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集団でトイレに行く女子の習慣に慣れないまま大人になった人


私の何かが大きく欠落しているのか、小学校そして中学校時代、女子がなにかと休み時間に連れ立ってトイレに行く習慣になじめず、馴染めないまま大人になり、「大人になるって集団でトイレに行かなくてもいいってことなんだな」と思いながら仕事中にトイレに立った記憶が、昨日の夕方不意に蘇りました。

そんなこともあったな、昔。

休み時間の度にガタガタと椅子を引いておもむろにトイレに向かう女子の集団が苦手だったと同時に、どこかに帰属している安心感を獲得している女子たちが楽そうで羨ましくもあった、なんとも複雑な感情の交錯でしたねえ。


ザッツ思春期。
そして、ザッツ集団生活。


しかし、果たしてあれはなんだったのか。

なぜ集団でトイレに行ってたんだろう彼女たちは。

そしてそれがあたかも自然であるかのように連れ立ってトイレに行けるメンタルを、一体どのようにして養えたのだろう。

そしてなぜ、私はそのメンタルを持たぬまま、大人になったんだろう。

だって、、、冷静に考えれば非効率ですよね。用を足したいときに自分のリズムでさっと済ませた方が合理的ですよね。違います?


いや、ミヨウよ。そういうことではないんだ、集団便所というのは。


ある種の社交の場なのだ。興味ある分野を共有するための場、また、異性に対しての自分をアピールするためにディテールを作り上げる、そのための舞台裏なのだ。

ゆえに合理性や効率性は軽んじられ、共感力、同調力の育成、及び大奥的ヒエラルキー構築プロセスの実体験、それこそが後々OLとなり、結婚し、ママ友付き合いに至るまでのコミュニティ参加必須能力育成プログラムなんであって、

理論など必要のない女性コミュニティ育成力の、これはその標準的練習場なのだ。

そして私はこの「共有力」、「同調力」が圧倒的に欠けていたわけです。

興味のある分野は1人で徹底的に「深めたい」のであって、分かち合う対象ではなかったのです。いや、むしろ自分の興味を共有したいのは自分の脳みそや、目に見えない何かであって、目の前の女の子たちではなかったという方が正しいかもしれません。

試しに話してみたら、自分が大好きなものを相手に伝えてみたら、自分以上に好きなことが判明したかもしれないし、自分の知らない他の素敵な世界を知ることができたかもしれないのにね。

でもそれをしたくなかったのは、多分すごく面倒くさかったんだと思うのと(省エネタイプ)、人のエネルギーと交流するのが、自分にとっては恐ろしく労力を使うという、なんというか地球上の体験に対してルーキーでありすぎるからだったかもしれません。

でもじゃあ、それで人生困ったかというと、確かに困った、というより、気づけばコミュニティから外れがち、というボッチ感覚を常に抱えた10代20代30代ではあった、けれども、40代になると、自分と大奥コミュニティとの間に横たわる大河が日増しに大きくなるので、関わることがなくなるというより、そもそも互いの存在を認知しにくくなる、という状態になり、コロナでなんだかボッチ奨励のような気運すら勝手に感じられ俄然心地よいのに加え、あ、ボッチ感覚持った女性って案外多いのね、そうだったんだ、皆さんお疲れ様でした、ボッチはボッチの良さありますよね、学校生活だとオミットされがちだけど、大人になった今だからこその「ボッチ力」感じますよね、というそれこそ「共感力」のようなものが発動され、なにせ学生時代に同じような労苦を共にしているので、互いの親愛の情が弥増すという、なんだか温かいフラットな幸せを感じています。

遅咲きね。

でも、だからこそ良いわね。

人生クレッシェンド。

遅まきながら、風通しの良いコミュニティ形成ができている気がして、うん。良いと思うんだ。

5月の気持ちの良い風が通り過ぎていきます。






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