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非暴力と不服従とウクライナ

『モーリタニアン 黒塗りの記録』(2021年)を観て、多くのことを考えさせられた。

『モーリタニアン 黒塗りの記録』は、9.11テロの首謀者の一人として疑われ、無実であるにも関わらず、14年にわたる不当な拘禁と拷問を受けたモーリタニア人男性の手記を映画化した作品となる。

不当な拘禁を受けた男スラヒは、キューバにあるアメリカ軍のグアンタナモ収容所に収容される。グアンタナモは、1903年からアメリカがキューバから租借している土地のため、アメリカでもキューバでもない特殊な場所になる。そのため、アメリカの国内法は適用されず、国際法も適用されない。

結果、何でもありの無法地帯のような場所で、アメリカ軍の収容所内では、「疑わしきは罰せず」の法諺は無視され、人権を無視した拘禁と過酷な拷問が繰り返される様子が、作品で描かれている。

不服従のガンジーとスラヒ

『モーリタニアン 黒塗りの記録』は、非人道的なグアンタナモ収容所への批判がメッセージとなる作品だけれども、この作品で最も印象的だったのは、スラヒが無罪を認められて解放された後、拷問した人や看守たちを「憎まない」と発言していることだった。

長きにわたる拘禁、そして悲惨な拷問を受けたにも関わらず「憎まない」と言えるのは凄まじいと感じる。やられたらやり返すアメリカ的な正義とはまるで異なる。

そういう凄まじいスラヒの姿を見て想起したのは、インド独立の父・ガンジーのことだった。

ガンジーは、非暴力・不服従でイギリスからインド独立を勝ち取った。『モーリタニアン 黒塗りの記録』のスラヒも、拘禁と拷問に耐え、服従せず、無罪を勝ち取り、さらには「憎まない」と言う。そのスラヒの姿からは、ガンジーに通ずるものを感じた。

正義の暴力と非暴力の正義

違法な暴力という点で、現在もまだ、ロシアのウクライナ侵攻は続いている。

ロシアに対するウクライナの反撃は正義とされる。その正義は世界中から支持される。そのため、世界中から支援を受けている。

確かにウクライナの人々の命をかけた反撃は正義であるし、否定されるべきものではないと思う。

ただ、「侵略された自国を守る」という正義があると同時に、「戦争反対」や「いかなる暴力も反対」という正義も存在する。

ウクライナの反撃によって殺されたロシア軍人は多くいる。彼らにも家族や友人はいる。殺されたロシア軍人の家族はその死を悲しんでいるだろうし、もしかしたら、ウクライナに対して憎しみを抱いている家族がいるかもしれない。

このように、ウクライナの反撃は正義であるけれども、悲しみや憎しみを生む暴力であることもまた事実といえる。

そのため、「いかなる暴力も反対」としながら、「侵略された自国を守る」ウクライナの反撃は全て肯定するということに対しては、拭いきれない違和感を感じる。

ロシアのウクライナ侵攻に対して非暴力での対応を主張する声としては、浅田彰のように「逃げろ」、橋下徹やテリー伊藤のように「降伏しろ」というのがある。しかし、これらとガンジーやスラヒの非暴力との決定的な違いは不服従という点になる。

非暴力で不服従ということは、ロシアの侵略行為を否定し、ウクライナの反撃も否定し、ウクライナが逃げることも降伏することも否定する。そして、ウクライナがロシアに不服従ということだけを肯定することになる。

これは、服従するなら死を選ぶというとんでもない覚悟と忍耐が必要な、最も難易度が高い選択肢といえる。そしてその難易度の高い選択肢は、常人にはとてもじゃないが選択できないものであろうと思う。

ガンジーやスラヒのような凄まじい人はごく限られた人であり、世界中はほとんどが常人である。

そのため、違法な暴力に対しては暴力で反撃する。それが常人からすれば正当な行為であるし正義になる。そしてそれは、恐らく正しいのだと思う。なぜなら常人だからである。

世界中のほとんどは常人である以上、「いかなる暴力も反対」というのは正義というより建前に過ぎず、今後も暴力はなくならない。そして戦争もなくならない

だから、どれだけ非人道的であろうと、アメリカ国民を守るという正義のために違法な暴力を行うグアンタナモ収容所は現在も存在し、さらに拘禁され続けている人々がいる。

それが、現実ということなのだろうなと感じる。

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