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消えた5ヶ月
私には小学校4年生の夏秋がない。
誰しも子どもの頃の記憶は朧げで、思い出すたんびに記憶がほんの少し変わったり、人から聞いた話で上書き保存したりします。
でも、それは所詮『思い出』という盗っ人
がこちょこちょと脳みそを弄ったからで、特別な病気でなければ『ついこの間』の事を忘れることはありません。
そのはずなのに小学校4年生の冬の私は、夏休みと秋の記憶がまんまるないことに気づいて、それはもうビックリしたものです。
ただ、私には犯人に心当たりがありました。
それは平成9年の12月に起こった事件。
小学校4年生の女の子にとっての大大大事件が原因で間違いなかったからです。
◆平成4年◆
引っ込みじあんの兄に何か習いごとを。
そう考えた母は小学校1年生の兄と相談した結果、『悟空みたいになりたい』という大志を抱いて空手教室の門を叩きました。
空手というものは、流派や教室によってやる事も考え方も違う、なかなか外の人に伝えづらい武道です。
兄が入室した空手教室は子どもの内は人を殴ったりすることのない。
型という、突きや蹴りを予め決まっている手順で行う演武が中心の流派でした。
また、師範代はとにかく豪胆で、子どもは元気でしゃんと挨拶できる事が良い。毎日学校に通い、しっかりと給食を食べ、よく学び、よく遊ぶことが空手の練習であり修行である。
そう考えるかたわら、学校に疲れてしまったら別の場所でふて腐れずに生きることも立派だと。子どもに寄り添ってくれる先生でした。
そんな師範代のもとにいる先生達は、修行の一環として子ども達の指導へ来ている大学生や社会人です。
全身黒づくめの、眼の鋭い、オールバックに髪を固めた先生達は、街を歩けば道を譲られるほどそれはそれは恐ろしい外見ですが、子ども相手には厳しくも優しいお兄さんとお姉さんなのでした。
◆平成5年◆
年長さんになった私は、兄と一緒に空手大会の応援にいきました。
兄の先輩達が帯の色に分かれて型を披露し点数を競います。
入りたては白帯、審査をして級が上がれば色が変わっていきます。
みんなの憧れは黒帯で、黒帯の一個手前が茶帯。その前が緑帯。
だいたいが10歳くらいで緑帯になるので、兄はまだまだですが、かけっこ等のレクリエーションに参加させてもらえることになっていました。
兄を見ようと応援席の2階から覗いていると、兄とそう年の変わらない女の子がいます。ポニーテールのその女の子は周りの男の子を物ともせずに大活躍し、それはもうキラキラとかっこよく見え、すぐさま母に「私もやりたい!」とおねだりし、小学校入学前としては特別に習えることになりました。
一番のちびっ子だけれど手先が器用なことから道着の着方もたたみ方も帯の結び方もすぐに覚え、兄の帯に追いついて一緒に練習するようになります。
一緒といってもいくつか級が離れているので、兄は先に上の帯になっていってしまいます。私は根っからの負けず嫌いをはっきして必死に練習していきました。
転機が訪れたのは3年後、小学校3年生の春のことです。
◆平成8年◆
習い始めるのが人より早かった私は、小学校3年生で緑帯になっていました。
緑帯になると大会デビューが待っています。
普段の練習以外でも先生が時間を作ってくれた追い込み練習の甲斐もあって、なかなか良い仕上がりでした。
目だけは肥えた母に「先生達の型は見えないけど本当に敵が目の前にいて、突きも蹴りも当たってるように見えるのよ。りいなはまだ盆踊りで踊ってるみたい。」と言われ、よし!敵をやっつけるぞ!!と気合を入れて大会に出場しました。
最年少かつ初出場で緊張していましたが、兄と一緒だったことから気楽に演武することができました。
先生からは「緊張で固かったけど、気合いは入ってた。」と褒められ、「女の子らしくない睨みだった。」という言葉に有頂天になり、
母に「ちゃんとぶっ殺せてた?」と聞くと母はにっこり笑いながら「ちゃんとぶっ殺せてたよ。」と頭を撫でてくれました。
結果としては何とか入賞したといった感じでまずまずの結果でしたが、沢山の人に褒められ兄より良い結果だったことに、小学3年生にして天狗となったわけです。
◆平成9年春◆
その年の大会、私にはライバルがいました。
姉妹教室の同い年の女の子で級も一緒です。遠く離れた場所に住んでいることから去年は大会に出られず、初出場ですが実力者。先生からは「負けないように頑張れ!」と発破をかけられていました。
そうはいっても小学4年生同士、前日の練習から仲良くなり、一緒に行動し一緒にお弁当を食べよきライバルです。
試合は去年より肩の力が抜けたことが良かったのか、それとも純粋に成長をしていたのか。師範代に「力強く伸び伸びとして良い型だった。」と評価された私の成績は緑帯の部で3位、初めての盾に心が舞い上がります。
ライバルの順位が上でほんのちょっと悔しかったけれど、また来年一緒にがんばろうね!と誓い合いました。
◆平成9年梅雨◆
大会が終わりのんびりしていた頃、先生から一つの提案がありました。
「りいな、飛び級になってしまうが茶帯の審査を受けるか?」
級を上げるには審査が必要で普段は師範代に審査をしてもらいますが、茶帯に上がる時と黒帯は本部という偉い人が審査会を開きます。本部審査は年1回、その年は12月に行われる予定でした。
参加するには1回分の審査が足りない私ですが、兄を含め一緒に練習している全員が審査を受けることになることと、大会で良い成績をおさめたことで、審査に受かる可能性があるので受けたいなら審査用の練習に参加させてもらえるという話でした。
私は「受けたいです!」と返事をし、ついに審査練習が始まります。
◆平成9年初夏◆
審査練習はこれまでの練習とはまったく違うものでした。
技の練習や基礎の練習は一旦置いておいて体づくりです。
空手の技は、敵にいつ攻撃するのかバレてはいけません。
特に蹴りだと踏ん張る時に足が動いてはバレてしまいますから『足を動かさないように踏ん張る』必要があります。なので腰から足元までを強くします。
ツライのは体が小さくて周りと同じように出来ないことです。
例えば幅1メートルほどの階段の上り下り練習。
左端からスタートするとまず右足を一段目に置いてそのまま右端まで滑らせます、壁に右足がタッチしたらそのまま左足を寄せて二段目に置きます。
次に左足を左端まで滑らせて、右足を寄せて三段目。
この時、下の段にある足で蹴ってはダメで、上の段にある足の力だけで引き寄せる。
そういう練習だったのですが、背が低いということは足も短いので毎回足を限界まで開いてなんとか頑張ります。それでも他の人よりずっと遅く、上手く出来ないのでイヤな気持ちになり「早く休憩にならないかな」っとこっそり祈ってました。
さて、いよいよ夏休みが始まります。
◆平成9年12月◆
12月某日、ついに審査会の日がやってきました。
事前に作成した論文(作文)の提出と、偉い人の前で型を演武します。私はライバルと同じグループになり一緒に演武しました。
審査は一瞬で終わってしまいました。
上手く出来たのかどうだったのか点数が出ないのでわかりませんでしたが、私もライバルもそして兄も合格することができました。
晴れて私は茶帯になったのです。ヤッター!
◆平成10年1月◆
いつも通りに家族で除夜の鐘をつき初詣を終え、書き初めをして、のんびりと冬休みを過ごしていました。
おじいちゃんおばあちゃんに茶帯になったと報告をしたら
「えらいなぁ、練習がんばったんだねー」と言われ、
私は「うん!」と答えながら、あれ?どんな練習だったっけ??と思いました。
大会は覚えてる。
審査することになったのも覚えてる。
よくよく考えると夏休み前までは思い出すことができましたが、その次は審査前日の練習の記憶です。
審査前日に予備審査といって師範代に見てもらったことは覚えていますが、それより前がさっぱり思い出せません。
「ねえ、お兄ちゃん。」
ゲームをしている兄に聞いてみることにしました。
「審査の練習ってどんなんだったっけ?」
そう聞くと、兄よりは怪訝な顔をして
「お前覚えてないのか?土手を斜めに走ったのとか。」
言われてもピンときません。
「うーん?」
うんうん唸っていると、兄は大きなため息をつきました。
「それより宿題は終わったのか?」
突然勉強の話しになり、終わったよ?と答えるとまた兄はため息をついて
「まぁ、忘れてるならそのままでいいさ。俺も忘れられるなら忘れちまいたい。」
と言い『もう考えるな。』とまたゲームを始めてしまいました。
こうして、私は5ヶ月間の記憶の喪失に気がつきながらも特に困ることはないし、兄が忘れた方がいいと言うならそうなんだろうと深く考えることもなくそのままにした訳です。
今でもこの頃の記憶は思い出せませんが、どんな練習だったのかはわかっています。
そしてもし当時の自分に会ったとしたら私はこう伝えたいです。
「思い出さない方が幸せだよ。」
「それ、大学生のメニュー。」
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