見出し画像

#25 『鹿児島〜沖縄へ』(鹿児島)

話し相手JAPAN TOURとは


『鹿児島支店のつづき』

「いやいや、お前ら、本店の場所に支店作ったらアカンやろ」

16時頃、ちょっと早めに天文館通りの十字屋に着くと、その場所に『鹿児島支店』があった。
2人とも笑ってたけど、完全にクーデター起こす気やったな。

鹿児島に到着(7月9日)して天文館通りの十字屋の前で『話し相手JAPAN TOUR in KAGOSHIMA』を始めたのが翌日の10日からでした。
その日にダンボールに『鹿児島支店』と書いて、ちょっと離れたところで16歳の男子2人が話し相手なのかナンパなのか微妙な活動を始めてました。

彼らにとっての『話し相手』の初日に無事?2人組の女子とカラオケに行くというサイコーの結果を得て、2時間後歌い終えて戻ってきた時に「この技すげぇ、最強っすね。」と言ってテンション上がってました。
そして、クーデターは次の日に起こったのです・・・

結局、2人の青年将校は、あっさりクーデターを撤退し、昨日のポジションで支店を開店し、何人かと話し相手をしてから「祭り行ってきます」と言って、初心者マークを付けたダンボールをオレに預けて去っていった。

22時頃、国分から原チャリでやってきた群馬県出身の大学生、ユウタくんと話してた時に『その人』は、やってきた。



『その人・・・前田さん』

夜中にタンクトップで短パンという、ジョギングしてるランナーとしては正しいが、天文館通りとはミスマッチな人が通り過ぎていった。
ちょっとして戻ってきたその人は

「福島さんですか?」
「ええ、そぉですけど」
「いやぁ、よかった。」
「はい・・・」
「アキヤマさんご存知ですか?結婚式の時に司会をされた」
「はいはい、司会しました。アキヤマさん、知ってますよ」
「アキヤマさんから連絡があって、生存確認を頼まれました。」

あの頃、パソコンも持ってなかったので、ノートに書いた日記を1〜2週間程遅れて、ホームページの管理人さんにコピーして送って、それをまとめてアップしてもらうという実にアナログな事をしてた。

1ヶ月ほど前の日記に、所持金6円で国道3号線を福岡に向けて歩いてる時に岸谷五朗さんに見つけてもらって救われた(いや、むしろ、かなりのロスタイム?)奇跡のようなエピソード(#19 『20年借りっ放しの2千円』)があった。
その記事を読んだアキヤマさんが、前田さんに「天文館通りに6円しかなくて、死にかけてる人いるから見てきて」と連絡したらしく、前田さんは、トライアスロンで鍛えた自慢の足で走って生存を確認しに来てくれたのでした。

ただ、日記には当然タイムラグがあり、この時点で6円しか持ってないままだったら、死にかけてる少し先に辿り着いてただろうと思うのですが、アキヤマさんのおかげで、前田さんと出会えました。


前田さんは、アキヤマさんに「ピンピンしてました」と報告してくれた。
安心してトレーニングに戻ったかと思ったら、またしばらくしてビール2本と焼酎1本(しかも一升瓶)たくさんの焼き鳥を持って戻って来た。

「おふたりでどぉぞ」

そう言って走り去っていった。
この時『話し相手』にいたユウタくんと、急遽、居酒屋『話し相手』がオープンした。

鹿児島7

ユウタくんは原チャリだったので食べる担当で、しばらくして居酒屋の常連さんが帰るトーンで「また来ます」と言って帰っていった。

この日も鹿児島中央公園で野宿だったが、寝てる時に雨が降ってきた。
突然の雨、しかも寝てる時に起こされても全く俊敏に動けない。何が起きてるのか、どこにいるのか、なぜ雨に打たれてるのかが分からなくて、徐々に気づいて、ものすごい敗北感の中で雨宿りできる場所に移動するのだが、ベテランのホームレスは違う。

寝るために敷いてたダンボールを、何事もなかったように自分の上にかぶせて・・・そのまま寝続ける。移動もしないし全く慌てない。

それを見て「オレは、まだまだやな」と思う。いや、アカンアカン「まだまだ」って思ったらアカン。この程度が、まだ引き返せるポジションだと雨宿りしながら思う。

次の日のお昼に仕事中の前田さんがやって来た。前田さんの仕事は宅配ドライバーで

「うちでバイトしますか?」
「え〜〜〜〜〜!いいんですか?」
「所長に話したら、面接に来られるかって言うもんで」
「今から行きます。このまま行きます!」

というワケで、昼過ぎには所長さんと会い、次の日からのバイトが決った。オレより全然若い所長さんで、超短期の3日間バイトさせてもらうことになった。そして偶然にも同僚が出来た。

2日前に初めて『話し相手』に友だちと一緒に来た高校生のマユミちゃんが、この日も来てくれてバイトの話になり、オレが働く次の日から同じバイトらしく17歳の同僚に盛り上がった。

「だったら家で休んでから出勤してくださいよ」

となったのだが、いやいや、さすがに女子高生の家には・・・え?実家?あ、そりゃそうやんな。ただ、実家だからいいというわけではないが、お母さんと、お姉ちゃん、そしてお兄ちゃんもいるということで、ご挨拶程度にお邪魔した。

マユミちゃんは、最初に『話し相手』のテーブルを見つけた時「あの人、絶対に『どう〜なってるの!?』でヅラ被ったりしてる人だよ」と、友だちのアイちゃんを連れてやってきた。
実家にお邪魔した時は、お母さんが「あ〜ッ『どう〜なってるの!?』の人だ!」と喜んで?くれた。

鹿児島は『どう〜なってるの!?』視聴率がとても良かった。

この日は、栗脇家で昼寝をさせてもらい、起きたらマユミちゃんが、ヤキソバを作ってくれて、そのまま天文館通りへと向かった。

あの頃の毎日の時間割は

18時頃〜 話し相手JAPAN TOUR in KAGOSHIMA

帰りは夜中になるので鹿児島中央公園で野宿すると言ったのですが、栗脇母さんが「ダメ!ウチで寝なさい!」と温かく言ってくれたので、そ〜ッと帰るのですが、お母さんは起きてて、結局3人も起きてきて、ワシャワシャなりながら温かい時間を過ごしてから2時間ほど仮眠をさせてもらい、早朝バイトに出かけてました。

AM5時〜16時まで、宅配業社倉庫での荷物仕分けのバイト
16時過ぎ〜栗脇家で仮眠
18時頃〜話し相手JAPAN TOUR in KAGOSHIMA
AM3時〜仮眠
AM5時〜16時まで、宅配業社倉庫での荷物仕分けのバイト

今、この時間割は無理。
よく体がもってたなと思います。それでも、あの頃の日記には
「あれ、いつ寝る?」
と書きなぐってました。


『鹿児島の祭り』

鹿児島の照国神社のお祭り『六月灯』が、毎年7月15,16日の2日間行われる。7月中旬に『六月灯』という謎は残るが、1週間ほど前から徐々に祭りの雰囲気があったが、15,16日が土日だったこともあって、なんか天文館通りが、人で溢れてた。

16日の早朝もバイトで始まり、その日の夕方、所長が、ミスタードーナツを芝居の差し入れサイズの箱で持って『話し相手』に来てくれた。
博多での最終日にも『BELL FLOWERのヒデキさん』が、これまたミスタードーナツを同じく一番大きな箱で持って来てくれた。

ミスタードーナツを持って(短い期間)部下の職場以外での働きっぷりを見に来てくれた、長嶋茂雄以上にオレの中でのミスターだった2人。
上に立つ人の上に立つ理由が少しだけ分かった気がした。

それ以上に、所長さんのステキな部分を1年後に知ることになりました。

本来なら、会社と所長さんの名前も書きたいところなのですが、所長さんは(おそらく)会社のルールから外れた中で、住所不定・自称コメディアンのバイトを許可してくれたので、ここでは会社名とともに伏せておこうと思います。

あれから毎年、前田さんとは年賀状のやりとりをしていました。2001年の年賀状は、前田さんが家族みんなで海をバックにし『ハワイにて』と書いてたのですが、後ろの方にデッカく『カレーうどん』という看板が見えていて、その後ろには、桜島が写ってました。

そんな前田さんから、所長が九州全体のエライ人になったと聞きました。それともうひとつ、1年前の面接の時のことを聞きました。

「実は、うちの会社結構厳しくて、日払いで雇うのはダメなんです。」

そもそも3日間という短期でのバイト自体が禁止だったそうです。
前田さんに誘ってもらい履歴書は出しましたが、住所も江古田の引き払った家の住所なので、ホントはそこには住んでないということも伝えてました。リュックを背負ってテーブル抱えて、髪の毛(キムタクみたいな)ロン毛のどの部分を見て採用してくれたのか分かりませんが、所長の独断で採用となりました。

バイトとして給料を支払うのは(もし短期でクビになったとしても)1ヶ月後に振り込むのが規則で、3日間の最終日に給料袋で手渡しというのは、コレまでなかったそうです。なので、僕の給料袋に入ってたお金は、所長のポケットマネーでした。手書きの明細までちゃんと入ってました。

そんな事を所長はヒトコトも言わずにバイトとして雇い、次の日にただのバイトの本職を応援しにミスタードーナツを持ってきてくれて、最終日に笑顔で送り出してくれました。

最終日のお昼休みに、お世話になったみなさんに挨拶をして記念写真を撮りました。昼休みが終わり、荷物を積んだトラックが午後からの配達に向かう時、みなさんが順番にクラクションを2回鳴らして出て行きました。
ものすごく嬉しいのと『恋人だらけ』のようなコッパズカシさが混じってました。


『次男の長男』

「ただいまぁ〜」

福島家では次男だが、栗脇家では人生初の長男をやらせてもらってた。お母さんと3人の妹弟妹は、夜遅くに帰って来る長男とワシャワシャ過ごし、明け方にはバイトへ出かける兄を見送ってくれるという不思議な2日間だった。

鹿児島での最終日は、いろいろ考えて結局中央公園で寝ることにした。
芝生の緑が、めちゃくちゃキレイだったので、大の字になって芝生で寝るというのも良かったが、ベンチで寝る時の楽なポジショニングも覚えてきたので、自然とベンチをチョイスしてた。
芝生は、ちょっと旅を満喫してる感があるが、ベンチは日常感がある・・・気がする。


沖縄行き18時のフェリーに栗脇母さんが、弁当を持って見送りに来てくれた。次男の(本来は長男なのだが)イチローくんも、ちょっと遅れて来てくれた。マユミちゃんは、バスケの大会に出るため練習が抜けられないので来れないと、長女のエリちゃんも就活で来れないと・・・いや、そりゃそうだ。もう十分送り出してもらってるから大丈夫だ。

まだ出発まで時間があるが、栗脇母さんは、すでに泣いてる。このまま泣き続けると脱水症状になるぐらい早めに泣いてる。
フェリーに乗り込んでから、なかなか出発せずに雨が降ってきた。この時期の南国の雨は激しくて、奥行きの狭い屋根の下で雨に濡れながら待ってるので「待合室に入って!」と言うのだが、2人は聞いてくれない。

鹿児島6

南国のフェリーだからノンビリしてるのか、出航時間になってもフォークリフトがフェリーを出たり入ったりして荷物を積み込んでる・・・おい、早く作業を終わらせてくれ!

もしかしたら、見送り待ちの2人も、船が時間通りに出ると思って雨の中でも待ってくれてるのかも・・・頼む、早く出航してくれ!!

鹿児島での日々とか、出会ったみなさんに感謝とは違った思いが強くなって焦ってくる。オレが焦るのも違うのだけど・・・もう、荷物ええから

「船長ッ!船はよ出してくれ!」

と願う。

結局、1時間ほど遅れてフェリーが出航した。
栗脇母さんと長男の次男イチローくんが、雨の中ずっとフェリーを追いかけながら手を振ってくれてた。
お弁当と一緒にマユミちゃんからの手紙が入ってた。
お腹は減ってるけど弁当は食べられへんわ、胸いっぱい過ぎて。

栗脇家のみなさんとは、今も交流があります。

『話し相手JAPAN TOUR』が終わってからも、鹿児島で番組に出たり、鹿児島で舞台をやることになったり、鹿児島出身の吉俣良さんが、2011年から毎年主催している【東日本大震災のチャリティライブ】に出させてもらったりしていたので、長女のエリちゃんと会場まで駆けつけてくれる。

そして、別れ際、栗脇母さんは、必ず泣くのです。


鹿児島にたどり着くまでにも、いろんな場所でいろんな人に肩を押してもらってきた。『ひとり駅伝』みたいで、体にはタスキがたくさん巻き付いてました。

鹿児島5のコピー

次回は、沖縄に上陸です。
っと、その前に屋久島に立ち寄った時の事を少し。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?