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Discriminationを受けたことがありますか?

 あからさまに鼻で笑われ馬鹿にされたり、ちゃんと尋ねているのに無視されたり、普通にしているのに不躾な態度を取られたり、順番が来たのに後回しにされた経験をお持ちの方はいらっしゃるだろうか?どれも日常のいろんな場面で起こるだろう些細なこと。気をつけなければそのままスルーしてしまうことばかり。

 « Discrimination »

 日本語にすると「差別」。フランス語感からすると「区別」のほうがしっくりくる。何故なら日本語で「差別」と言うとまず「人種差別」「男女差別」を思い浮かべるから。Discrimination という言葉からは「区別による何らかの否定的扱い」という意味合いを個人的には感じている。

 「区別」と呼ぶくらいだからどこか「グループ分け」的イメージがある。あいつは〜〜グループでこっちは〜〜グループ。自分たちとそれ以外。それ以外にもたくさんグループがあって自分たちに近いものもあればそうでないものもある。

 もちろん自分は「元」日本人なのでざっくり言うとアジア人、むしろ中国人の扱いを受ける。

 余談になるが、先日日本に帰国し際に台湾の航空会社を利用した。CAなんかは台湾人しかいなかった。
 食事サービスが始まり順番が回ってきて「%@#*=+⋯^_^?」と話しかけられる。台湾人だと思われているようで、戸惑っていると英語で言い直される。
 パッと見だけだと中国人になるということが言いたかった。台湾人から見ても日本人だと分からないのだから、いわんやフラン人から見たら?ということだ。

 話を元に戻す。
 
 「中国人」として捉えられている自分だから、フランスにいる「別のグループ」の連中が中国人をどう扱うのかが見えてくる。何だか複雑な気持ちになるが、「日本人」というグループというかカテゴリーはフランスにいる一般の諸グループからは認識されていない。一括してアジア人もしくは中国人にカテゴライズされている。

 中国人は全世界にコミュニティーを作っている。
 フランスも例外ではない。30年前にこちらにきた当初は外国人と言えばアジア系だった。街のあちこちに中華料理店があり惣菜屋もあった。

 それではフランス人の中国人への振る舞いはどんなだろう?

 こう言う言い方をすると「フランス人」というグループが存在することになる。ここで言う「フランス人」は « français de souche »とよく呼ばれる白人でキリスト教の人々を指す。20世紀後半、とりわけミッテラン政権以降に移民として大量に国民権を取得した人々は指さない。

 さて「中国人」。色々ツッコミどころはあるといえ、表面的にはおとなしいコミュニティー。フランス人に同化する努力をしているのか家庭内教育がそうするのか、元からいたフランス人からは比較的好意的に見られている。
 仕事で見かける子供たちはほぼ例外なく躾が行き届いている。面白いのは、完璧に中国人の顔をしている子供が完璧なフランス語を喋る反面、親がほとんど喋れないことがあるということ。こっちの言うことを子供が親に説明してやるというケッタイな状況になることがある。
 それはともかく元中国人家族の「教育」というものへの考え方ははっきりしている。儒教の教えが浸透しているせいか、師に限らず目上を敬う姿勢が半端じゃない。教える立場からするとこれほどやり易い家族はいない。教育の現場でのこの辺りの違いについては長くなりそうなので別の機会に触れてみたい。

 ここでまた余談だが、「テルマエロマエ」に出てきた「平たい顔族」。現代の一般のフランス人にはモンゴルより東の民族はみんなこう映っているのかもしれない。フランス人と言うより一般庶民と言った方がいいか?

 もう一つ余談だが、 « C’est du chinois »という表現がある。
 「何を言っているのかチンプンカンプンでまるで理解できない」という意味で、「中国語」という言葉を引用して軽蔑的に笑う表現だ。ここは « C’est du japonais »とは言わない。日本語はそれほどユニバーサルではないということだ。

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 さて自分個人の経験に話を戻すと(やっとここに戻ってきた)、これが結構ある。断っておくが、今ここで例に挙げるのは、自分個人に対する攻撃ではない。「中国人グループ」の人間に対する攻撃ということになる。フランス人の目に好意的に映っているとはいうもののもちろん人によるわけで、理由はわからないが理不尽な扱いを受けることがある。

 ブリコラージュの店に行く。店員は少ない。尋ねごとがあると順番を待つことになる。一般にフラン人店員はサービスが悪い。仮に列がないとしても何かをやっているフリをして視界に入っていない様子をする。ワザとやっているのは見え見え。
 運悪く列が横に広がっている時には、こちらが先に待っていても「フランス人グループ」に先を越されてサービスされることがままある。

 最近肉屋でも同じようなことをされた。他の客と同じように待っているのに声をかけてもらえない。まあ最終的には構ってもらえるんだが。嫌々ながらの顔で。

 電気屋で探し物が見つからないので店員に尋ねる。持ってきたと思うと「ダンッ!」とカウンターに叩きつけるように出される。壊れるほどではないがこちらがビクッとするには十分。

 日常生活のあちらこちらでこういうイラッとすることがある。態度に現れることもあれば表情に現れることもある。
 30年以上フランスにいるとはいえネイティブではない。言っていることが分からないことも言葉に詰まることもしょっ中ある。そんな時はまず必ず眉間に皺が寄る。相手の、である。これだけも多少萎縮してしまうのに口元の小馬鹿にするような笑みが目に入るともう会話にならない。早々に切り上げてその場を後にしてしまう。

 口下手だからとか、見てくれが「スタンダード」じゃないからぞんざいに扱われることは日本ではないと思う。いや、思っても顔や態度に出すのは側から見られるとマズいから表には出さない。それはそれでいいと思う。そうすることで無用な軋轢を避けられるのならそれに越したことはない。
 フランスでは結構やられる。おとなしいことが美徳とはならないと思った方がいいかもしれない。やられっぱなしが嫌なら面の皮が多少厚いくらいでいるのがいい。さっきの肉屋にしても、自分の番が来た時に素知らぬ顔で普通にペラペラ言ってやるとたじろいてやがる。ザマー見ろ。

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 「あなたはどのグループに当てはまる?」

 これまでの日本にいたらあまり考えなかったことだろう。在留韓国人や中国人がいるとはいえ、日本ほど画一的民族で成り立っている国は少ない。島国の特殊性なのは間違いない。

 今、「これまで」と言ったのは、近年日本にも在留外国人「による」Discrimination が浮き彫りになってきたからだ。

 言葉尻を捉えた言い方ばかりしているようだが根拠はある。
 日本人の心情には外国人を無条件で畏怖する部分がある。日本人の間でさえ妙にヘイコラするんだから言葉の通じない外国人が目の前にいたらどれだけ腰が引けているか!これを畏怖と呼ばずに何と呼んだらいいのか?
 あんまり怖気付くものだから向こうは好きなように行動するし、こちらはいいように扱われる。外国人「による」といった訳だ。
 最近では在留外国人の問題が日本でも取り沙汰されるようになってきた。「やっと」世界レベルの話ができるようになった?と言ってしまうと言い過ぎだろうか?

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 少し話が違うが、ここで問題になる(腹が立つ)のは、外国人に限らず一見弱者的少数派がそれを盾にして向かってくることがあるということだ。これを  « Discrimination Positive »と呼ぶ。これはタチが悪い。社会一般的には弱者と捉えられているから何を言われても反論できない。こういう連中は胸を張って「自分は弱者だからお前は言うことを聞け」と言う。都合の良い盾だ。

 現代社会の、と言うか民主主義社会の盲点が傷口が開くように現れ、毒が膿のように溢れ出てきた感じがする。「〜〜イズム」がはびこり、我が物顔で正論を振り撒いている。以前の社会的弱者は現代社会では最強だ。

 弱者のままでいろとは言わない。それを盾にとって利用するなと言いたい。
 入学試験なんかでも、生活状況だとかを考慮され「優遇」される。優秀である必要はない。
 最近の映画は見ていられない。シナリオとか時代背景とか物語のシチュエーションは二の次。どれだけ社会的少数派を取りこぼすことなくチェックできているかが最大の懸念だ。こうなるともう娯楽でも何でもない。

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 話がどんどん脱線してしまう。

 Discrimination 「される」話ばかりをしてきたが、「する」側に回ることはないのかと聞かれそうだ。
 もちろんある。
 個人的に大嫌いな「グループ」は存在している。
 だが顔にも態度にも(外では)出さない。
 当たり前だ。
 そんなことをするとレッテルを貼られ社会生活に支障が出てしまう。それに「私はあなた方が嫌いです」と言うことに意味があるとは思わない。個別に見ると例外だらけだし、一般論は自分の内に溜めていればいいだけ。
 
 「なんと偽善的な!」と言われるかも?
 本当にそう?

 昔々どこかで見た言葉に「人間(動物?)は自分に似ないものを拒絶する」というのがある。まさに « Discrimination »そのものじゃないか?本能の部分でまず「自分たち」と「非自分たち」に区別する。「非自分たち」はたくさんあるので近くに置いたり遠ざけたりする。相手方も同じことをやっている。
 同時に「人間は社会的動物である」というのもある。要するにどれだけ上手く「非自分たち」と共存していくのかということじゃないのか(意味を取り違えていたら申し訳ない)?

 Discrimination が本能の部分で作用するとすると、良いとか悪いとかの問題じゃない。その人の言動の中に現れるのかどうかの問題だ。

 人間性を問われることになりそうだ。

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