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「楽しい」ってなんだろう?僕らが追求したい「洋服の楽しさ」

1.楽しいとは何か?

前半_悩みとはなにか?を掘り下げることが出来たので、今回の自社のミッションビジョン思索の四国ツアーの旅を続けながら、次は「楽しい」について掘り下げていきたい。


楽しいとは何か?どうなれば人は楽しいと感じるのか?


昔の世界なら封建制のなか宗教や身分や職業が固定化され、ある程度の制限の中で「楽しい」を見つける必要があった。いや、昔の人は生活するに必死で「楽しい」を人生に求めていなかったかもしれない。ただ今の世界は違う。


今は「あなたの楽しいにあわせて人生を過ごしてください」という自由が担保され、各々が好きに「楽しい」を追求することができる。良くも悪くも楽しいは自己責任である。
みんなと旅行に行って楽しいなら、それを追求できる世界であり、ひとりでゲームをして楽しいならゲームを自由にやることができる世界だ。
でも多くの人が、そこで悩むのは「これって楽しいだっけ?」である。



そもそも「楽しい」とはいったいなんだろう?
「毎日の着るが楽しくなる」というのは、どんな状態のことを言うのだろう?


その問いを解くために古典の哲学書や、近代哲学を紐解くが、楽しいは引いては幸福論となることが多い。多分幸福の定義づけにくく、あまり議論として流行らなかったのだろう。私は幸せです。私は楽しいです。で話が終わってしまう。


ただそれでも「楽しい」を考察するために、僕も「自分の楽しい」から「楽しい」を紐解くしか術が残っていない。自分の楽しいから、一般的な「楽しい」を紐解いてみたい。



2.個人的な楽しい体験から、「楽しい」を紐解く

そこで、まずは自分の「楽しい」を考えてみる。

僕は今回の四国思索で「悩み」と「楽しい」ツアーの合間にサーフィンをすることにした。


なぜサーフィンなのか?
それは僕が一番良くわからないと思ったスポーツだからだ。何をどうすれば上手になるのか、想像がつかない。どの波が乗れるのか?乗れないのか?パドリングとは何か?波待ちとは何か?

そして自分だけだと全く歯が立たないと思ったので、インストラクターの講習を申し込んで、四国で人にサーフィンを教えてもらうことにした。


サーフィン講習の当日、僕は何度もインストラクターから波に乗るタイミングで合図をもらい、失敗のたびにバランスのとり方を教わり、重心の置き方を聞き、どこに目線を置くのかの説明を受ける。

何度も波を乗ることを通じて、自分の体をどう動かせば良いのか?ボードのどこを持てば良いのか?どのタイミングで波に乗ればよいのか、どこで身体を起こせば良いのか?などを考えることになる。

そして何度かに一度、波の押し出す力にうまく乗れる瞬間がある。なぜうまく乗れたのだろう?波に乗る、またパドリングをして波に乗れるスポットまで戻るを繰り返す。休みなく。


そして一通りの講習が終わってからインストラクターの先生から「井上さん、サーフィンって、楽しいでしょう?」と言われ、僕は楽しいについてまた考える。



その後も僕の四国の旅は続く、楽しいを考えながら、車を運転しつつ、ふと波を見る。さっきサーフィンをした海岸よりも波が低いことに気づく。波の高さについて考えたことは初めての経験だった。そういえば誰もサーフィンをしていない。どんな波だとサーフィンってやりやすいんだ?


僕はサーフィンを通じ、波の高さに興味を持つ。波の高さと自分が何か関連づいたように思う。波とぼく。映画のタイトルのようだ。サーフィンを通じて、海を見る視点に少しの変化がある。自分の実感としてそう思う。そしてまたサーフィンをするかについて考える。僕の考える楽しいに思考が近接している。



別の具体の楽しいを書いて、楽しいを演繹的に考えてみる。
試みが成功するか分からないけれど、それでも書き進めないと考察は終わらないのだ。



僕の週末の予定の多くは、朝のカフェのモーニングから始まる。
特に何も考えずの近所のカフェに行く。適当に何冊かの本を持っていく。
多くの時間を歴史を学ぶことに使う。もともと歴史の知識は偏っていたので、満遍なく色んなことをやる。

粛々と歴史について学ぶ。明治維新について学び、フランス革命を学び、戦国時代を学ぶ。キリストを学び、アレクサンドロスを学び、坂本龍馬を学ぶ。

全く脈絡がなく、興味のままに学ぶ。
そしてここで絶対にやらないのは、日々のビジネスへの活かすという行為だ。知識としてのマテリアルをビジネスとしてのマテリアルに変換しない。「混ぜるな危険」が歴史を学ぶうえのモットーである。

徳川家康を学ぶことで、何となく知ってたフィリッポス二世がもう少し理解できるように感じたりする、ふと疑問が出てくる「そういえばスレイマン1世は誰にオスマンを承継したんだっけ?」

そしてそういうことをしていると、歴史を自分の知識として蓄積していくと、日々の生活で、ふと何かがわかる瞬間が来る。



以前見て理解していたモノが別の角度からわかることがある。全然違うジャンルでも良い、産業革命を学び、ゴッホのひまわりを再見したり、カトリックとプロテスタントを学びRadioheadのVideotapeを久しぶりに聞いたときに、何かが「分かる」瞬間が来る。


「分かる」というと少し大げさかもしれない。感覚的には自分の感じ方が「変わる」が近いかもしれない。それを通じ、過去の自分でも、誰かの行動でも、誰かの考えに触れ、今までより少し何かが見る目が「変わったな」という手応えを感じることがある。

これが僕の「楽しい」の説明である。



3.楽しいとは変わること

この「楽しい」は、養老孟司さんが勉強について語った本だったかで、「知るというのは「知識」であり、「分かる」というのは自分や人のなにかが「変わる」ことである」と言った。


これが僕の「楽しい」の説明と同義だ。
僕はサーフィンを通じ、歴史を学ぶことを通じ、自分の何かが変わり、世の中の見方が変わった。


音楽が好きな人が、作曲を学ぶことで、聞いていた音楽の理解が変わることも同じだ。同じジャンルの映画しか見ない人が、映画のプロットを学ぶことで、映画の見方が変わるのも同じだ。


これは村上春樹さんの「海辺のカフカ」で、トラックドライバーの星野という粗暴な青年があるキッカケを通じて、クラシックに興味を持ち、ベートーヴェンについて思考するシーンがある、そしてそれを通じて、星野は世の中の感じ方が変わる。それである。


長期的にコンテンツを楽しめる人の多くは、そのような変わる瞬間を体験している。変わるを通じて、今までと違う部分でその何かを知り、まわりの見る目が変わり、またそのなにかについて深く洞察する。



今までコンテンツを見て、勝ったとか負けたとか、おもしろいおもしろくないの感想から、なぜこうなるのか?なぜ自分はこう感じるのか?とコンテンツに対し自分のスタンスを明確にし、コンテンツについて問いを立てられることができるようになる。


問いをもとにコンテンツを色んな角度から考察することが出来る。そしてその体験を通じて、うまくいけば、まわりの見る目が変わり、まわりから得られるモノが変わる。そして人は、退屈だと思っていた毎日の通勤路でも、家族の会話も、同僚との仕事も、何かが少し変化していることに気づく。



そんな経験を通じて、人は日々の行動で別の仮説を立て、立てた仮説を日常で実証していく。これが僕が追求したい「楽しい」である。

ただこれは誰しもが出来ることなんだろうか?
どうすればそのように変わる瞬間があり、世の中の見る目が変わるだろう。



4.変わるために必要なこと

まず変わるためには「強く考える体験」が必要である。今までの自分の思考パターンや、いつも使っている思考のフレームワークから、逸脱した思考でモノを考える必要がある。


その思考を通じて、対象に対する問いを立てて、自分と対象との距離や見方が変わる。そのために強く考える体験が必要だ。


ではどうすれば強く考えることが出来るのか?


そこで参考にするはフランスの哲学者ドゥルーズの「人は、考えることを望んでいない」という言葉を拝借したい。人は出来るだけ、考えないですむように、毎日の通勤も出来るだけ、何の刺激も無い選択を選び、いつもなにかについてか考えてるように見えても、ただ自分の思考のパターンから反応しているに過ぎないと言った。

「人が本当に考えるときはただひとつで、強いショックを受け、必要に駆られた時しかない。」と。そして彼は強いショックを受けるために、映画館や美術館に行き、強いショックを受け、思考が強制される瞬間を作るということだ。

この意見を取り入れたい。僕が感じたことも、観測したことも、大体がそのような体験を経ている。海辺のカフカの星野もそうだろう。



話を整理しよう。
楽しいというのは、何かが分かり、何かが変わることだ。

その変わることで、世の中の見る目が変わる。
そのためには考えることが必要である。ただ人は考えることを望んでいない。考えるには強いショックが必要であり、ショックが契機で人は何かを考える。そして変わる身構えとなる。

では実際にleeapのユーザーに当てはめるとどうなるか?
そろそろまとめに向けて、議論を集約していきたい。



5.洋服の楽しいを実現するために

前回の悩みの文章で、leeapを利用しようと思う人の何人かは洋服のサリエンシーを消化できずに受けた傷をスタイリストに相談し、客体化し具体的な悩みとなると書いた。


そのためにまず悩みを実際的に解決することが重要だ。
実際的な悩みの解決をしてから、ユーザーとスタイリストで悩みを一緒に消化すること。

そして次に楽しむために「思考の強制」を求められた状態において、人は洋服について考える。

leeapではテキストと写真、または動画を使って、この洋服が今回のシーンで正しい理由、なぜこの素材の洋服を届けたのか、なぜこの洋服があなたにオススメなのか。それを伝える。

leeapは毎月のサブスクリプションモデルだからこそ、スタイリストと洋服の悩みを共有し、洋服の好みを聞いて、体型にあわせて、洋服を提供することが出来る。



そして新たな学びが必要な洋服の情報と、相手が新たにチャレンジしたい洋服を提供することが出来る。またユーザーはそれで新たな服を知り、自分に似合う洋服を知る。そのサイクルを繰り返すことで、もしかするとユーザーは何かを知り、何かが分かり、何かが変わるかもしれない。


可能なら、苦手と思っていたアイテムも、新たな洋服のスタイルへのチャレンジも、スタイリストと一緒にやってほしいと思う。



その試みが成功して、新しい洋服の理解が出来た人が、新たな洋服を着て、出かけるときを想像してほしい。

きっと今までと見る景色が変わっているはずだ。



終.僕らが作りたい楽しい

僕は今資本主義に関する本を2冊読んでいる。
1冊は、いま日本でベストセラーになっている齋藤幸平さんの人新世の「資本論」と、マルクスガブリエルの「繋がりすぎた社会に」という本だ。

僕はできれば、何かについて考察するときに別の切り口の本を読むようにしているのだけど、どちらの切り口も、結論として、これから資本主義は大きく変わることになり、このままの消費社会を現代の人の多くがこれまでどおりのスタイルで生活を享受することは無理だと書かれている。

上記の文脈においてゲームのルールチェンジを求められている筆頭はアパレルだろう。大量の洋服を作って、強力な販売のファンクションを実装し、セールを通じて人に売るモデルであった。メディアを通じて「カワイイ」を作り、ライフスタイルとともにパッケージする提案。そのモデルが破綻し、環境からもNOを突きつけられている。



そう僕らは、もう立ち止まって、考えるべきなのだ。
僕らが何を求めていて、何が楽しくて、何が必要なのか。



なぜ洋服を着るのか?



もし大げさな表現を許して頂けるなら、なぜ服を着るのか?という設問は、どんな人生を生きるのか?と同義に思う。それは人生に意味を付与する作業に他ならない。



なぜ洋服を着るのか?会う相手を楽しませたい。出かけた場所で楽しみたいのが洋服を着る理由なのではないか。



僕らのようなサブスクリプションでの洋服をレンタルを通じて、スタイリストにいろんな洋服の悩みを言ってほしい。スタイリストは、問診票の記述はシステムで実装しているが、悩みの対応はアルゴリズムなんかじゃなくて、生の人間が対応している。



リアルにあなたの悩みをスタイリストはデバイスを通じて聞いている。
「どこに洋服を着ていくのか?」「誰と会うのか?」について話すときに、多分出会う場所でどう過ごそうかに思いを馳せるはずで、それが一番大事なことに思う。


ミッションを通じて、洋服が少し分かる。そして世の中の見る目が少し変わる。その体験を少しでもよくするための洋服を僕らは作って、コーディネートを提案して、その体験をもっと良くなるようにお手伝いしたい。出かける場所や会う人について考えるお手伝いをしたい。まだまだのサービスだけどそれでも。



ユーザーひとりひとりが、シーンに意味を付与する。



多分、そんな世の中って、楽しく豊かに違いないのだ。
そしてそれが僕らが作りたい世界なのである。




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