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夢がなくても生きていける

タイトルは、作家・西村賢太の言葉です。

「どうして夢を追わなきゃいけないんでしょうか。僕は逆に、夢がなくても生きていけるということを、皆さんに伝えたいですね」

芥川賞受賞のインタビューで物議を醸してからテレビを賑わせていたころなので、今から10年以上前でしょうか。テレビ番組での何気ないコメントで、正確には記憶していないのですが、大体上記のような主旨で、それがとても強い思想だなと思え、以来、印象に残っていました。

西村賢太は、作家としては、古風で硬派な純文学の書き手としてのイメージがあります。日本近代文学の主流だったアモラルな私小説の正統的な後継者のようでいて、古臭くなく、巧くて、言葉が豊かで、文学の力強さを感じさせる、文豪だと思います。

人となりの方は、当時も良識人には眉をひそめられたり、テレビでは逆に面白がっていじられたり。本人は、泰然自若としているようにも、憮然としているようにも見える表情で、”常識的”な倫理観に反することも何もかも平然と語ったり。たまに笑う姿はお茶目とか言われてもいましたが、私には、その次の瞬間にキレそうにも思える時があったりしました。

一方で、インタビューや特集に目を通すと、尊敬する亡き作家のお墓に訪れて手を合わせることを欠かさなかったり、はたまたお墓の隣に生前墓を建てたり、情に厚い一面が伺えました。また、デビューのきっかけから賞をとる経緯を見ても、努力と才能に加え、文筆にかけては、並々ならぬ野心と、それに応える精神力を感じました。

そんな背景がありながら、夢がなくても生きていける、と聞いて。

私なりの受け止め方であり、本人の考えから離れてしまうでしょう。
しかし、それは、刹那的な、あるいは享楽的な生き方の肯定ではない気がしました。人生を諦めるのとも違う。自分の手の中にあるものを見極め、そこに対して実直に日々取り組んでいく、その繰り返しにも十分な価値を見出だすことができる、そうした現実肯定主義に感じました。

大志を抱き、希望を持って困難に立ち向かい、ポジティブに邁進する考え方とは真逆かもしれません。しかし、粛々と日々を繋ぐことそのものに見出す、ミニマルかつ最大の生の価値は、前に向かって進む強さとは別な次元に存在する生き方の尊さを照らしてくれます。

自閉症の娘を育てていて、「学校に通う姿、友達と遊ぶ姿」といった何気ない未来の「定型」イメージを、常に異なるイメージへ更新していく作業があります。その作業に痛みが伴うとき、「その子の価値観、個性に基づく人生があると頭で理解しているのに、どこか勝手に理想を作っていたのかな」と、自分の業の深さも覗きみることになります。

今の現実の延長にある目標と、まっさらな希望に基づいた夢は違う。
特に、娘の育児については、後者に囚われると、今ある大事なものを見失う。

こうした時、「夢がなくても生きていける」という言葉は、身も蓋もないようでいて、実は心強い、生き方の指針となる言葉として、胸に響くのです。

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