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【短編小説】心のナイフ

〇あなたはいつも僕らの上に立って「みんなは平等だ」なんて言っています。
〇今にして思えば、何で真実を告げはしないのでしょうか。それが僕には理解出来ませんでした。


 息を吐けば白い煙が淡くもその姿を見せては消えていく。俺はそれを見てまたこの季節がやってきたのか、とため息をついた。
 教室に今年から設置されることとなった暖房に期待を寄せつつ、昇降口を登って階段を上り始めた。中学校とはいえかなりの好待遇だろう。

「久しぶり」

 進級してからあまり話すことがなくなった知り合いに肩を叩かれた。それに伴い少しずつ学校での感覚を取り戻し始める。そしてそのまま階段を登り切り最上級生の教室に辿り着いた。

「あの噂は聞いているぜ、まあ頑張れよ」

 それってどういうことだよ。そう俺が尋ねる前にそいつはさっさと行ってしまっていた。少し不審に思いつつも俺は教室の扉を開けた。
 まだ誰も来ていない。何故かそう感じた。
 皆が揃いも揃って懐かしい笑顔を見せている風景を予想していたはずなのに、教室には既に俺以外の生徒全員が出席していて、大人しく自分の席に座っていた。
 クラスメイト全員の視線が俺に注がれている。

「早く座れ」

 まだ登校時間は過ぎていないはずなのに、教卓に誰か立っている。その違和感に気付くのにあまり時間はかからなかった。
 抗議の声を上げようとしたが、そこに立っていたのが教頭だということに気付くと黙って自分の席に着くことにした。
 俺が席に座ったことを確認すると教頭は沈黙を破りついに口を開いた。

「非常に残念な話をお前たちにしなくてはならない」

 そういった決まり文句からその言葉は紡がれる。

「お前たちの担任である松木先生は今日からしばらくの間学校には来れなくなった」

 何だ、そんなことかと俺は窓の外を眺める。鮮やかな緑はいつの間にか失われ、紅葉となっていた。
 ふと教室内にもう一つの違和感を覚える。
 窓側の席の一番後ろの席が空いていた。そこに座っていたのは誰だったか。思い出すのに数秒要する。

「そして、このクラスの新田は家庭の都合で転校することとなった。悲しい事実だとは思うがみんな受け入れてやってくれ」

 そう言うと教頭は去って行った。
 数秒経ってからぽつぽつと人が動き始める。そして一気に緊張感が抜けていった。

「何なんだよ今のは」

 そう隣の席の男に話しかける。

「知らないのか? そういえばお前携帯没収されてたから分からないんだったか」
「ああ、夏休みの間ずっとだ」

 夏休みの直前、松木に携帯を担任に没収されたままだった。

「だったら今日帰ってくるんじゃないのか? あいつもう多分戻ってこないぜ」
「何でそんな事知ってるんだよ?」

 全員が既に出席していたことといい、空気がやけに重かったことといいやけに可笑しなことばかりだった。

「昨日の夕方、新田が松木の子供を殺したらしいんだよ。大通りでナイフを使って派手だったって」
「へえ」

 俺は、乾いた笑顔を浮かべながら強がる事しか出来ずにいた。
 子供を殺した? 
 そんな残酷な事件が起きたはずなのに、何でこいつらはこうやっていつも通りに笑って過ごしていられるんだ? 

「っていうことはもうあいつは捕まったのか?」

 人を殺して放置されていることはないだろう。

「噂じゃまだ捕まっていないらしいな。まあ後何日持つかって状態だろ」

 普通なら避難勧告が出てもおかしくないはずだが、対応が遅れているのかはたまた穏便に事を進ませたいのだろうか。どちらにせよ危ないことに変わりはなかった。

「しっかし、新田も頭おかしいよね? よくあんな殺人鬼と半年も同じクラスにいたわ」

 教室の中央で女子がそうまくしたてる。それを宥める人間もいれば、舌打ちする人間、同調する人間もいた。
 俺は心の中でそっと新田に同情した。
 しかし、人間は忘れる生き物だ。
 朝礼を寝て過ごし、友達と話しながら訪れた終礼には既にこの話は頭の奥底にまで移動していた。
 教頭にもう授業中に出すなよと言われて携帯が遂に帰ってきた。今日は部活もないので早く帰ろうと帰路につく。

 そこで、知るはずもない宛名からメールが来ていることに気が付いた。

 心臓が音を出して鳴りやまない。一旦閉じて電車に乗ってからそれをまた開いた。

『お久しぶりです、新田惇平です。
 これを見たときに恐らく僕は人として生きてはいないでしょう。
 一つだけお願いがあります。
 どうか僕を人殺しにした真犯人を見つけてください。』





〇先生、あなたは僕に「期待してる」と上辺だけの笑顔で。
〇いつもつっかかっている僕がうざいのはもうわかっているよ。

 そこまで書いたところで一枚のルーズリーフを裏返してノートを広げた。 
 これは僕の書いている歌詞だ。曲なんて作れやしないしギターなんて触ったこともないけれど、高校生になったらギターを買って軽音部に入部して音楽漬けの毎日を送る。それが僕のたった一つの夢だった。
 しかし、その紙を不躾に拾い上げる男がいた。
 その男はわざわざ通る必要のない一番後ろの席までやってきて、気持ち悪い薄ら笑いを浮かべるのだった。
 ああ、終わったな。そう思った。

「あなたと話して笑っている人間も居れば絶望に満ちて帰ってくる人間がいます。平等って何ですか?」

 その男はさも当然のように紙に書かれていた歌詞を朗読する。そして教室の誰かが笑うのを聞いて満足すると取ってつけたように僕に突っかかって来るのだ。

「お前は授業中に何をやっているんだ?」

 その男は汚い唾を吐きだして僕の顔に浴びせる。

「廊下に立ってろ」

 僕はその男をひとしきり睨んだ後、黙って席を立った。
 そして教室の扉へと向かう。
 その途中で何人もの人間が僕から目を逸らして塾の宿題やらなにやらをやっている様子が見えた。

「先生、何でみんな授業を全然聞いていないのに僕だけいつも外に立たされるんですか?」

 途中で立ち止まってその男に問いかける。
 周囲から余計なことを言ってるんじゃねえよといった視線をぶつけられたが僕は構いやしなかった。別にその男の反応は分かりきっているのだ。
 その男はいつものように僕だけに汚い涎を飛ばすのだった。

 
 出席番号十六番、新田惇平(にったじゅんぺい)。それがこの学校における僕の知られている情報の全てだ。
 授業中に立たされるなんて命令に直ぐに従うはずもなく、いつものとおり廊下を抜けて昇降口を最後まで昇り、屋上へと続く扉に向き合った。この扉は少し細工すれば外れるようになっており、簡単に入る事ができる。
 扉を開けると、大空のもとにコンクリートでできた硬い地面が広がっていた。
 僕は屋上で陽の光を存分に浴びて、少し冷たくなってきた風をその身体に受けた。
 今のが今日の最後の授業だったはずだから、このままここで寝ていよう。
 そうして僕はいつものように瞼を閉じた。


「おい」

 粗雑に扉を叩く音が聞こえる。
 どうやらいつの間にか本当に眠っていたみたいだ。僕は急いで目を覚ますといつものように扉を開けた。

「お前も大概だな」

 そういった彼の名前は大島友吾(おおしまゆうご)。クラスで僕が唯一気を許している友達だ。
 中学三年生になり、松木が担任になってから僕はもう何もかもが上手くいかなくなっていた。
 毎日ああいって理不尽な言葉を押し付けられ、廊下に立たされる。そんな僕に誰が近づくだろう。あの男は僕が誰かと楽しそうに話しているとなぜか僕を理不尽に叱りつけるのだった。
 そのせいか、僕と親しくしたら成績が下がる。いつしか周囲にそう思われるようになっていた。

「諦めたんだ」
「今日はやけに気が強いな、いつもだったらあんなに言い返さないだろ」

 大島が呆れたように僕を見る。

「昨日面白い夢を見たんだ」

 僕は思い出したように大島にそう言った。

「面白い夢?」
「僕があいつにナイフを突き立てるんだ。血が出て皆パニックになって、そうしたらさ、パトカーのサイレンが聞こえて警官が僕に手錠をかけたところで夢から覚めたんだ」

 大島の笑顔が歪んでいくのが分かる。頭のおかしいことを言っているのだと分かっているけれど、自分が頭のおかしい人間、特別な人間だと思うと気持ちよかった。
 そして僕は何でもっと痛めつけなかったんだろうと続けて言葉を洩らした。
 大島が何も言わずその場に寝転がった。つられて僕も同じように寝転がる。風がとても心地よかった。
 心の内を話せる友達が一人いるだけで僕は抱え込まずに済んでいたのだ。
 もう夏がすぐそこまで来ていた。
 大空のもと、夏休みどう過ごそうかなんて僕たちは笑い合っていた。





 真犯人、俺の頭にその言葉はしっくりとこなかった。
 松木の息子を殺したのは新田だし、新田を虐めてこんな状況に追いやったのは松木自身だ。だったら犯人は松木ではないのか?
 しかしこうやってメールが来ている。だったら新田が松木が犯人ではないと思ったということだろう。
 いや、他にもいるかもしれない。
 大島友吾、以前は唯一新田と仲良くしていたが急に一言も話さなくなってしまっていた。まあ所詮、自分も松木に目を付けられたくなかったとかそんな理由だろう。
「どうするかな」
 恐らく、大島はまだ教室のどこかに残っているはずだ。
 今日はやることもないし、少し調べてみるか。





〇あなたは僕よりもたくさんの事を知っているから僕らはあなたに従わなければならない。それなのにあなたはいつも自分勝手だ。
〇いつまでその権力を振りかざして僕らを操り続けるのですか?
〇もしかしていつも自分より経験の少ない子供たちに囲まれているから、自分が神だとでも思ってしまったのでしょうか?

 僕はそこまで書いたところでルーズリーフを破いて塾用の宿題を広げた。
 今日は何かがおかしい。あの男がいつものように僕のところへやってこないのだ。
 そして何もされないまま放課後が訪れる。僕と大島はいつものように屋上へと向かっていた。

「今日は珍しく何もされなかったな」

 大島がそう屋上に寝転がりながらそう言った。手には今週発売した漫画が収められている。
 それだけで幸せと感じてしまう。僕の中で何かが壊れてしまっているようだった。
 そして、それは唐突に、だけで必然であるかのように訪れた。
 突然サイレンのように扉を叩く音が鳴り響いた。僕と大島は目を合わせて危険を察知する。
 ここに僕たちがいるのを知っているのは僕と大島だけだった。だから他にここにくる人間は僕たち以外にはいない。だからこそ胸騒ぎが収まらなかった。
 そして、その予感は的中する。鍵が開錠された音がしたかと思うと、薄ら笑いを浮かべたあの男が顔を出したのだ。
 絶望感が僕の心を支配した。
 歪な笑顔を見せたその男はゆっくりと僕と大島を見下して質問を投げかける。

「ここは使ってはいけない場所だって知ってる?」
「知りませんでした」

 大島が即答する。

「じゃあ新田が知ってて知らない大島をここに連れて遊んでいたってことかな?」
「それは」

 大島が否定しようと松木を睨みつける。

「こんな時期にこんな騒ぎを起こそうとするなんて、結構問題なんだっていうのは理解できる? 毎日放課後にはどこかに消えているのを見て、何かあるなと来てみればさあ、まさかこんなことをやっていたなんて」

 そして、この男は信じられない言葉を口にした。

「大島、新田を助けたいのは分かるが嘘をつくのはよくないと思うよ?」
「は?」

 一瞬、この男が何を言っているのか分からなくなる。しかし、すぐにその言葉の意味を理解した。
 こいつは大島に僕を裏切れと言っているのだ。
 大島と目が合う。
 僕はもういいよ、と首を振った。
 もう分かったんだ。
 僕と友達になった人間は不幸になる。
 僕に友達を作る資格なんてないんだ。
 溢れ出そうになる涙を抑えて、心の中で何度も何度もこの男にナイフを突き立てた。だけど、そんなことをしてももう失ってしまったものを取り返すことは出来ないのだ。

 そして、次の日から僕と大島は目も合わせなくなっていた。





「自分が裏切ったから顔を合わせたくなかったんだ」

 そう目の前にいる大島友吾は答えた。恐らくこのことを吐露したのは俺が初めてだったのだろう。気の抜けたような表情で俺を見ていた。
 大島はまだ教室に残っていた。毎日放課後になると新田とどこかに消えていたがもう一人で行く気分にはなれないのだろう。

「なるほどな」

 それなら松木に反抗して意地でも縁を切らなかったらよかったんじゃないかと思う。言っていることとやっていることが矛盾している。所詮こいつらの友情はこの程度だったのだろう。
 しかし、それにしても元凶は松木に変わりはなかった。それならば一体誰が真犯人だとあいつは言ったのだろう。

「どうしてそんな事を聞いて回ってるんだ?」
「少し気になったんだ、何で松木を殺さずに息子を殺したのか」

 面倒くさくなりそうだったからメールの事を大島には話さなかったが、何で最後に俺に連絡を取ったのか、それが気になっていた。

「何で新田はあそこまで松木に目を付けられていたんだろうな」

 大島が口を開いた。
「一応、あいつの関わりのあった人間を調べてみるか」
 俺はそう言うと携帯を取り出した。





〇あなたの名声によって従わなければいけない僕ら、僕らの意見を求めるくせに、あなたはいつも自分勝手だ。
〇いつまでその権力を振りかざして僕らを操り続けるのですか?

 作ることのできない歌の歌詞、それを書く腕が止まっていた。同じような箇所でグルグルと時が止まっている。たまに何かを少し変えてはまた戻したりの繰り返しだった。
 黒く濁った黒板をじっと見つめる。そこに書かれている文字の羅列をノートに記し終わってはまたルーズリーフと格闘する。ただそれだけの日々が続いていた。
 いつの間にか眠くなっては起きて、寝て、ただそれだけだった。
 こんな僕の人生に意味はあるのだろうか?

「ねえ」

 一瞬、それが誰に向けられての言葉なのか僕には理解できなかった。最近は誰とも会話しない日々が続いていたし、別にそれでいいといつの間にか感じるようになっていた。

「ねえ、新田君」

 久しぶりに自分の名前を聞いた気がする。声をかけてきたのは隣の席の女子だった。

「ルーズリーフ貸して欲しいんだけど、いい?」
「いいよ」

 そう言って一枚のルーズリーフを手渡す。それで終わりだと思っていた。

「新田君っていつもノートの他に何かルーズリーフに書いてるよね? それって何?」

 前々から気になっていたのだろうか。ひっそりと小声で僕にその質問を投げかけた。いつもならこんなことを誰にも教えないが、もう僕は何もかもどうでもよくなっていたらしい。気付けば口を開いていた。

「歌詞を書いているんだ。高校に入ったらギターを買って曲を作りたくて」

 引かれる思っていたのだけど、その子の返事は少し違っていた。

「へえ、そうなんだ。凄いね、尊敬するよ」

 思いもよらなかった言葉を聞いて、少しだけ世界が色付いたような気がした。大島と会話をしている時のような、どこか懐かしい穏やかな気分になった。

「もし良かったら曲が完成したら聞かせてよ」

 返事も出来ずにただ頷く。
 そうだ、まだ自己紹介をしていなかったねと彼女は言った。こんな時期に自己紹介をするのも変な話だねと僕が笑うと彼女もつられて笑った。

「私は小山優子、よろしくね新田君」
「よろしく」


 僕に救世主が生まれた瞬間だった。


 それから、学校に来ることがまた少しずつ楽しみになってきた。
 小山さんと話が出来た日は一日がとても楽しくて、それと同時に全ての物事に関心がなくなっていくのが何んとなく分かっていた。
 小山さんと話すようになってから二週間くらいの時が経ったのだろうか。
 僕が書き終わった歌詞を束ねていた時に、クラスの気の強い女子が新田さんを連れて女子が集まっている場所へと連れて行ったのだ。
 そして口を開く。

「それで小山、あんたあの後どこまでやったの?」

 それは何てことはなく、他愛のない普通の恋愛話だった。
 だけどその女子の口ぶりと、小山さんの照れ具合とその様子から、小山さんの恋が実ったのだということは分かった。
 忘れていた。僕は人と仲良くなってはいけないのだ。
 僕は疫病神なのだから。

 僕はいつもなら放課後に少しだけ小山さんと会話して帰るのだけど、今日だけは直ぐに帰宅した。
 そして、夏休みが始まる頃には僕はもう教室で誰とも話さなくなっていた。 





「小山も何も知らないってさ」

 俺はそう大島に報告した。
 他にも何人かにメールで尋ねたが、他に有力な情報は得られなかった。

「そうか」

 目に見えて大島がうなだれる。今頃そんなことが分かっても何にもならないと知ってこんな態度になれることが不思議だった。責任の一旦は目の前のこいつも担っているというのが分からないのだろうか。

「もしかしたら松木の方に何かがあったのかもな」
「それってどういう事だ?」

 大島がすぐさま反応する。

「人を嫌いになるなんていっても様々な形があるだろ。単純に生理的に受け付けなかったり、行動や性格が合わなかったり。まあ今更こんなことを調べても仕方がないか」

 俺はそう言うと教室を後にした。
 そういえば、松木がこの学校に来る前に、県内の別の中学校に赴任していたって話を聞いた事がある。 
 俺は再び、携帯を取り出し始めた。





〇あなたはいつかみんなの前で「夢は自由に持て」と言いましたね。あなたの姿を見て僕らは希望を持ちました。
〇先生、あんたは僕にだけ「現実を見ろ」と見知ったような顔で子供にも分かるように説明できないのならあんたもう黙ってろよ。

 夏休みが始まっていた。
 僕は固く閉ざされた小さな自分の部屋で一人、歌詞を書いていた。
 耳にはヘッドホン、ルーズリーフの隣には膨大な宿題と自動販売機で買った炭酸飲料のボトルがあった。それは僕のちょっとした幸福だった。
 聞いていた曲も終盤に差し掛かり始める。
 僕は次の曲が流れる前のつなぎ目が嫌いだった。その瞬間だけ現実に引き戻される。
 昨日はそのつなぎ目に皿の割れる音がした。一昨日は鈍い音がした後に女性特有の金切声が木霊していた。
 いつしか、僕はずっと最後まで大声で叫び続ける、そんな人のバンドの曲ばかりを聞くようになっていた。僕の代わりに叫んでくれる、そんな気がしたのだ。
 僕もこうなりたいと思った。
 だけどそれは不可能なのだ。
 小山さんは僕に作った歌を聞かせてほしいと言った。だけど、何故かもう僕はどうでもよくなっていた。
 本当に何でだろう。
 僕はヘッドホンを付けて、自分の部屋に鍵をかけて、ベッドに潜り込み、そして僕と世界を切り離した。

 多分、小山さんがいなくても僕の世界は終わらない。
 恐らく僕がいなくても小山さんの世界は何も変わらないだろう。
 それでも、あの小山さんの言葉であの時の一瞬だけでも僕は救われたんだ。嬉しかった。また希望が持てた。
 別に恋人がいたって関係ないはずなのに、僕は救われたはずなのに、なぜだか僕はまた心にナイフが突き立てられたような痛みを感じていた。

 俺は知り合いの人脈を頼りに、松木の担当していた生徒の一人を捕まえて、松木の話を聞くことに成功した。

 曰く、最初からオドオドしていてどんくさかった。
 曰く、自分の授業中に何されても笑っていた。
 曰く、言えば何でもしてくれた。

 それを聞いて、湧き上がってくる感情といえば。
 何だ、そういうことかということだった。
 気の弱い生徒を使って威厳を示す。
 よくあることだった。
 人を見下してする話はなんて面白いものか。
 しかし、ようやくこれで全てに納得がいった。
 俺は自分の家に帰った後、自室で携帯を開いた。





 歌詞を書く腕が止まっていた。
 もう限界だった。
 夏休みも中盤に差し掛かったところで僕はとんでもない虚無感に襲われていたのだ。
 布団の中で抑えきれない衝動といらいらを無理やり押さえ続ける。
 頭がおかしくなりそうだった。
 何もしなかったし、これからも何もしない日が続いてゆく。
 もうこれ以上この家にいたくなかった。

 この家を出よう。そう僕は決意した。

 窓からの月明かりを頼りに勉強机の電気を付ける。部屋全体がうっすらと明るくなった。
 虫の鳴き声だけが夜の闇を彩っていた。もう喧騒の音は消えている。さすがに寝静まったのだろう。
 時計を確認すると既に夜中の二時だった。
 荷物をまとめていた鞄を肩にかけるとそっと部屋の鍵を開けた。
 木の擦れる音が響いたが人が起きるほどではない。
 僕はそのまま廊下を進んでいった。そして玄関に差し掛かる。 
 出ていけば、いつか必ず僕は死んでしまうだろう。だけど僕にはもう生きる気力は残ってはいなかった。
 玄関をゆっくりと開錠する。
 冬に近づいてきたのだろうか、少し冷たい風が僕の身体を襲った。
 ここから僕は一人で生きていかなければならない。
 僕は気にも留めず家を出た。
 電車に乗って行き慣れた街へと移動する。
 いつもとは少し違う、街の夜の風景が綺麗でやけにリアルだった。
 今日のところはマクドで夜を明かすことにして、僕はそのまま朝を迎えた。
 少し眠ってしまっていたのだろう。店員のどう対応していいか分からなそうな視線で僕は目を覚ました。
 朝のマクドは夜の静けさとは比べものにならない程に賑やかで、それでいてひどく暴力的だった。
 友達と仲良さそうに騒いでいる同年代の子供たち、親しそうに過ごしている子供連れの夫婦、楽しそうに話しているカップル。その誰もがたった一人でこの場に存在し、誰とも打ち解けられない僕を嘲笑っているように感じた。
 僕の存在自体が否定されている。
 この世界は僕を必要としていなかった。
 僕は世界から逃げるように外に出ていった。


 生きていた中で本当に様々なことがあった。
 もっと賢く生きていけたのかもしれない。
 大島に直ぐに声をかけたら仲直りできていたのかもしれない。
 小山さんに告白していれば悔いは残らなかったのかもしれない。
 もっと幸せになれていたのかもしれない。
 もう夏も終わりを迎えようとしていた。とくに外の世界に出ても何かが起きるわけもなく、自堕落な生活を送るうちにもう財布も底をつき、僕はどんどん薄汚れていった。
 僕はおもむろに人がよく集まりそうな場所に移動した。噴水が目印で分かり易いため、集合場所によく使われている所だ。
 そんな僕の所に、一個の青いボールが転がってきた。

「ご、ごめんなさい」

 まだ幼稚園に入りたてのような、そんな幼い笑顔が僕の前に現れた。
 ボールを拾って親の元へと駆けていく。
 そしてそこには奥さんと子供と、幸せそうに笑うあの男の姿があった。僕は気付かれないように無表情でその姿を凝視した。
 なんであんなに幸せそうに笑えるんだろう?
 僕はこんなに辛い思いをしているのに、何であそこまで楽しそうにできるのだろうか。
 あんなに可愛らしかった子供がまるで悪魔の子供ように見え始めた。
 かわいそうに。そう思った。
 僕と同じで生まれてきたことから間違ってた子供は、少しずつ成長しているのだ。
 僕はぼうっとしたままその姿を眺めていた。
 そして唐突に思いつく。
 僕が今あの子供を蹴れば死ぬだろうか。
 そうしたらあの男は苦しむのだろうか。
 泣くのだろうか。
 それはとても喜ばしいことだった。
 僕はいつの間にか筆箱からカッターナイフを取り出していた。
 

 周りからの視線が心地良い。
 同じ人間じゃない。そう僕を見るその目が気持ちよかった。
 僕のことを認識してくれることが嬉しかった。
 最初の蹴りは驚くほど綺麗に決まった。ぐにゃっとした感触と共にボールのように飛んでいった。
 そして僕はあぜんとしていたあの男に驚くほど上手く作れた笑顔で笑いけかけた。
 そしてカッターナイフを柔らかなその子供の肢体に突き刺した。
 僕は名前の知らない女性の悲鳴と共にその場から消えていった。
 心の中は晴れていた。
 とてもとても、心地がよかった。
 あの男は僕以上に生きる価値なんてなかったのだ。だからこそ痛みを知るべきなのだ。
 あの男の「愛」はまがい物で、あの男の「心」は薄汚れていて、それを教えた子供たちも生きる価値が薄れてゆく。
 誰がそんなあなたに教わることを請うのだろうか。
 知らないなんて言わないだろう。
 あなたも昔僕たちと同じ子供で、同じことを思っていたはずなんだ。
 ああ、ああ。
 そしてあなたは考えなかったのだろうか。 
 自分が痛めつけてきた他人の心が、刃となって大切なものを壊してしまうこの未来を。
 冬が既に始まっていた。
 少しずつ降る雪に子供たちのはしゃぐ声が聞こえていた。
 僕は学校の屋上で冷たい風をいっぱいに受けながら携帯を取り出した。
 送ったメールに意味なんてなかった。別の世界に住んでいる人間が僕を見てどう思うか知りたかっただけなのだ。
 一番関係がなさそうな人間だからこそ僕は送ったんだ。
 好きでもないから嫌いにもならないし、嫌いでもないから好きにはならない。
 対角線に住んでいる人を選んだだけなのだ。
 届いたメールを確認する。


『        』


 それは違う。
 あの子供を殺したのは僕の心のナイフなのだ。
 あの男とこの世界がナイフの先端を尖らせて、僕がそのナイフを刺したのだ。
 今から僕はちっぽけな命を使ってあの男を社会的に殺すのだ。
 僕は一枚の封筒を見えやすい位置に置いて重石を乗せた。


 そして僕は屋上から飛び降りた。

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