何度も読み返したい世界の短編小説たち

 これから挙げる作品のリストには、偏りがあることをあらかじめ認めざるを得ない。このリストにはチェーホフもなければ、ヘミングウェイも宮沢賢治もいない。タイトルにあるように、これらの作品群は、現時点の私の個人的な参照点であるとともに、行き詰まったときに道を照らしてくれるガイドのような作品たちなのだ。泣く泣くこのリストから切り落とした作品もいくつかある。ラープチャルーンサップ「観光」、小島信夫「アメリカン・スクール」、芥川龍之介や残雪、テッド・チャンの諸作品など、深い感銘を覚えたものの、夜道を照らす街灯の一つとして、私が選んでこなかった作品たち。彼らについて語るのは、また別の機会にとっておこう。

ミラン・クンデラ「偽りのヒッチハイク」

 「それまで未知だった実存の一部分でも発見しない小説は不道徳であり、認識こそが小説の唯一のモラル」だとクンデラは語っている(「小説の技法」)。クンデラにとって、小説は「実存の探査機」なのだ。

 クンデラの小説の特徴は、思弁的語り口と省略の技法にある。著者はしばしば物語の進行を中断し、登場人物の内面世界における実存的意味の構造分析を行う。クンデラにとって真に重要なのは、表層的な出来事の進行ではなく、その意味なのだ。そのため、物語の本質にかかわらない描写は省略されていく。これはクンデラの弱点でもあるように思う。クンデラの作品には情景描写がほとんどなく、代わりに三人称視点からの実存分析がシーンを構成していく。そのため、ガルシア・マルケスやサルマン・ラシュディなどの煌びやで固有名詞がたくさん登場する作品に比べて、どこか閉じた印象がある。他方でクンデラの良いところは、人物の内面世界が常に三人称視点で、クールで俯瞰的に把握されるため、「感情に溺れる」ということがない。

 この作品では、二人のカップルがデート中にガス欠になったことをきっかけに、奇妙なゲームをはじめる。ヒッチハイカーの女役とそれをナンパする男役をそれぞれ演じ始めるのだ。この演技がいつしか二人の関係性に新しい照明を投げかけ、そのあり方を致命的に変更してしまう。

レイモンド・カーヴァー「大聖堂」

 クンデラとは一転して、カーヴァ―においては抽象的な著者の分析的語り口は介入しない。あくまで具体的な描写を通じて、簡潔に物語が構築される。ところが、その作品はクンデラと同じく人間存在への考察として読み取れるものになっている。

 ある夫婦の自宅に、妻の友人の盲目の男性が招待される。妻は障害を負った男性への同情と憐憫を、夫はどちらかといえばそうしたものに無理解な価値中立的存在として描かれる。ところが、この作品においてもあるゲームをきっかけに、夫と障害を負った男性は、より深い精神的に親密な関係性の領域に至る一方で、妻の側がそれに取り残されるという逆転が起こる。

 表層的な政治的に正しいな振る舞いが、必ずしも人間同士の相互理解において、本質とは呼べないことがわかる。障害を負った人々との関わり方として、「同情‐介抱」の垂直的関係性ではなく、「対等‐共感」の水平的関係性のあり方だって成立しうるのだ。

ボルヘス「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」

 「伝奇集」のあとがきに、訳者はボルヘスの「ウルトライスモ宣言」という芸術運動の精神を載せている。

 二つの美学が存在する。鏡の受動的な美学と、プリズムの能動的な美学。前者に導かれて芸術は、環境もしくは個人の精神史の客観的な模写となる。後者に導かれて芸術は、みずからを救い、世界をその道具とし、空間と時間という牢獄から遠く隔ったところで、独自のヴィジョンを創出する。これが<ウルトラ>の美学である。その意思は想像にある。宇宙に思いもよらぬ切り子面を刻むことにある。

 このプリズムの能動的な美学こそ、ボルヘスの目指すところだ。解釈を通じて作品を重層化・多義化する営みこそ近代文学の精神(「世界文学とは何か」という記事を参照)だが、ボルヘスは、その営みを作品そのものに織り込むことで、文学における「読み」とは何なのか、という批評的意識を読者に呼び覚ます。

 近代文学の原点である「ドン・キホーテ」の著者は、当然セルバンテスだ。しかし、物語では、ピエール・メナールという人物が、一字一句同じ全く小説を再び書き直してしまう。

 両者はまったく同じ文章なのだが、17世紀のセルバンテスと現代のメナールでは、作品の意味が全く異なってしまう。要するに、作品というものは、異なるコンテクスト(文脈)におかれると、全く異なる「読み」が可能になることを、小説を通じて描いている。

村上春樹「貧乏な叔母さんの話」

 村上春樹は短編小説の名手だ。とりわけ初期の作品には、どうやってこの作品を書いたんだろう、という不思議な味わいがある。作品が通常の物語の論理的構成となっておらず、いわば詩的論理によって節毎がつながっているのだ。

 この作品は4つの節で構成されている。

 第1節では、「僕」が貧乏な叔母さんについての作品を書きたいとガールフレンドに告げる。しかし、「僕」にはその動機もなければ、周囲に貧乏な叔母さんもいない。自分の経験を越えた存在を描こうとする「僕」に対して、その不可能性を「彼女」は告げる。

 第2節では、「僕」が貧乏な叔母さんについて考えるうちに、貧乏な叔母さんは抽象的性を帯びてくる。ある日、「僕」の背中にはその概念的存在としての「貧乏な叔母さん」が貼りついてしまう。なぜか。それは誰にもわからない。とにかく、それは歯痛のように常に意識せざるを得ないものだ。

 第3節では、「彼女」は貧乏な叔母さんを得た「僕」を励ましてくれる。そして「僕」は、貧乏な叔母さんの完璧さについて考える。

 最終節では、電車で乗り合わせた見知らぬ母親と二人の子供のちょっとした物悲しいエピソードが語られる。「僕」が電車を降りたとき、なぜか貧乏な叔母さんはいなくなっている。

 この不思議な物語は、村上春樹が描く作品の中では、比較的わかりやすいものだ。「自分の経験を越えた存在」について作家が語ろうとするときに、それは抽象的な概念となって、いわば強迫観念のように作家の意識から離れなくなる。春樹はこの作品で、「描けないということを描く」わけだが、そのためのモチーフとして「貧乏な叔母さん」が選ばれている。このシュールレアリスティックな詩的センスと独自な醒めた文体がとても良い味を出している。物語の解決も、理屈を超えた何かによってなされるところも、すごく春樹的だ。

 ところで、この自分の経験を越えた存在について描けないという葛藤は、春樹の処女作「風の歌を聴け」の冒頭1ページ目でも語られている。

 しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば像について何かが書けたとしても、像使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。8年間、僕はそうしたジレンマを抱き続けた。――8年間。長い歳月だ。(「風の歌を聴け」)

大江健三郎「人間の羊」

 大江健三郎は優れた実存主義文学の若き旗手として文壇に登場した。初期の短編小説はどれも輝かしい知性によって、人間のある一面を見事に描き出している。またその作品群には、アメリカへの敗戦という暗く長い影が差し込んでいる。

 主人公が乗ったバスで外国兵が狼藉を働き、主人公をはじめとした敗戦国の従順な乗客たち(=羊)に辱めを加える。バスを降りると、被害を受けなかった乗客の一人である教員が、義侠心に駆られて、主人公に被害を名乗り出るよう訴え付きまとうが、主人公は断固としてそれを拒み教員から必死で逃げる。

 ここでは、被害者と傍観者の逆転した関係性が見事に描かれている。被害者が被害を被った衝撃で不意の唖になっている。傍観者はあたかも被害者に寄り添うようにして、被害の告発を通じた社会正義を実現しようとする。ところが、この被害の告発は被害者の恥部を社会に晒すことに他ならない。これは近年のセクハラ問題の構図にも似ている。傍観者は被害者に告発を通じた社会正義の実現を要求するが、それは被害者の恥部を晒すことにもつながるので、被害者は傍観者から必死に逃れようとする。もはやここに至って、正義のために自己を利用しようとする傍観者もまた、被害者の敵のような存在に頽落している。

フィッツジェラルド「バビロン再訪」

 フィッツジェラルドの作品には、きらびやかな富裕層の放蕩とその両面となった孤独と悲しみが華麗な文体で描かれている。「失われた世代の旗手」と呼ばれる著者だが、その作品もまた、喪失をテーマにしている。

 主人公は過去の放蕩の代償として、子どもを親族に預けざるをえなかった。彼は更生した自分をみせ、愛する愛娘を取り戻そうとする。しかしその企ては、見事に失敗する。

 夢(憧れ)と喪失。そのテーマの描き方もさるものだが、その華麗な文体こそフィッツジェラルドの真骨頂だ。彼の文体は、フランス文学の痙攣的美文体とは異なる、どちらかといえば情念的歪みを感じさせない素直な文章なのに、言葉の輝きみたいなものにいつも魅せられてしまう。

コルタサル「南部高速道路」

 「夢のような現実」を描くことを最初に発明したのはカフカだった。ある幻想的な前提を物語に導入したのち、そこから先はきわめて真面目に現実的に物事を描いていく。そこは紛れもなく現実として描かれるのだが、ある一点の幻想的前提が紛れ込むことによって、作家はこれまで描くことができなかった奇妙な状況に登場人物を放り込むことができるようになった。

 この作品における幻想的な前提とは、幾日間も延々と終わることがない渋滞に閉じ込められるという非現実な状況である。カフカ「変身」をはじめ、多くの実存主義的な作品においてこの手法は活用されたが、コルタサルにはどこかそうした実存を追い求める気配がない。彼はただ幻想を描く。それがあまりに華麗なので、つい幾度も作品に手を伸ばしてしまう。

カフカ「変種」

 カフカの系譜を継ぐ作家は、あまりにも多い。それはカフカ的と呼ばれる領域が、あまりに大きいからだ。中国の残雪もその一人で、「突囲表演」の冒頭は次のように始まっている。

 X女史の年齢についてわれらが五香街ではまさに諸説紛々、一致した見解はなく、少なくともしめて二十八通りの意見がある。なにしろピンは五十歳くらい(とりあえず五十としておく)から、キリは二十二歳という者までいるのだ。(「突囲表演」)

 こうした文章を読むと、カフカの「変種」の冒頭を思い出す。

 私は奇妙な動物を所有している。半分は猫で、半分羊である。これは私が父から受けついだ遺産である。しかし、それは私の代になって初めて成育したもので、以前は猫よりも遥かに羊だった。だが現在では、両者等分である。

 両者はともに、読者には想像しがたい形相をしている。著者はこの現実にはありえない存在を、ただ事実として受け入れるように読者に要請する。この不協和音のような物語の導入に不思議な味わいが生まれる。

ジョン・バース「夜の海の旅」

 舞踏家ピナ・バウシュの振付は、ある動作の反復をただ観客に示し続けるものだが、その動作の反復が観客の中でいつしか象徴的な次元に移り変わり、人間の儚さや悲しみを観客が勝手に読み込んで感動してしまう。

 内田樹は「他者と死者」において、ラカンの丁半バクチを寓話を引いて、次のように論じる。

 ゲームが二回続き、二度続けて勝つか負けるかすると、そのとき、人はそれと知らないうちに「象徴界」に足を踏み入れている。

 人は反復された行為をみるとき、そこに何かの象徴を読み込んでしまう。動作の反復の意味を解説する必要はない。観客の中で、その意味は自然に生成されてしまうから。

 「夜の海の旅」という小説では、ただ登場人物が「夜の海」を泳いでいるだけである。というよりも、彼らは生涯にわたって、延々と泳ぎ続けることしかしない。彼らの人生には泳ぎ疲れて溺死するか、泳ぎ続けるかの2択しかない。物語では明言されないものの、この物語は精子が受精に至るまでの果てしない遠泳を、擬人的に描いている。(彼らは長い尾と流線形の頭部を持ち、遺伝形質を伝えるために<彼岸>を目指し泳ぎ続ける2億5千万の集団なのだ)

 ところで、この物語の創意は、登場人物が遠泳の間に、仲間同士での思弁的な考察を展開し続けることで、精子であるとともに、精子では決してありえない”何か”へと、読者の頭の中で読み替えられていくことにある。

 その結果、読者は「宿命論的に泳ぎ続けるある実存的存在」を、ひいては「理由もわからずに、延々、泳ぎ続けざるを得ない状況に産み落とされたある存在」の実存を読まされることになる。我々は最早それを”精子”と名指すことはできない(物語では彼らを精子とは明言しておらず、また、明らかに精子ではありえないこともしているため)。”彼ら”が陥った状況は、そして彼らの果てしない遠泳は、ピナ・バウシュの振付のように、人生の果てしない苦難を象徴するメタファへといつしかすり替わってしまい、印象的な読後感を残すことになる。

中島敦「山月記」

 もはや説明は不要だろう。この小説は、多くの人が学校教育の国語の教科書で読んでいるからだ。

 自然主義や耽美主義といった文学手法がもてはやされた時代に、これほど華麗で幻想的な寓話が描かれたということに、ただ感銘を受ける。

 人間の挫折や鬱屈をメタファーを通じて戯画化すること。これができると格好良い。

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