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僕の好きなクリエーター 055千利休

千利休

千利休という人物は商人の家に生まれた。裕福な家柄だったが、大黒柱となっていた父親が死んでからは、貧乏のどん底に落ちていく。

が、茶道を極めたおかげで師匠に認められ、茶器などを売り、成功する。 そのうちに織田信長と茶道を通じて交流するようになり、出世の道を歩むことになる。

千利休の悲劇は織田信長が本能寺の変で倒れて、豊臣秀吉が天下を取り、彼の元で使えるようにになった時から始まったのでは無いかと思う。

利休は謎の多い人物と言われる。なぜ秀吉に切腹を命ぜられたのか?なぜ地位も富も自由になるのに最低限の生活しかしなかったのか?それが謎だというのだ。

これの答えは簡単だと僕は思うのだ。千利休という人物は 禅に生きた人だからである。茶道の発端には禅がある。

茶道とまたもや禅

禅というのは生きるためのギリギリの生活をするのが悟りへの道とする修行である。禅僧はそれはそれは苦しい修行をしなければならない。およそ世の中の快楽のためのものや情報と縁をたたなければならない。
音楽もない。食事も生きていくギリギリのものしか口にできない。もちろん酒やタバコもダメ。睡眠もぎりぎり。朝起早くから起床し、掃除から始まり、お経、写経、断食、布団に入っても寒くて眠れない日々、最低の生活。 およそ富や欲望という煩悩を生む事から切り離された生活を強いられる。生きていく上で最低限のものを持つことしか許されない。その中で悟りを開くことをヨシとするのが禅修行である。

ではなぜ千利休は、名誉。地位。金銭、全てを手に入れて行ったか?己の身を禅に置き、茶道を極めつつも、しかしながら名誉 地位 富を貪るその姿は一見矛盾しているように思える。だから謎となるが、

命をかけた美意識


だが僕にはそれが彼の美意識を高める唯一の方法だった気がする。彼の美意識というものはそれは厳しいものだったに違いない。

それが故に、安くみられることも許さなかった。だからと言って裕福な生活をしていたかというと、おそらくしていなかったのであろう。そういう姿こそが彼の美意識に反するからだ。
千利休の生き様というものは、禅を通じて悟りを得るのではなく、茶人としての究極の美の追求をするクリエータだったのではないだろうか?茶道というのはもともと 中国から伝わったものである。だが、千利休の茶道は、禅の真髄たる空の追求だった。
なので彼の茶室は質素だった。それがワビサビという日本独自の美に通じていった。
彼が秀吉に切腹を命ぜられたのは 結局、何も分かっていないセンスのない秀吉を許せなかったのだと思う。 田舎者で、美学のかけらもなく。富を自慢し、自らの設計の茶室を自慢する。それは醜悪だったに違いない。煩悩の限りを尽くす秀吉を千利休は嫌いだった。   

だから常に、秀吉を諌めた。いや、馬鹿にしていたのかもしれない。そういう日頃の態度が、秀吉の反感を買ったに違いない。

美意識に恨みがつのる

そして千利休自身も秀吉の反感を買うということは分かっていたはずだ。自分は殺されるかもしれないということも分かっていた。
それでも自分の究極の美学を貫く道を選んだのだと思う。それほど煩悩に溺れた秀吉のセンスが絶対に許せなかったのだ。秀吉もまた利休を許せなかった。何かにつけてあれはダメだこれはダメだと言っていたに違いない。
秀吉というのは利休のスポンサーだったはずだ そのスポンサーのセンスが許せない。

僕だってスポンサーのセンスが許せない時がある。でもせいぜいそういう仕事は断るくらいしかできない。
生活できないとしたら断ることさえできないかもしれない。

千利休だって辞められるなら辞めたかったのかもしれない。ただ、彼の場合はあまりにも周りに慕われていた 人気があったのだ。

まあまあで生きて行けたらそうしたかったのかもしれない。でも彼の生き方を自ら否定するような発言や行動がどうしてできようか。

利休は言わば、究極を追求するクリエータだったのだ。自分のコンセプトを貫くために、死ぬような目にあっても、クライアントすら許せなかったのではないかと僕には思える。



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