東南アジアの現状についての原稿をかなり褒めてくれた。あれが、書くことに対する私の火を燃え上がらせてくれた。そして、もう日本に戻られた元上司が、キミに足りていないのはアウトプットの場でそれをずっと勿体ないなと思っていたと言ってくれた(私は今、あなたが好きだったスミノフのレッドブルウォッカを飲んでこの文章を書いているよ)。そして、あなたが書いたものだったら絶対読むし、読んでみたいと言ってくれた親友たちにも感謝している。かなり遅れたけど、今書いているよ。
最後の前に。おそらく10年ほど前から「書けってことだと思う」とか「書いたら」とか「定期的に書き続けるには、、、」などちゃんと最後まで私のお尻に火を付け続け、最後まで諦めてなかった私の研究者仲間よ(私はまだアカデミアという家に入れていないが。。。)、あなたたちのおかげで私は書き始めらえることができそうだ。

そして最後に、2014年までに膨大な研究メモを残してくれた過去の私へ。今は正直、キミが何を考えて何を書きたかったのか正直皆目見当がつかない。しかし、『アンダー・ザ・シルバーレイク』のサムのように、この記号的な手掛かりをもとに、キミの行方を捜し、「狂気」までたどり着きたいと思う。(今、思うと哲学は暗号解読に近い)

その時の私は、友人が書いた小説の原稿にこんな書評を残している。

また、こうもいえる。「過去によって停止していた現在が他者との交流によって再び未来へと動き始める」物語と。

ペテンの配達人

スラムダンクが映画化になるというニュースを聞き、改めて山王戦を読みなす。今ならあの時の三井寿の心情と安西先生の「今の君はもう十分 あの頃を越えているよ」というセリフの重さが痛いほどわかる。私も十分のあの頃の自分を超えるために、今年から書き始めることにする。ありがとう。この足で立ち上がれそうだ

過去から届く手紙、再び動き始める未来

そのメモの一部に大きく

タイトル
『暴力と連帯の哲学』に打ち消し線が入り、『システムと贈与(愛でも可)の政治経済学:バタイユ・アーレント・ポランニー』(*学派によってはアレント派とポラニー派がいるらしいがここでは原文ママ)

ペテンの配達人


2人の梅毒で父を亡くした者と(ポランニー)
2人のユダヤ教徒と1人のカトリック棄教者
2人の男と1人の女
3人の戦間期にファシズムと贈与について考え続けた学者

ペテンの配達人

と本のタイトルと帯までも用意しており、「オーストリア=ハンガリー、イギリス、ドイツ、アメリカ、フランス、スペイン:ぼほ欧米カバーできてる」とのことである。

私は今でもこの3人の学者を偏愛している。大学に入る前にバタイユを知り、3年生の入ゼミ前にアーレントにはまり、ゼミ後にポランニーに傾倒した。学士の卒論はバタイユとポランニーを西谷修氏(及び中山智香子氏)の議論を参考に環境経済学的に整理するみたいな話を書いたと思う(アーレントまでは結局手が出せなかった)。

私は、3人をこう定義して議論を進めている;

バタイユ:社会哲学者
アーレント:政治哲学者
ポランニー:経済人類(社会)学者

そして、それぞれの共通項を取る、以下のように。

人類社会学:ポランニー―バタイユ
哲学:バタイユ―アーレント
政治経済学:アーレント―ポランニー

そして、それぞれに対してトピックを設けている。まずは、人類社会学、ここでは市場分析、広義(≒抗議)の経済学、経済学の脱構築、そして交換原理、手段としての市場、情報、効率≒理性、システムの分析及び批判が加えられている。2番目に、哲学、ここでは犠牲(供犠)の論理と暴力、そして歓待や赦しの分析及び批判が加えられている。最後に、政治経済学、ここでは政治と経済学の分離、その機能不全の代替物としての公共性、共同性、連帯などが議論される予定となっている。

そして、その3つの真ん中に「大文字としての<他者>の融解」と書かれ、

1.命令的なシステム
2.無条件の贈与
3.繋がりに基づく自己の存在理由
この3つのバランスをとる!

ペテンの配達人

とのこと。

以上からわかることは、3人の学者を通して、3つのことを2014年前の私は考えていたようだ。市場というシステム(自由と孤独)、犠牲と暴力(=悪?、愛と狂気)、そして友と敵を分ける制度(包摂と排除、共同体と村八分)。(ラトゥールなら「3つではなく15に分けて丁寧に説明する」というだろうな)

理性(精神)と狂気(身体)とその調整みたいなイメージだと思われる(GraceとNatureを如何に自由・平等・博愛に落とすかについてかなり考察していたと見受けれられる)。

原著での課題図書としては、

ポランニー―バタイユ=モース、マリノフスキー、デュルケム、フレイザー、レヴィ=ストロース
バタイユ―アーレント=ハイデガー、ヤスパース、サルトル、キルケゴール、ソレルの暴力論、デリダ、アガンベン
アーレント―ポランニー=ルカーチ、マンハイム、ブロッホ、フランクフルト学派(特に、アドルノとハーバーマス)

そして、その真ん中にヘーゲル(及びマルクス)、ヴェーバー、ニーチェとベンヤミンの〈天使〉がいるという。
その他、大勢の日本人学者が書かれている。先は長い、深い、言葉にならないくらい

解くべき謎は整った。あとは、本を読み、映画を観、寝て夢を見、人と議論し、たまにフラッシュバックする記憶に向き合い、そしてそれらをここに残すのみだ。それが動けない時に動き過ぎない方法だ。スタートはボロボロでも切れる、そしてそれがいつか大きな財産になる。 まだ始まっちゃいねえよ!とシンジに向かってマサルの亡霊がささやく。


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ペテンの配達人
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