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喜びをほかの誰かと分かりあう

ひとり目の子が生まれたのは2011年の東京で、もちろん少なからず、震災の影響を受けていた。

妻の妊娠中に起こった大地震で、原発事故の情報も錯綜していて、今とは少し違う理由で、いろんなイベントや催しが自粛ムードになっていた。
とはいえ、自分のできることは少なく、いつもどおりでいることがとても難しいと感じた年だった。
震災でなにかが変わったわけではないけれど、ずっと安心で安全なものなんてなくて、信じて立っているこの場所もまたいつ揺らぐかわからない、ということを何度も確かめたように思う。
私たちの街や社会は不安定な岩盤のうえに作られていて、人の作ったものに「絶対」な安心も安全もない。それを前提にして、仕組みを整えて、整えることを、続けていく。

その次の年には、転職して大阪に引っ越している。大阪に引っ越すことになったのも、いろいろな偶然が重なったのだけど、子どもも生まれ、なんとなく東京にいづらくなったのも正直ある。
東京は、たくさんのイベントがあり、新しい情報があり、文化が生まれていく街だけど、育児をしているとそんなたくさんの情報に触れられないし、参加するのも難しくて、そうしたものを享受できずに高い生活コストを払い続けるのがしんどくなった。

震災の影響もあっただろうか。たぶん、当時はとても気持ちが揺らぎやすい状態になってて、どこかに救いを求めていたように思う。震災が起きても変わらない東京の日常、変わらざるをえない生活を送る人々のこと。私もなにか変えたかったのかもしれない。

私は、たいした被害も受けていないし、いつもどおりの日常も送ることができる。だから、なるべくいつもどおりいよう、と思っていた。

喜びをほかの誰かと分かりあう
それだけがこの世の中を熱くする

小沢健二『痛快ウキウキ通り』

自粛ムードな世の中や、たくさんの悲しみに飲まれそうな気持ちを吹き飛ばしたくて、その頃いつも口ずさんでいた歌詞だ。今思えば、相当に影響受けてるな、と思う。

大阪で、「震災」といえば、いまでも阪神淡路大震災のことだった。引っ越してすぐの頃、このへんは震災のときも大丈夫だったから安心していいよ、と同じ団地に住むひとが教えてくれて、それが東日本大震災のことではないのに気づくのに、少し時間がかかった。 

わたしには、どちらの震災も当事者として語るほどのことは何も起きていない。けれど、なにも語れないわけでもないし、語ってはいけないわけでもない。『10年目の手記』を読んでそう思い直し、いまの自分が書ける「震災」のことを書いてみた。


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