外国語をやるなら音声言語(聞く・話す)から慣れるべき
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外国語をやるなら音声言語(聞く・話す)から慣れるべき

learning1.0 - 辿々しく辿る

最近、「英語ができるようになりたい」という方が非常に多い。大学で外国語を学んだ身としては、これだけが取り柄なのだが(勿論私よりも外国語が出来る人なんか星の数ほどいるが)、逆に経済学や国際比較、などを専攻している人と比べると幾分劣等感も感じる。劣等感というのは自分の専門分野がありながら外国語も話せる人がいるのに対し、私は外国語くらいしか取り柄がないからだ。でも人はそれぞれの専攻分野から学びの世界(真理というやつ)を広げていけば良いとも思っているので、私は言葉の世界から色んなものについての理解を展開していきたいと思っている。

「英語ができるようになりたい」という方の動機付けは転職や給与の上昇といったものが多いような気がする。そしてTOEICなる日本と韓国ぐらいでしか評価されない、肝心の英語圏でほぼ全く評価されないに等しい試験をお金を払って受けている。ただ、昇級のために大して使うかわかりもしないが学ぶのが億劫な学びは苦痛でしかない。やはり英語を学ぶからには、日本語で知ることができないもの、触れることができないものに触れる、新しい考えに接する、文化的背景が異なる人と交流して、人として立派になったり、より見識のある人間になることを目指すのが良いと思う。

自分が関心がある外国語に関することを、読む人に参考にしてもらえればと思って、書いているが、もしヘイトスピーチhate speechに代表されるような排外主義chauvinism的な人や、差別的な人が外国語を学びたい場合は、是非他を当たっていただきたいものである。言葉はいつの時代も暴力として使われる。日頃、排外主義的でない人でさえも、感情的になると言葉で暴力を振るう。いわんや日頃、ヘイトスピーチなどしている人に他言語という更なる暴力の機会を与えるなど、冗談ではない。そのような人は、是非とも海外と交流しようなど思いもしないでいただきたいとすら思う。

前置きが長いのがいつもの悪い癖だ。外国語を学ぶ際には音に慣れろ、というのが本日のお話。音、つまりは聞いて理解できたり、話せるようになることの方が大事である、ということである。これは、上述の「外国語を使って交流すると視野が広がったり、見識を深められるから良いよ」というのが理由ではなく、言語は元をたどれば音声情報であるから、という理由によるからである。

少し想像してもらえればわかると思うのだが、人間は動物の一種であり、人類となる前は勿論他の動物のように鳴き声で意思疎通をしていた。その後、原人等含めたヒトとなってすぐに今のような言語を話していた訳ではない。おそらく動物の鳴き声から言葉による意思疎通に徐々に変わっていったのであろう。なんなら話し言葉よりも歌の歴史の方が古いのではないか、とすら思う。そして、その鳴き声話し言葉に推移していった数百万年前から何十万年前にかけては、文字など全くの皆無であった。言語を意味するlanguageという単語の原義はラテン語のlingua「舌」であることからも言語の本質が、かつては話し言葉spoken languagesであったことがわかる。
文字が生まれたのは多くの人が世界史で習うように、もっとも古いものでメソポタミア文明(楔形文字)やエジプト文明(象形文字)の紀元前3000年代。狩猟採集によるノマド生活Nomadic Lifeから、定住革命(Agricultural Revolution)と呼ばれる文明勃興期の定住化により、文字による記録が行われるようになった。定住化は、所有の概念の発生と期を同じくする。狩猟採集時代は、得られる木ノ実、果物、狩った動物は誰のものでもない。誰のものでもないから取って食べてよかったし、食べ物が減ってきたら定期的に場所を変えて移動して、また誰の所有物でもない土地に移っていった。
それが、定住後は住む場所や耕す畑などの土地を所有する概念が生まれる。狩猟採集時代は誰も使ってない場所にある誰のものでもない食べ物は勝手に取って・狩って食べてOKだったが、所有が始まると誰も使ってないものでも、それは誰かのもの(所有物)なので、勝手に取って・狩って食べることができなくなった。そして所有物の帰属を決めたり、収穫したものを定量的に測って記録して、税のように納めて分配したり、定住民どうしで争いが起きた時の調停や裁決の規則(法)作りに文字で記録することとなった。狩猟採集のノマドライフにおける、力づくの縄張り争いには法も文字も要らない。取得した食べ物はほどなくして食べきってしまうため、所有、年貢、納税の概念もないから記録も法も文字も不要。狩猟採集時代の人々は150人以下の小さな集団で非定住生活をしていた。この150人程度が人がまとまれる最大の集団であった。つまり人類の長い歴史でも定住して規則や法を守る生活をするのはここ最近の話でしかない。

話が逸れたが、つまり、音声としての言語の方が、文字としての言語よりよっぽど古い。個人的な感覚なので、脳科学や認知学的に正しいかはわからないが、人は視覚情報よりも音声聴覚情報の方が敏感なのではないか。TVが本格化する前はラジオが主流であったし、TVが普及してもラジオやポッドキャストはいまだに生き延びている。また参考書をいくら読んでもわからないものが、人に解説してもらえるとよくわかることもある。

さらに言うと、今でこそ文字lettersと話し言葉spoken languageが一つの対(つい)として言語体系を形作っていることが多いが、言語体系に文字があることは別に当たり前ではない。文字を持たなかった言語は昔はたくさんあった。ただ強力な記録手段としての文字を持たなかった言語は話者がいなくなると死語となるリスクが非常に高く、代々伝承したとしても、他民族に攻め込まれるなどしたら、言語もろとも文化的社会が丸ごとたちまち滅亡する。大和言葉には文字が無いが、現在の日本語には文字がある。でも、現在の日本語の文字は、中国から輸入した漢字と、その漢字の形を潰して簡素にした平仮名と片仮名である。漢字は漢民族の言語である漢語(中国語)の文字。大和言葉由来の文字は残念ながら無い。古代日本人がどう言った言葉を話していたかはわからないが、「いろは」という音はあって人々はそれを発していたとしても、それを記述する手段がなかったわけだ。

なお、欧州に限らず全世界で使われているアルファベット(例えばヴェトナムもアルファベット圏である)は、主には定住革命(紀元前4000年ごろ以降)後の、前1700-前1500年ごろに地中海の東側から形作られて言った。それが恐らく現在の英語の祖先となる言葉を話していた人たちも文字を持っていなかったので、アルファベットを取り入れたのだろう。なお、このalphabetは読んでの通り、ギリシア語におけるAとBである「αアルファ」「βベータ」に由来する。日本語の「いろは」と同じ感覚。上記の通りヴェトナムはアルファベットを使っていながら、単語の一つ一つがとても短い(1音節の単語)のは、歴史的にかつ文化的に中国の影響が非常に大きいからだろうか・・?

余談だが、南米のインカ帝国のケチュア族のケチュア語、その周辺のアイマラ族のアイマラ語は文字がなかった(インカ文明自体にはキープと呼ばれる縄の結びの数で記録する数の記録手段はあった)。インカ文明自体はスペインの入植者に侵略、滅亡させられたが、その末裔がスペイン植民後に入ってきたアルファベットを使い、ケチュア語の文字としている模様。ただ元々のインカ語やアイマラ語にアルファベットを無理に適用して使っていているので、異様なほど長い一つづりの語などがある(上記のキープの綴りquipuもケチュア語の音にスペイン語のアルファベット音を適用して、後から充て文字としたものだろう)。この画像(こちらから拝借)はアイマラ族の末裔でフォルクローレ(民俗音楽)のグループのアワティーニャスAwatiñasのアルバムジャケットなのだが、この画像の上の方にWiñaypachjakapxañanakasakipunirakiwaという駄々長い語がある。どう考えてもアイマラ語の語に、後から別の言語体系のアルファベット文字をあてたとしか思えないほどの長さ。よく、「ドイツ語の単語って長いよねぇ」と世界中から揶揄されるドイツ語でもこんなに長い単語はない。

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ラテン語はローマ帝国the Roman Empireの言語で、ラテンアルファベット(現在の英語と違い、Wはなく、古典ラテン語ではJやUもなかった。JはI(i)、UはVを変形させて後世に新設された)と言う文字がありながら、帝国が滅亡した後はフランス語、イタリア語、スペイン語、ルーマニア語などに変化し、中世末期には主には聖書を書く言語、聖職者の言語として使われるなどで、ラテン語自体は文字がありながらほぼ話者がいない死語となった。(ただし、現在もバチカンthe Vaticanの公用語(イタリア語も公用語である)で、少数の聖職者の言語として生き残っている)。なお「ラテン語」を意味するLatinは、現在のローマ市周辺の地域の「ラティウムLatium」の言語を意味していたが、ローマ帝国の拡大によって、帝国全域で話されるようになった。なおこのラティウムLatiumの地名は、現在のローマ周辺地域のラツィオ州Lazio[フットボールクラブの名前としても]としても残っている。

さて、言語体系は、音声言語が先にあり、文字が後からできたため、文字表現には当て字みたいなものが珍しくないことを見てきた。これは日本語でも秋葉原という地名は通常「アキハハラ」やせいぜい「アキバハラ」としても読めるが、我々はアキハバラを秋葉原と綴るのを自明のものとしている。また福岡には新田原という地名がある。「シンタハラ」と読みたいが「シンデンバル」である。なお、福島県の新田原は「シンデンハラ」、長崎県の新田原は「シンタバル」、宮崎県の新田原は「ニュウタバル」である。大阪の放出は「ハナテン」、大分にある安心院は「アジム」など、これらは元々の地名に漢字を当て込んだ当て字である。地元に人には何の違和感もないが、よそ者にはわかりようもない。ただ日常生活のありふれたもの(=地名)に、体系化されたシステム(=文字)を当てはめるとどうしてもこのような形になる。

そして他の欧州系の言語の中でも、英国の地名ほど諸外国の人を悩ませる地名はない。これらの地名も恐らく当て字なのではないかと思う。
Greenwich:グリーンウィッチと呼びたいが、「グレニッジ」(ɡrénɪdʒ)
Greenwich同様、Norwichは「ノリッジ」(nɒrɪdʒ)
Woolwichは「ウリッジ」 (wʊlɪdʒ)日本語の「ウ」と音はだいぶ違うが便宜上。
Chiswick:チズウィッチと発音したいが、正しくは「チズィック」( tʃɪzɪk)
Leicester:レイセスターではなく、「レスタ」( lɛstə )
Gloucesterはグロセスターではなく「グロスタ」 (ɡlɒstər)

上記は、地名であるためみるからに当て字だとわかるが、普通の英単語も当て字は多いことも覚えておくべきだろう。
wind[n]「風」の発音は「wɪndウィンド」だが、wind[vt]「巻く」の発音は「 waɪnd ワインド」である。poor[adj]「貧しい」、pore[n]「孔(あな)」、pour[vt]「注ぐ」のこの3つの単語の発音は全て「pɔː(r)/pɒː(r) ポー」であり、sun[n]「太陽」とson[n]「息子」も発音は共に「sʌn サン」であることからも、日本語同様、英語も当て字だらけだということが読み取れよう。ある人が「ポー」という風な音声発音を聞いた際に、発音と文脈からpoor、pore、pourのどれなのかが分かるようならないと、通常の速さの英会話についていけない。そのためにも ポー [pɔː]の音声発音と上記の3つの単語を自分の脳内の仕込んで言葉の球を拾う網を広げておく必要がある。でなければ、その音が耳に入ったところで、とっさに反応ができない。反応ができないと、その後に続いていく他の単語や文章についていけなくなる(とはいっても数回程度であれば聞き返せばいいのだが)。

ちょっと別に言い方をすれば、英語が聞けて話せる様になる過程は、カラオケで一つの曲を最初から最後まで歌える様になる過程、に少し似ている。でも後者の方が圧倒的に難易度が高いが。「最初から最後まで」とあえて書いたのは理由がある。曲の特定の部分(あまり好きな概念ではないが「サビ」などと呼ばれる部分)だけ歌えるのではなく、全部が歌える、ということである。一曲全部歌い切るためには、まず曲の旋律(メロディ)を最初から最後まである程度わかっていないといけない。そしてその旋律に合わせてどうった言葉を散りばめて載せていくかも記憶している必要がある。速い曲などでは、考える時間がない。瞬時に身体が反応する必要がある。そして、その旋律に乗せる単語が発音できている必要がある。そうすることによって、旋律に合わせてよどみなく歌を口ずさむことができる。

各言語にはその言語に特徴的な旋律(の様な独特の音階)がある。NHK-BSなどでやっている世界のニュース番組を副音声で原音で聞けばわかると思うが、あの旋律や音階の感じで発せられる音が聞き取れて、あの旋律や音階の感じに単語を乗せて話せる様になれば、上級の英会話にもついていけるし、英語を母語とする人の中に入っても会話に概ねついていける(気を抜くと置いていかれたりもするが・・)。文章をここまで長々とつらつら書いてきたが今日の結論は実はこの部分だ。「英語の旋律に慣れて、その周波数の波に乗って聞いて話せる様に慣れば英会話ができる様になると思うよ」ということである。

そして元も子もないが、英語の旋律に乗れる様になりたければ(外国語が上手くなりたければ)、その言語が日常的に話されている地域に行って住むのが一番。毎日その言語に意識的に、無意識的に目で・耳で触れるわけだから、慣れるにはもってこいで、これ以上の環境はない。ただ言葉を身に付けたい意思がないと、勿論身に付くことはない。それが難しいなら、吹き替えの映画を見るのをやめ、字幕にする、日本語を母語としない人と日本で仲良くなる、といったことでなるべく外国語に身を晒すことが手助けになる。(慣れると吹き替えで原作の良さが失われてることに気づくし、字幕すら原作を台無しにしてることもある。さらにいうと映画や音楽の邦題が不要でダサくてどうしようもないことにも気付く)
そして、その際は意見の違い、考え方の違いを認めることが大事だ。日本文化を自明のものとしている我々と幾分異なる考えを持っている人も少なくない。そう言った違いに触れるのはいいことだと思える様に慣れば世界観はもっと広がる。

今日の結論は、英語を含めた外国語をやる際は、まず音声を覚える事。そして英語のリズムと旋律に乗って、ある単語の音を察知して、その瞬間に、その意味や綴りが無意識に頭に浮かべば、上級話者への入り口。音声を覚えると共に、その単語の持つ意味を脳内に仕込んでおくことが大事。その単語に触れる機会が多ければ多いほど脳はとっさに(しかもいちいち日本語の意味を意識することなく)反応してくれる。そして、そういった事前に脳内に仕込んでおくことや、単語の数をできるだけ増やしておくことで、脳が捉えることができる網をどんどん大きくしていける。網が大きくなれば、より多くの情報が入ってきても脳が処理してくれる。この網を大きくするというのは、単語を覚えるに限った話ではなく、別の分野の知識なども生かすことができる。英語ができない日本人の技術者も、技術者どうしあれば、外国人と技術的な話ができたりするのがその証拠。

脳の網を広げる。学びに終わりはないようだ。

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ありがとうございます。長文・駄文ですがまた読んで頂けると嬉しいです。
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学び1.0へ向かって。本質に向かって。多様性が生み出す意外性や新たな気づき、発見を大事にしたい。ゴーヤの写真はVelvet Underground & NicoというCDのパクリです。Chop it into halves and scrape out seeds inside