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『死霊の盆踊り』レビューにみるイジメの構造

『東京物語』と『死霊の盆踊り』の類似性

『東京物語』と『死霊の盆踊り』は、よく似た特徴をもつ作品だ。

世界的に評価の高い『東京物語』と、史上最低映画とも呼ばれる『死霊の盆踊り』が似ているとは、なんて馬鹿な事をと思う人がいるかもしれない。

もちろん、『東京物語』と『死霊の盆踊り』が似たストーリーの映画だとは思っていない。

ただ、『東京物語』と『死霊の盆踊り』がもつ特徴が似ていると思うのだ。

筆者は、『東京物語』はつまらないと思っているし、つまらないと言う勇気が必要だと、以下の記事に書いた。

そして、『死霊の盆踊り』も『東京物語』と同様、つまらない。

『死霊の盆踊り』は、死霊とされる若い女性たちが裸踊りをする話だ。これ以上の説明はいらない。延々と裸踊りを繰り広げるだけの、ストリップショー映画である。

なぜこの二つの作品がつまらないのかといえば、ストーリーがあまりに平坦だからだ。

上記の記事にも書いたが、面白い映画がもつ「主人公が困難に打ち勝って目的を達成する(もしくは達成しない=悲劇、失恋など)」ストーリーとはかけ離れている。

ストーリーが平坦で、何も起こらないのだから面白いわけがない。

ここにひとつ、『東京物語』と『死霊の盆踊り』の類似性をみることができる。

また、『東京物語』と『死霊の盆踊り』は、両作品とも、映画の文法から逸脱した方法をとっている。

『東京物語』の場合、イマジナリーラインの侵犯を起こしている。

イマジナリーラインとは、特に会話シーンなどにおいて、観客に違和感を感じさせないために設けられる、カメラの位置において超えてはならないラインのことだ。

以下の記事に、小津作品における違法な映画撮影法について記載している。

『死霊の盆踊り』の場合、時間経過の分断、時間が連続した場面で突如として、夜のシーンが昼のシーンに切り替わる。これも、映画においてあってはならないことである。

つまり、両作品とも、通常の撮影方法、もしくは編集方法からは逸脱した方法で撮られたシーンがみられるのだ。

これがふたつめの類似性になる。

最後に3つ目、そして一番大きな類似性であるが、つまらないストーリーで、映画文法からすると誤った方法で作られた両作品は、それらによって作り出される独特の味わいによって評価されているのである。

『東京物語』は史上屈指の名作として。『死霊の盆踊り』は史上最低映画として。

味わいとは何なのか。

味わいとは、つまり、人それぞれの感受性がもたらす心的作用であろう。ただし、ガツンとした心的作用、例えば衝撃とか感嘆とは異なり、どこかモヤモヤとして、とらえどころのない、ふんわりとした好意・好感の心的作用と考えられる。

そのモヤモヤ、ふんわりとした好感は、当然、人によって異なる。何に味わいを感じるか感じないかは、千差万別である。

日本茶に味わいを感じる人もいれば、苦いコーヒーに味わいを感じる人もいる。コカ・コーラや青汁に味わいを感じる人もいるかもしれない。

『死霊の盆踊り』レビューに並ぶ酷評コメント

千差万別のはずの味わい、しかし、映画レビューサイト、Filmarksの『死霊の盆踊り』のレビューは、酷評コメントのオンパレードだ。

「クソだ」「クソつまらない」「マジでクソ」「倍速でみても長い」「5倍速で見ても長い」「10倍速でみても長い」「間違いなく0点」「経験値として星1」「星がつけられない」「これ、映画か?笑」

などなど、批判もしくは酷評を通り越して、『死霊の盆踊り』を馬鹿にした、しかも馬鹿にしたレビューをすることを楽しんでいるような、そんなコメントが並んでいる。

読んでいるうちに、何かイライラとした感情が生まれた。更に読み進んでいくうちに、怒りにも似た感情を抱くようになった。

ちなみに筆者は、『死霊の盆踊り』のチープさが作り出す雰囲気は、他の作品にない独特のもので、高評価するべき作品だと思っている。

評価をつけるとしたら、『東京物語』より『死霊の盆踊り』をはるかに高く評価する。

『東京物語』よりも『死霊の盆踊り』に味わいを感じるからだ。

レビューを読んでも読んでも、『死霊の盆踊り』を馬鹿にしたような酷評コメントが並ぶ。

酷評コメントをみて感じた"イジメ"

なぜ、怒りに似た感情を抱くのだろう。そう考えた時、不意に感じた。

なるほどこれは、イジメなんだな、と。

史上最低と言われる映画を、皆が寄ってたかって馬鹿にする。馬鹿にしてからかう。まるで蔑みの言葉コンテストか何かのように、皆が競って面白おかしく蔑みの言葉を書き連ねている。

例えば、クラスで最も身長が低い男の子がいるとしよう。クラスの皆は、何かにつけて、その子の身長を馬鹿にする。彼の手の届かない位置に、彼の私物を置いてからかう。必死にそれを取ろうと試みる彼の姿をみて、皆が競って蔑みの言葉を言い合い楽しんでいる。

『死霊の盆踊り』をみて、イジメを連想したというのは、そういうことだ。

そもそも『死霊の盆踊り』を酷評レビューしている人たちは、この作品が史上最低映画と呼ばれているから、自信満々に酷評コメントをするのだろうなと感じる。

なぜなら、馬鹿にしたような酷評コメントをしている人の他のレビュー、特に低評価している作品のレビューでは、至って真面目にその作品のあらすじを書いて、その上で申し訳無さそうに「自分には合わなかった」とか「つまらなかった」とか「わからなかった」等を書いているからだ。

また、それらつまらなかった作品に対しても、星は2.5だったり3だったりする。

それが『死霊の盆踊り』のレビューとなると自信満々に酷評の言葉を並べる。星は堂々と1をつける。

もしも『死霊の盆踊り』が史上最低映画と言われていなかったら。もしも『死霊の盆踊り』が世の中で高評価されていたとしたら。レビューのコメントはかなり違ったものになっていたのだろうなと思う。

世の中で史上最低と呼ばれている、という後ろ盾を得て、嬉々として酷評という名の弱い者イジメをしているように見える。

そう、やはり、『死霊の盆踊り』のレビューから感じるのはイジメなのであるなるほどイジメというのは、こうやって始まるんだなと感じるのだ。

『死霊の盆踊り』を馬鹿にしてレビューする人も、背の低い男子を馬鹿にするクラスの人たちも、自身がイジメをしているなんて思っていないのかもしれない。

皆で楽しんでいただけだ。悪意はない。周りの皆がそうしているから自分もしただけだ、と。

もしくは、史上最低というのは『死霊の盆踊り』への褒め言葉だ。身長が低いというのは彼の個性を讃えた褒め言葉だ、と言うかもしれない。

実際、『死霊の盆踊り』のレビューを書いている人は、本当につまらないと思ったのだと思う。しかし、自身が低評価レビューする他の作品と違って、周りの皆も低評価してる、酷評している、そして世の中で史上最低とされている、だからといってそれが、『死霊の盆踊り』を馬鹿にしたコメントを書いてよい理由にはならない。免罪符にもならない。

『死霊の盆踊り』の脚本を書いたエド・ウッドも、監督のA. C. スティーヴンも、それに出演者たちも、情熱を持ち、努力してこの作品を作ったはずだ。

作品を批判するのはいい。つまらないと感じ、つまらないというのはいい。

しかし、誰かが情熱を込めて作った創作物を馬鹿にして笑い物にすることには、嫌悪感と怒りを感じる。

しかもそれが、世の中の評価や評判という後ろ盾がないと、自分の感受性や言葉に自信をもてない弱い人々が行っていることに、やはり嫌悪感と怒り、そして悲しみを覚えるのだ。

昔のいじめ反対のCMで、当時人気絶頂だった前園真聖が言っていたセリフを思い出す。

「いじめ、カッコ悪い」

史上最低という後ろ盾を得て、『死霊の盆踊り』を馬鹿にする人々も、クラスの皆がそうしているからという後ろ盾を得て、背の低い男子をからかい蔑む人々も、滅茶苦茶、カッコ悪い。

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