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21/06/23 わかってねーなと思うこと その1

他人に対して、わかっている人とわかっていない人という分類分けをするとすると、わかってねーなと思う基準が生まれるわけで、最近その基準を自分の中で明確に感じるようになってきているという話。

僕が何を言っているかわからないと思うけれど、今、自分がわかっていないということを同時にあなたはわかっているだろうか。僕の中でのその「わかってない」という判断はそこに生まれる、つまり、「自分がその時わかっていないことをわかっているかどうか」ということが基準になってきている。


人が人の話を聞いてその内容を理解できた状態になるとき、つまりこの文脈でいう個別事象に対する人間の理解パターンには2種類あって、一つが「頭での理解」、もう一つが「肌感での理解」だ。「頭での理解」に関しては割とすぐ受け入れやすいと思っていて、つまり、人の話を聞いて論理的に相手のいうことを理解できることを「頭での理解」と僕は呼んでいる。

一方、「肌感での理解」に関してはかなりの人が低い解像度でしか認知できていないと思っている。「肌感での理解」の僕の定義は、対象のエッセンスの論理構造と言葉の意味する内容とを有機的に頭で理解し、それを自分の経験や身体感覚と比較対照し、自分の二次元の地図(論理による理解/経験による感情的判別)上である一定のポジションに置くこと。もっと簡単な言葉でいうと、人の話を頭で理解した上でどのくらい共感できるかを測り、その自分の状態を認識すること。

「頭での理解」に関しては、少し頭のいい人であれば日常的にやっていることだと思う。論理構造とその有機関係を理解した上で人の話を聞いて理解したつもりになることは悪いことではないし、その文脈によってはかなり重要なスキルだったりする。

けれど、最近僕が「わかってねーな」と思うのはまさにその特定の文脈でしか理解できない人に対してのことで、つまり「頭での理解」をしただけで「わかった気」になっている人。あなたの周りにもいませんか?そういう人。「肌感での理解」が疎かになっているくせに知識だけを振り回して、生産性だけを追い求める人。その人はそれで幸せなのかもしれないけれど、僕はできることなら自分の半径1mの人間関係からは排除したいなと思ってしまう。

そういう人は大抵知識や人から聞いた話が自分ごとになっていなくて、出てくる話がほとんど二次情報でしかないことが多い。二次情報の量で戦わないといけない文脈では確かに有用な人間ではあるけれど、一次情報を持っていない人間は結局人として面白くない。

人から聞いた話も、本を読んで得た知識も、自分の感覚と経験と照らし合わせて「肌感で理解」することで初めてその人自身の経験になるはずで、そのプロセスを知らない人間が意外と多い。そういう、自分がわかってないことをわかっていない人間は結局人のこともわかっていないから、そのあたかも達観している、理解している風で生きているのが側から見たら結構に滑稽だったりする 最近のわかってねーなと思うこと、その1でした。

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