見出し画像

『SHINOGRAPHIA』刊行記念対談その①岡山ディヴィジョン氏――その必然性においてアイドルをまなざすということ

・はじめに――当企画説明
 来る6/23(日)、東京流通センターにていよいよシャニマスオンリー同人イベントSSF07が開催されます。本記事文責であるところの私ツァッキが、それなりに準備をしていたり温めたりしていた企画である「シャニマスについての文芸同人誌」をぶち上げたところ、熱い気持ちを持った有志に恵まれ、いよいよ14人の書き手を引っ提げて『SHINOGRAPHIA』というひとつの奇跡が結実しようとしています。普段からnoteで文章を書いている方も、そうでない方も、ブログサービスのように「書いてすぐ出し」あるいは検閲・編集が自分のみ、といういささか性急にすぎる執筆プロセスから一旦離れてもらい、プロットの作成、打ち合わせ、執筆、赤入れ、ゲラの修正、そして印刷までの過程でひとつの「作品」としての自分の文章に向き合っていただく機会を作れたことを主宰として誇りに思っています。また、このような熱のこもった企画に寄せられた共感もいくつかTwitter上で拝見しており、すでに取り置きをお願いいただいている方もいらっしゃることは雑誌制作者としてこの上ない喜びです。皆様、当日は是非東京流通センターに足をお運びいただき、「光空学派」ブースにて『SHINOGRAPHIA』をお買い求めいただければ幸甚です。
 さて、私の肝入りで始まったこの同人企画ですが、出版まであと1か月半ほどということで、編集長の独断ではありますが、とりわけ原稿が目を引いた方や私が個人的に興味を持った書き手を3人ピックアップし、その3人との対談企画をnoteに連載いたします。ささやかながらの刊行記念パーティーということで、普段からシャニマスを愛し、シャニマスから何かを受け取っている皆様にも雑誌以外のところでフィードバックをしたい、という気持ちで当対談企画をプッシュする所存です。対談者は以下のようになっております。
①岡山ディヴィジョン氏(X:@OkayamaDivision)
②塵浜一氏(X:@whirlpool_fool)
③ヒナーシャ氏(X:@hinapupil)
以上の面々には、掲載作品についての質問から本人の創作やシャニマスを通したパーソナリティを問う個別質問、そして『SHINOGRAPHIA』とシャニマスについての共通質問を用意し、それぞれが自分の作品やシャニマスそのものに鋭く切り込んだ回答が期待されます。そして、対談相手である私も、彼らに負けないぐらい強度を持った返答で応酬し、豊かな対談となることを何よりも私自身が強く望んでいます。雑誌はもちろん、当対談企画につきましても是非ご期待ください。

・その壱 岡山ディヴィジョン氏

(紹介:関西某所在住。シャニマスにハマり、半年あまりですべてのイベントコミュを読破、シャニラジのバックナンバーも網羅するなど、シャニマスにおける「百科全書的」知性の持ち主。note執筆も精力的に行うとともに、シャニマスについて書かれたnoteを読むことにも執着があり、「noteについてのnote」を書くほど。今回の対談で岡山ディヴィジョン氏の謙虚な姿勢と、あくなきシャニマスを通じた「人間」への知的好奇心が明らかになれば幸いである。)

(インタビュアー紹介:ツァッキ(X:@lettrederodez) 東京都在住。『SHINOGRAPHIA』主宰。シャニマス歴は丸4年ほど。ストレイライトを中心にコミュを読んでいる。今回対談中にショートホープを3箱空けた。)

ツァッキ(以下、ツ):本日はよろしくお願いします。自己紹介をどうぞ。

岡山ディヴィジョン(以下、岡):よろしくお願いします。岡山ディヴィジョンと申します。シャニマス歴は4.5周年の少し前から始めてもうすぐ2年になります。担当アイドルは小糸と雛菜ですが、原稿は七草にちかについて書きました。

質問1.  岡山氏は今回七草にちかのpSSR【夜よこノ窓は塗らないデ】についてエッセイを執筆していただいた。個人的な経験を絡めながら七草にちかに対する共感を綴っているのが特色の岡山氏らしい優しいエッセイである。noteとは趣向が変わっているように見受けられるが、今回エッセイという形式で寄稿した理由は岡山氏にとって何か?

岡:今回人様が立ち上げた企画ですし、しかもそこには多少なりとも金銭のやり取りも発生するので、そこに載せるにあたって納得したものを載せたかった、というのは第一ですね。で、そこで私にしか書けないこととか語れないこと、語りたいことっていったい何なんだろうとなったとき、一番最初に出てくるのがにちかの【夜よこノ窓は塗らないデ】だったっていうのはあって。エッセイという形式を選んだのは単純で、この【夜よこノ窓は塗らないデ】は自分の中でまずパッと出てくるぐらい(シャニマスの中で)重要なお話で、自分に距離が近すぎるストーリーでもあったので、多分、どう頑張ってもエッセイという形にするのが精いっぱいだったというか……。というところがあって、エッセイという形式を選んだという感じですね。

ツ:それは内容と文体の一致に気を配った結果でしょうか?

岡:そうですね。次の質問にも絡んでくるんですが、にちかの話ってどういう特色とかテーマがあるんですかと聞かれたとき、二つか三つぐらいに分けられる気がしていて。まず、にちかってアイドルに対する強い思いがあって、そこにもがく姿がWINGで印象的に描かれますよね。そういう文脈もにちか(のストーリー)がすごいなと思うんですけど、一方で「家庭」っていう個々の事情とかバックボーンの方が、個人的には距離が近くて。
 【夜よこノ窓は塗らないデ】ってそこにがっつりフォーカスしたお話というか、アイドルの話がほとんど出てこないのが特徴な気がします。コミュの中でも、アイドル要素って言ったらレッスンしてるのがせいぜいで、プロデューサーの車の中で話してたりとか、ごはん食べてるシーンだったりとか、アイドルであることがあまり絡んでこない。まあそれってアイドルゲームとしてどうなんだってところもあると思うんですけど(笑)、そこ(アイドル以外の部分)にフォーカスしてくれたお話だったから、私にとって距離が近いし、大切なお話になったのかな、と思いますね。

ツ:岡ディヴィさんのコミュを読む姿勢で僕がすごく思うのは、アイドルに寄り添うというか、やさしさというか。うーん……これは的確な表現じゃないな……。僕のようなシャニマスのコミュを徹底的に「作品」として見るオタクからすると、岡ディヴィさんのような見方って、シャニマスにおいてマジョリティなのかというとそれもちょっと違う。単なる共感ベースでもない。今回の岡ディヴィさんの原稿にしてもそうなんですけど、アイドルがその道をたどった必然性を岡ディヴィさんの中で消化しようという姿勢がずっとある。そこも小糸と雛菜担当っていうところに繋がってくると思うのですが。

岡:確かにそういう意味では、小糸と雛菜が個人のアイドルとして一番好きっていうのに加えて、ユニットだとイルミネにかなり思い入れがあったりもするんですけど。イルミネに関しては、彼女らの理念ってある意味凡庸で、そのメッセージって特別さや先進性があるわけでもなく、「輝きをみんなに届けよう」っていうスローガンで何かが変わるってこともないと思うし、私も普段だったらそれにことさら強く心を動かされるわけでもないんですよね。でも、「そうであってほしい」と思える瞬間がシャニマスにはあるというか。ひねくれた自分でも、みんなが救われてほしいと思えるようになるのが、イルミネの歩みだったと思います。

ツ:めちゃめちゃ話がズレるんですけど(笑)、直近のイベントだった『絆光記』を岡ディヴィさんがいいと思った理由もそこがすごい重要ですよね。今回の原稿にしてもそうですが、七草にちかっていうキャラクターをまなざすときのモチベーションとして、岡ディヴィさんって「自分は特別な存在じゃない」んだっていうところから始まっていて、だからこそシャニマスに惹かれている部分がありますよね。だから、「特別な自分じゃなくても自分を愛していていいんだ」というものをシャニマスから受け取っているのかなと。

岡:そうですね、それは間違いなくあります。雛菜が好きな理由もそれに近いです。いつかこれは文章にしたいんですけど、彼女って諦観に近いものがあると思うんですね。で、普通二次元キャラクターにおける諦観とか積極性のなさって、成長とともに変わっていくものとしてあるべきだと思うんですけど、雛菜のお話って彼女の諦観がうっすら肯定されるお話な気がするんです。それに関しては、二次元キャラクターじゃなくて普通の人間っぽいなと思います。普通の人間って、成長に値する出来事があっても、次の月には同じミスをするし、それは全然普通のことじゃないですか。雛菜はそういう意味で無価値さを体現してくれていると思うんですね。そういう無価値さを、アイドルとしても人間としても、雛菜が積極的に認めていく。成長する運命のもとにある「キャラクター」としてではなくて、その運命が欠けていても自分のことを認めていく過程が、無価値なままの人間でも生きていてもいいんだなっていう肯定を勝手に感じてしまうというか。

ツ:なるほど。これはまわりまわってシャニマスの根本に関わってくる話ですが、「自分は価値がない」あるいは「自分に価値がある」という判断は何によってですか?

岡:自分に価値がないっていうのは漠然と常にありますね。価値があると感じられるのは、所詮はゲームの中のテキストですけど、シャニマスに本気で心を打たれて、本気で涙して、何かを言おう、書こうとするときに、そんなに一生懸命生きてきた人間ではないですが、シャニマスについては一生懸命でいられているのかなと。そういうときは自分にとって自分に価値があると感じられるかもしれないですね。

ツ:岡ディヴィさんって普段Twitterの人柄もそうだし、お会いしたときもnoteの印象もそうなんですけど、「メディアとしての人間」ということをすごく考えさせられるんですね。どういう意味かというと、その人自体が媒介・媒体になっていて、何かを映し出すものであり、その人によって起こるプリズムがあるということなんです。それって岡ディヴィさんが自覚しているかどうかというより、シャニマスについて語る岡ディヴィさんを見て、シャニマスをやってみようと思ったりする人がいるっていうのが意義深いと思うんですね。
 原稿の話に戻りますが、なんで岡ディヴィさんのにちかについてのエッセイを雑誌の冒頭に置いたかっていうのは割とそこもあって。つまり、雑誌っていうのはひとつのストーリーがあるわけですよね。僕の序文があって、最後に編集後記があって、著者プロフィールがあって、奥付があって、終わり、という。そのストーリーを作るとき、読者を引き込まなければいけないと考えたら最初に置くべきは岡ディヴィさんの優しい口当たりの文章だった。今お話を聞いていて、岡ディヴィさんの自分やシャニマスに対する考え方が、そのまま書くものとかツイートとか話すことに反映されているのかなと思いましたね。
 このあとnoteの話もするんですけど、岡ディヴィさんが「シャニマスには面白いnoteがいっぱい!」っていう記事を書かれたじゃないですか。あれ、すごくいいと思うんですよね。まさにメディアの仕事ですよ。

やっぱあれは「読まないとできない」んですけど、僕はアマチュアの文章を読むっていうことがそんなに得意ではないんですね。洗練されてなさみたいなものに対して非常にナイーブというか、やっぱり文句を言いたくなってしまう。でも岡ディヴィさんは一旦受け止めるんですよね。そこは一番のスタンスの違いだなと思います。そういう人から出てくる文章を読むことが、『SHINOGRAPHIA』にとって大きなメリットになっていると判断して今回寄稿をお願いした次第です。
 話も脱線してきたことですし、次の質問にまいりましょう。

質問2.  岡山氏の今回の原稿の鍵は、個人的にキャラクターとプレイヤーの距離感、そして親近感というにはあまりにも生々しい同一性に対してプレイヤーが抱える独特の居心地の悪さであるように思う。七草にちかというキャラクターは、岡山氏にとって居心地の悪さを抱えてなお思い入れを抱くとしたら具体的にどういった部分か?(他のコミュの話をしても可)また、一般的に考えられている七草にちかのイメージと、岡山氏の中の七草にちかのイメージが離れていると感じることがあるとすれば、それは何に起因しているか?

岡:まず一つ目の質問については原稿にもかかわってくるので一旦後回しにさせていただきます。一般に考えられているにちかのイメージと自分の中のにちかのイメージが離れているという点についてですが、にちかのお話の中のいくつかある軸の一つとして「アイドル」「夢」にもがくにちか、というイメージと、家庭の問題やコミュニケーション不全を抱えているという軸もあると思います。私はアイドルとしての七草にちかにはあまり重きを置いていなくて、どちらかというとプロデューサーとうまくコミュニケーションが取れていないとか、家庭の問題を抱え続けているとかっていうところにフォーカスしていて、それがアイドルとしてのにちかが語られているときにちょっとズレてるかなと思うことはありますね。

ツ:よりパーソナルな部分ということですよね。

岡:そうですね。すごく印象的だったのは、とある人がTwitterで「自分は夢に向かって頑張ったけれども、それがうまくいかなかった。それで挫折感を味わったから、にちかの話はエンタメにするには辛すぎるし、まともに読むことができない」と言っていて。その人と私ではにちかに対して重視しているものがまったく違うんだろうなと思います。

ツ:適切な言い方ではないかもしれませんが、にちかを語るときにマジョリティの見方ってそっち(アイドルの方)の見方ですよね。夢に向かって頑張ってたんだけど、自分が凡才であることを自覚して現実と理想のギャップに敗れていくっていう。まあ、にちかにしても【まっクろはムウサぎ♡】なんかを見たらそれだけではないっていうのは一目瞭然なんですが(笑)、ただまあやっぱりWINGが初めて出たときの衝撃もすごかったですよね。

岡:もちろんWINGもそうですし、美琴との対話にしてもそこの感情が軸というか、「できるけど評価されていない美琴」と「できてないのに評価されてしまう自分」のギャップもお話の核になっていたので、そこを重視するのはその通りだし、私もそこにすごく感動してきた経緯も当然あるんですけど、にちか個人に焦点を当てたときには【夜よこノ窓は塗らないデ】みたいなバックボーンを考えるお話がすごく印象に残ってるっていうのありますね。
 ここで先ほど置いておいた一つ目の質問に答えるんですけど、「居心地の悪さを抱いても思い入れを抱くとしたら」っていうところで、原稿の内容に肉薄するのですが、今回私が原稿で書いたにちかへの共感っていうのを抜きにしても、にちかのプロデューサーに対する八つ当たりみたいな言動って、結構覚えがある人多いと思うんですよね。思春期に自分が親に対してした言動に似てるなとか。生々しい意味での思春期が表現されてるなと思います。ただ同時に、自分がアイドルをやっているとか、両親が二人とも亡くなっているみたいな環境って珍しいと思うので、そういうところで異様でもある。生々しいと同時に異様なんですよね。だから容易に同一視することができないっていう部分に、居心地の悪さを感じることはあります。にちか自身も、そういうバックボーンから出てくる金銭感覚であったり、生い立ちから来る卑屈さがプロデューサーに伝わっちゃったときにすごくばつの悪そうな顔をするんですよね。それが伝わっちゃうことににちか自身が居心地の悪さを感じているときに私たちが感じているにちかに対する居心地の悪さが共振してしまうさまに対して、まわりまわってにちかへの思い入れがどんどん深まっていくみたいな複雑な思い入れを抱くっていうのを、私たちとにちかの関係なのかなと今回(書いていて)感じましたね。

ツ:岡ディヴィさんの原稿で面白いなと思ったのは、にちかに対してゼロ距離になるかと思ったらそうならないんですよね。独特の距離感を保ち続けていて、でも、「にちかは俺なんだ」と言ってはいけないことのジレンマというか、簡単に「にちかは俺なんだ」って言ってはダメだということを岡ディヴィさんは原稿で言ってると思います。やっぱりそれって示唆的というか、最近のと括るのは雑すぎますけど、シャニマス系の言論でこの子は俺なんだって言うの多いと感じるんですよね。実際僕は甜花ちゃんにめちゃめちゃ共感してシャニマスに本格的にハマったという経緯があるんですが、そのときも「甜花ちゃんは俺なんだ」と思って(笑)。でもシャニマスをやればやるほど、このキャラクターってこのキャラクターでしかないよなっていうところに帰着すると思うんですよね。それは岡ディヴィさんも同じでしょうし。
 で、さっき出てきた思春期の話なんですけど、よく言われる話ですけど(にちかは)プロデューサーに代理父をさせてるっていう見方があるじゃないですか。あれって、ベタに考えれば父親が早くに亡くなっているから、精神分析的にはそういう寂しさを無意識のうちにプロデューサーにぶつけてしまっているっていう話ですよね。でも多分岡ディヴィさん的にはそれだけじゃない気がするのですが。

岡:確かにプロデューサーにそういう役割を担わせているのは、お話上でもそれを匂わせてますし、にちかがそういうものをプロデューサーに見ているっていうのももちろんあると思うんですけど……。難しいところですが、私をあえてそこに含めるとしたら、にちかに幸せになってほしいという意味でそこはプロデューサーと同じなんですが、プロデューサーと自分がイコールではないというのと、かつプロデューサーに八つ当たりしてしまうにちかの切実さにも共感してしまい、でもにちかは自分ではないので、そういう意味で私はにちかでもプロデューサーでもなくずっとその周りを漂ってるイメージです。そこがにちかを娘的なものとして見れない一つの要因かもしれないですね。

ツ:さっきの話にも回帰してくると思うんですけど、岡ディヴィさんにとってのにちかってシャニマスの中でどういう立ち位置なんでしょう。つまり、大きく聞くとすれば、なんで(原稿のテーマが)にちかでなければならなかったと思いますか?

岡:にちかがアイドルを志した瞬間ににちかは特別なんですよ。特別になってしまったことによってにちかは苦しんでいるんですが、自分はそういう立場になったことはないので、にちかに共感してはいても、世間的な、カッコつきで言うなら「何者か」になろうとしたわけではないし、そういう意味で私は特別ではないです。ただ、にちかが私の代わりというのも変なんですけど、にちかが私の代わりに特別になって、それを私が認められるようになって、私自身が私を認められるきっかけになったのかな、と。

ツ:例えば僕は岡ディヴィさんもご存じの通り冬優子に特別な感情を抱いてますけど、それはそれとして、僕は夏葉が結構好きなんですよね、放クラの中だと。で、あれはどうあがいてもなれなかった自分なんですよ。まあボンボンの家に生まれて、それなりにやり過ごしてきた自分にとって、環境に甘えずに努力してきた夏葉を直視できないんですよね。【Fall】だったかな、マラソンの話ですね。あれが僕はすごく好きで。

僕はマラソンで走れなかった子なんですが、夏葉だったら「一緒に走ろうよ!」と言うのかなと思ったらそうじゃなかったっていう。弱いものに対しても優しくある夏葉を見て、夏葉ほど努力もできなかったし、夏葉のように弱者に目を向けることもできなかったというのもあり、夏葉を見ていると根源的なコンプレックスに向き合わさせられることになるんですが……。あとは樋口ですね。僕は幼馴染っていうのはいなかったので、誰かと何かを比較したことはなくて、そこが決定的に違うんですけど、「努力すれば大体なんでもできた」っていうところに共感するんですよね。勉強もそうだし、楽器もそうだし。でも特別何かができるということではない。
 みたいな感じで、僕もキャラクターとの距離感をときに失いながら(シャニマスに)接しているわけですけど、岡ディヴィさんが小糸と雛菜には抱かない感情をにちかに抱いてしまうとしたら、自分は特別じゃないんだけどにちかに特別になってもらうことによって、自分が特別でありたいということですよね、多分。それって、言ってしまえばすごくわがままじゃないですか。僕は【夜よこノ窓は塗らないデ】は手に入れられてないんですが、にちかのステージ上の姿とか、仕事におけるジレンマではなくてバックヤードを描くことによってそこに寄り添ってるということですよね。岡ディヴィさんが何故このカードを選んだのかということについて必然性がまた見えてきた気がしますけれども。

岡:それこそ【夜よこノ窓は塗らないデ】で、にちかがプロデューサーに一番強い言葉を言うシーンがあるんですよ。にちかが自主練をしていて、プロデューサーが終わったら送っていくよと言うんですが、にちかはそんなことするなって返して、一人で練習に行っちゃう、と。で、何時間かして、練習を終えて、出てきたらプロデューサーがまだ待ってるんですよ。それに対してにちかは強くプロデューサーを罵倒して、その場を去っちゃうんですね。ここだけがアイドルに一番近いシーンなんですよ。さっきの表現を使うならバックヤードということになるんですが、仕事のジレンマではなく、個人や家庭の問題に焦点が当たっているから、という意味でこのカードが心に残ってますね。

質問3.  岡山氏は普段から精力的にnoteにシャニマスに関する記事をアップしている。基本的に無料で人の文章を読むことができるブログサービスにおいて、岡山氏が特に執筆上気をつけていることは何か?

ツ:ここからは原稿から離れて、岡ディヴィさんのシャニマスに対する接し方みたいな部分に切り込んでいければと思いますが、いかがでしょう。

岡:基本的に(自分が)書いたものをざっと見ると分かる通り、思いついたものを書いていて、行き当たりばったりな運用をしちゃってるっていうのはあるんですけど、大前提として読みやすい文章を心掛けています。これは被害妄想っぽいですけど、元ネタの考察だったりとか、モチーフの読解だったりとかってシャニマスは充実してて、そういうのに対して賢しらぶりやがってと思っている層は一定数いると思っています。でも、モチーフの読解をしなくても、そういうの抜きで楽しめる素晴らしいお話がいっぱいあると私は信じているので、それに目を向けず偏見を抱いている人たちに向けて書いているっていうのはあるので、誰でも読めるようなものにしようというのはありますね。

ツ:そうお伺いした手前意地悪ですが、僕は岡ディヴィさんの書いたものの中だとダントツで『天檻』解説が印象に残っていて(笑)、あそこまでモチーフ読解を極めるとあれは一つの芸ですよね。

岡:そうですね(笑)、あれはだいぶ品のないスタイルではあったと思うんですけど。

ツ:僕は「百科全書的」っていう言い方をしますけど、ああいう読み方(モチーフ読解)でしか拓けてこない視野があるとすればそれはどういうものだと思いますか?

岡:あんまり伝わっている実感がないので微妙なところなんですが、『天檻』の記事の最後にもちょっとだけ書いたことで、モチーフを読むって頭打ちというか。一対一対応がせいぜいになっちゃうんですが、『天檻』ってそれがすごく多くて、それに気を取られちゃって、本当はもっと感じ取れるものがあるはずなのにそっちでごまかされちゃってる人がいるんじゃないかなという気がしていて。だから、ある意味で「このモチーフはこうですよ」っていう種明かし的な感じですが、それはもうこのnoteに任せて!という気持ちで書いたので、じゃああなたの一番心に残ったところはどこですかっていうのを考えるきっかけになればもうちょっと『天檻』を豊かに読めるんじゃないかなというのがありますね。
 直近のイベントだった『絆光記』もそうで、今回私はモチーフ的な読み方をやめた側で読んだんですけど、例えばサポートカードの【王と蚤】が「オートノミー」とかかってるんじゃないのか、みたいなのが最速で流れてきて、そこに気づくのすごいなと思いながら、一方で今回のイベントシナリオでそういうのは個人的にはどうでもいいかなと思ったんで、それは他の人に任せちゃおうっていう。その「他の人に任せちゃおう」が『天檻』においては私のnoteで代替できるっていう意味で、一定の意義はあったかなと思います。

ツ:これはすごく根本的な話というか、『SHINOGRAPHIA』という雑誌の根幹に関わる部分だと思うんですけど、シャニマスのコミュを読んで、それを解釈して書くことの快楽ってなんだと思いますか?

岡:これは個人的というか生理的な部分に近いんですが、シャニマスについてそれを読んで書くっていうのはそこで行為として完結してるんですよ。結果的にそれがnoteだったりブログだったりにアップロードされてるだけで、自分がシャニマスについて向き合った時間とか感情を考える手段として書くっていうのがあるのかなと思います。もちろん読みやすく書いてますけど、書くこと自体が一番大事で、読まれることは二の次になっちゃうことが私はありますね。

ツ:解釈っていう行為は、読んだ瞬間に終わっているものであって、それを書くときにもう一段階の解釈が入るんですね。だから、考察や批評めいたブログって、広い意味での二次創作、三次創作だと僕は思ってます。でも、僕はテクストをちゃんと読めば真理が見えるというスタンスでやっているので、今回『SHINOGRAPHIA』に書いた『VS』論もそうだし、noteに書いた浅倉論とか冬優子論もそうだし、感想という形でTwitterの140字以上のことを言いたいのであれば、論理がなければいけないし、論理があるということは「おはなし」があるということですよね。自分の書いたものにストーリーを持たせるんだったら引用しなければならないと。っていうのがあるんで、僕は2万字以上の文章を書くってなったら、まずシャニマスを解釈するとはどういうことなのかっていうベタな視点に立って、シャニマスのコミュを消化して、書くってなったときに自分の考えを解釈する。で、出てきたものを自分が読んで、自分が解釈するという形で、安直な言い方ですけど自分との対話をするわけです。そこからさらに言うなら、対話ができればいいっていうところまでは岡ディヴィさんと同じなんですが、書く以上エンタメでなければならないと思っているので、自分の書いたものが多くの人に楽しまれるかどうかはともかくとして、読んで楽しい人が読んで楽しいように書いてるつもりではありますね。
 この後の4番の質問にも繋がってくるんですけど、読まれようとしていない文章を見ると腹が立っちゃうんですよね。やっぱあるじゃないですか、これは何のためにnoteに書いたんだろうっていう。岡ディヴィさんの文章にしても、僕が気を付けて書いている文章にしても、そういうところを周到に回避しようっていう意図があって。で、『SHINOGRAPHIA』に書いた皆さんはそういうことを考えていると僕は信じているし、それが一つの理念であると信じてやっているので。最初に戻りますけど、岡ディヴィさんがnoteに書くにあたって、ある種の「分かりやすさ」に気を付けていると仰いましたけれども、分かりやすいってなんなんだろうってちょっと思うんですけどね(笑)、シャニマスを知らない人でも分かるのが分かりやすい文章なのか、シャニマスを読んでいる人が一番理解できるから分かりやすい文章なのかっていうのは微妙ですが、まずは日本語として明快であるっていうことですよね。そういう形で文章を残すことがシャニマスにとって価値があるとお考えになっているということだと思います。それがイデーということですからね。

岡:書かれた時点で一番最初の目的は終わってるんだけども、同時にそれが読まれた以上、誰か一人でも心が動くような、読んでいて面白いものにしたいっていうのはある意味必然というか。

ツ:そうですね。岡ディヴィさんの文章って、アイドルに寄り添おうとか、読み手に寄り添おうとかっていうのがすごいあるんですよね。それが岡ディヴィさんの文章の良さだと思うんですけど、それは無意識でやってるんですか?

岡:意識的にそうあろうとしてるところもあると思うんですけど、半々ぐらいですね。もう半分は割と無意識的というか。

ツ:意識的にやっているとしたら、読み手に寄り添うことによって、読み手は書き手に寄り添うことができると思いますか?つまり、読んでいる人が、書いている人がこんなに寄り添ってくれているんだから、自分もこの文章に寄り添って読もうっていう態度に必ずなると思いますか?

岡:私の悲観した物の見方だと、必ずそうなるとは限らないと思うんですけど、一方で、いろんな人が読んでくれたら一人ぐらいそういう人が出てくれてもおかしくないかなという気はしていて、僕のnoteは大したものではないですが、それが一瞬だけでもシャニマスと同じものであってほしいというか。シャニマスやキャラクターが、こんなにもメッセージを真摯に紡ごうとしているのであれば、私はできるだけそれに寄り添って読みたいし、そうやって解釈をしたいと思うし……。それが規模は小っちゃくなるかもしれないですけど、私の書いた文章を読んだ誰かが、同じように私みたいな態度になってくれる可能性は、一握であってもそうであってほしいなという気持ちではいますね。

ツ:僕はシャニマスについての文章を書くときに、シャニマスとは違った形でシャニマスと同じぐらいの衝撃を与えたいと思って書いてるんですね。シャニマスを読んだときとは別の感覚なんだけど、これはこれで、っていうのがあればいいなと思ってて。僕がこだわるのは批評ですけれども、それは批評しか持ちえない力だと思っているし。そこを皆さん(『SHINOGRAPHIA』ではなく)信じて書いているのだろうと思ったら別にそうでもないということを最近知ったんですよね。自分の文章が、物語とは違った形で言葉の芸術として読み手に与えるインパクトをある程度ナイーブに信じていていいと思ってるんですよね、僕は。じゃないとあんまり書く意味がないと思ってます。『絆光記』のルポライターにしてもそうですけど、彼は最初「言葉こそが現実を切り取るんだ」と言ってますよね。でも、僕は言葉が現実なんだと思ってるんです。それって僕がロマン主義者なだけなのかなって今回皆さんの『絆光記』の感想を見て思ったんですけど(笑)。

岡:ツァッキさんがロマン主義的っていうのもあると思うんですけど、『絆光記』は相当ネガティブに書かれたお話だなっていうのは感じていて、あれが「言葉」をテーマにしたお話として正道とか王道だったのかというとまったくそうではない。むしろ、そこに悲観的だったからこそ自分が共鳴できたのが今回のイベントシナリオだったのかなと。だから、あまり大っぴらには言ってないですけど、『絆光記』を読んで、言葉の難しさだったりとか、広告の持つ役割だったりとかに語りが終始してしまうのはどうなんだと思ってます。あんなにネガティブなストーリーに表現論みたいなものを結び付けちゃうと、それを語ろうとする人の表現論と齟齬が生じちゃうんじゃないかなという気がするぐらい後ろ向きですよね。

ツ:はるきの【桜花拾】もそうでしたよね。表現論に終始してしまいがちな語りが多かった記憶がありますけど。

岡:そこがまったくゼロとは言わないですが、あれを表現論と言っちゃうとすごくさみしくないかというか。表現行為がむなしいことだという悲観に寄りすぎてしまうし、そういう観点から一歩引いていたからあの話は綺麗にまとまってたんじゃないかなと思うので。その意味で【桜花拾】も『絆光記』も悲観的でネガティブテイストなお話だったと思いますね。

ツ:少なくとも『SHINOGRAPHIA』に書いている我々って、言葉でシャニマスを語りなおすことによって、シャニマスのファン、あるいはシャニマスに対する見方みたいなものをある程度変えられるという希望的観測を持っていないとやはり書けないわけですよね。でも、やっぱり言葉で世界が変わるわけがないっていう悲観もどこかで持っているっていう。だから、個人的にはやっぱり『絆光記』は受け入れがたいんですよ(笑)。最終的には(ルポライターが)救われてほしかったし、俺の言葉でなんとかなるんだって思ってほしかったけど、そうはならなかったじゃないですか。しかし、「光について語らなければならない」と書き出して、彼の物語が一旦終わるのが僕は重要だと思っていて。結局我々がnoteの真っ白な画面に最初の一文字を書き出すときの気持ちもそういうものだと思うんですよね。これ一行でシャニマス業界が変わるわけがないと思いつつ何か変わってほしいと思いながら書いてるわけじゃないですか。僕は読み手がどのレベルでそれを思っているのかっていうのは考えるんですよね。
 今回僕の『VS』論でもちょっと書いてますけど、キャラクター消費っていう面がどうしてもこういう二次元コンテンツには付きまとうと。で、消費は消費なんだけど、めんどくさい消費の仕方をしようじゃないかっていうのがシャニマスの言いたいことだと思うんですよね。萌えだけじゃないんだよっていうことをシャニマスは教えてくれていると思ってるんですけど、そういうのもあって今のnoteの盛り上がりもあるでしょうし。そこにあたって、「読む」と「書く」だとすごいハードルの差があるわけですよ。3行読むのには5分で済むけど、3行書くのには30分かかっちゃったりするわけじゃないですか。そういう現象に対して、noteを純粋な読み手として読んでいる人がどれぐらいいるのか、また純粋な読み手として読んでいる人がいるとして、どのくらいのシビアさでこの問題を受け止めている人がどれだけいるのかはちょっと気になるところではありますね。

岡:それこそ、自分が投稿したnoteの中で一番いいねがついたのが【ノンセンス・プロンプ】について書いた記事で。あれを友人に読んでもらったときに、すごい君らしいなと言われたんですよね。それはなんでかっていうと、記事の後半に行くにつれて、キャラクターの実在について非常に悲観的になっていくし、それを信じる自分についても悲観的だし、挙句死んじゃえば解決するみたいなやけっぱちな結論に行きついちゃってるからで。お世辞にもいい文章だとは自分ではあまり思わないですけど、おかげさまでいいねがいっぱいついたっていうのもあって、反応してくれる方が結構いたんですね。で、半分くらいの人が実在性について言及してるんですが、そこは私にとってエサでしかないというか、実在性そのものについて喋ろうという気はあまりなかったので、そこで書き手と読み手に情報の非対称性があるなとは感じましたね。倫理的とは言えないこの文章にたくさんいいねがついたのは、私が込めた非倫理的な(死んでしまえばいいというような)メッセージが読まれていなかったからこそだと思います。

ツ:あの記事は僕ももちろん読みましたけど、こんな言葉遣いが正しいか果たして分からないんですが、ある種奇形的な文章だなと思っていて。僕は批評のメソッドに即して書こう書こうとしてしまうので、そうすると絶対出てこない文章なんですよ、あれって。【ノンセンス・プロンプ】を通して、実在が自壊していくプロセスが仰られたような「やけっぱちさ」に貫かれていると言ったような。これは僕には書けないなと思ったんですけども。ああいう言説を呼び起こしてしまうシャニマスとはなんなのかっていうところをみんな考えるべきだと僕は思ってるんですよね。

岡:それは本当にそう思いますね。批評のやり方なんて私はもちろん知らないですし、(シャニマスを)読んでいる人のほとんどより私は教養もないですけど、それでもシャニマスがすごく好きだから、そうせざるを得ない。語ろうとするんですけど、ぬかるみにはまって、うまく行かないからやけっぱちになっちゃうみたいな、そういうみっともなさはあるんですけど。でも、それは一生懸命やっていることなので、愛おしいと思うし、そういう人が増えてくれたら嬉しいなっていうのは強く思いますね。

ツ:それが『SHINOGRAPHIA』をやった一番の理由なので、こういう雑誌を出すことで第二、第三のものが出てくるといいと思ってます。僕はそういう(批評文を書くような)教育も受けてきたし、自分がそういう文章が好きだから、いわゆる大学における批評みたいな文章に触れてきたっていうのもあるので、自分の書くものがそうなっているだろうなとも思うんですけど、一方で岡ディヴィさんの文章みたいに破れかぶれで叫びのような文章って出てきていいと思ってるんですよね。やっぱりそれはみんなどこかで思ってるんですよ。破れかぶれでありたいとみんなどこかしら思ってると思います。でも、カチッと書いた方がかっこいいとも思っているが、多くの人はカチッと書く練習をしていないからできない。っていうのがあって、僕は多くのシャニマスの批評を目指した文章っていうのは、あんまりうまく行っていないんじゃないかなっていう個人的な見立てがあるんですけども。ただ、岡ディヴィさんのnote紹介記事を見てそれも雑駁というか、ちゃんと面白いことを言っている人がいるというのも知れたのであれは非常によかったですね。

岡:次の質問にも絡んでくるところだと思うんですけど、別にこき下ろしたりはしないけど、あまりピンとこなかったなみたいな文章もあるにはあって、そういうものが体裁は整ってるけど中身が伴ってないっていうのを感じることはときどきありますね。

ツ:僕は浅倉論にしても冬優子論にしても『VS』論にしても、最終的には叫びとかうねりみたいなものを表現したくて書いてるし、それはカチッと書かれた文章でも可能ですよね。

岡:そうですね。まさにツァッキさんの文章を、皆さんこれ面白いから読んでくださいって言うときに一番強調してるのは、序盤の文章を読んで「これカチッとしすぎてるからノットフォーミーだな」っていう態度はやめてほしいっていうことなんですよ。最終的にはそれは魂の叫びだったりとか、自分の叫びに近いものを書き表してるから、一見すると難しいから俺には読めないわと思わず読んでほしいし、読んでくれたらきっと分かるはずだっていう気持ちがあったんで、紹介せざるを得ないというのはありましたね。

ツ:いや本当ありがたい話です(笑)。

質問4.人のコミュの感想を読んだり、面白いnote記事を見つけたりすることもシャニマスのひとつの楽しみであることを岡山氏はその多読ぶりから体現しているように見受けられる。岡山氏にとって、優れている記事とそうでない記事があるとすれば、それはどこで線引きしているか?また、もしなんでも面白がれるとすれば、岡山氏にとってアマチュアの文章を読む楽しみとは一言で言って何か?

岡:これはすごくシンプルで、語りたいっていう気持ちが伝わってくる文章だと読んでて楽しいなと思いますね。お気持ち表明みたいな言葉が平然と使われているっていう事情はありつつも、それが本気でその人の言いたいことを表現しているのであれば、巧拙だったりとか、その主張自体に共感できるかっていうのは問わず、読んでいて何かを感じる文章にはなるのかなっていう。そういう意味ではシャニマスは楽しいから始めてほしいとかみたいな記事も、シャニマスが好きという気持ちからスタートしているので、例外じゃないのかなというところはありますね。

ツ:シャニマスが好きなんだっていう気持ちが出ている文章をできるだけ評価したいっていう気持ちは僕もあるんですけれども、自分の中でこれはまだ答えが出ていないんですが、どこでその熱さを感じ取っていると思いますか?こういうところがあったらこの人はおっと思うっていうような。

岡:その都度その都度で都合よく読み替えてるところはあると思うんですが、表面的な評価にはなりますがたくさんシナリオを読んでるっていうところもあるし、自分が感じたことを一生懸命言葉にしようとしてる部分を読もうとしてる節はありますね。それこそnoteを紹介するnoteを2本書いてて、2本目のトップバッターで紹介した記事が、書き手の方が推しの男性アイドルがアイドルをやめて役者に転身することを受けて『アンカーボルトソング』を読んだ感想を書くというものなんですが、この文章がすごく技巧的かと言われると別にそういうわけではないし、コミュを関連付けて網羅的に読んでいるわけでもないけど、この人の気持ちが書き表されているからすごくいい文章だなと個人的に感じて。だから、この書き手に寄り添いたいという気持ちが喚起されたときに、その人のシャニマスへの思いを感じるのかもしれないですね。

ツ:そこがやっぱり重要ですよね。この人に寄り添いたいっていう気持ちって、岡ディヴィさんらしいというか。これはあくまで僕の話なんですけど、衝撃で声が出なくなっている文章が読みたいんですよ。打ちのめされてしまってどうすることもできないんだけど、でも何かを言わなくてはならないっていう衝迫がある文章が読みたくて。で、そういうシャニマスのコミュって、割と限られているというか、結構皆同じじゃないですか。その中でもひときわ俺はシャニマスが好きなんだと声にならない声で訴えかけている文章がすごく好きなんですよね。読み手としての僕の考え方だとそこになりますかね。僕がすごく好きなのが、摩美々の架空のコンサートに行った話(笑)。やっぱりあれも、キャラクターへの愛で声が出なくなっちゃってるんですよね。これは多分僕がシャニマスで一番最初に読んだnoteですね。

岡:一番最初に語れなさみたいなものがあって、それでも語るっていうのが魂の叫びに繋がっていくのかもしれないですね。

ツ:そういう形で書き手の中に葛藤がないと、シャニマスじゃないだろうと思うんですよね。書き手の中にアンビヴァレントなものというか、なんでこれが語れないんだろうというもどかしさがある文章を読みたいっていうのはやっぱりありますね。

岡:すべてを語れるし、すべてを解説できるみたいな万能感に従って書かれたものは、芸としての細かさは評価できても、最終的に印象や心に残ったりっていうことはない気がします。

ツ:そういうところを求めて私たちはシャニマスを読んでいるし、シャニマスについて書かれた文章を読んでいるということですよね。

岡:それこそ質問に立ち返ると、いい文章はこの書き手に寄り添いたいなという気持ちが文章に感じ取れることが条件だと思うんですけど、そうでもない記事があるとしたらっていうところで、そういう文章に共通しているのは漫然としている感じなんですよね。ジレンマがないというか、ある種の万能感に近いんじゃないかなと。だから、例えば文章の冒頭に、このお話ってこういうお話だったと私は思うんですっていうのが提示されて、それ以降オープニングからエンディングまでの全8話を最初に提示した「こう考えました」っていうので読み解くものがあったとして、それって労力としてはすごいし、文章量も多くなるので大したものだなとは思うんですけど、一方で最初に言ったことを何回も同じことを言うことになってしまっているので、読み物としては最初で終わってしまっているし、そこにその人の思いが感じられないですよね。それはただ書かれてるだけだなと感じてしまいます。

ツ:さっきの書く話にも共通してくるんですけど、書くときに印象から構造を引き出す作業っていうのが絶対に必要なわけですよね。時系列に沿って書けばいいというものではないという。何故そうなのかと言ったら物語がそうはなっていないからっていうのはシャニマスを見れば明らかですよね。シャニマスというコンテンツで語られるストーリーそのものが、時系列に沿って書かれているものがあんまりない。結構色んな時系列が入り乱れて書かれてると思うんですけど。で、それを語られた順で語ったら当然漫然としますよね。

岡:頭から順に書いていく文章だとやっぱり何のために書かれた文章なのか分からなくなっちゃいますね。

ツ:本人としては気持ちの整理みたいなところがあるのかな。でも岡ディヴィさんがnoteで紹介されてる記事はどれもそうじゃないですよね。
 二つ目の質問で、これは僕が一番気になってることなんですが、アマチュアの文章を読む楽しみとはなんでしょうか。

岡:アマチュアの文章を考えたとき、当然想定されるものとして、素朴に文章の中で言ってることが違ったりとか、主張がむちゃくちゃだったりとか、ただただ書いてるだけで中身がなかったりとかっていうのはあるんですけど、それに対する批判があるという意味ではまったく無意味とは言えないかなと思ってます。あと、これは個人的な感性の部分ですが、私はシャニマスを読んでいてこれは何かを語らなければいけないという気持ちになることがあって、それを誰かと語り合いたいっていう気持ちにもなるんですけど、そういうものを抱えて、お金がもらえるわけでもなく、名誉のためでもなく何かを語りたいからっていう理由で文章を書く人たちが自分以外にも何人もいるんじゃんっていうことを感じられるのはすごく嬉しかったりしますね。

ツ:そこは僕も完全に同じですね。同人誌もそうですが、僕は文章の発表の場として一番美しいのはブログだと思っているので。noteって、今どれぐらいの人が見てて、スキがどれぐらいついてって見えますけど、それこそ昔のテキストサイトとかってまったくそれがなかったわけですよ、キリ番とかがなければ。それでも書く人がいたっていうのが個人的にすごく美しいと思っていて。承認で書いてる人もいますけどそうじゃなくて、自分の利益じゃなくて、誇りとか欲望に従って書かれたものが読めるのがブログのいいところですよね。それが一番の面白さですよね。

岡:そうですね。そこがやっぱり私も強いです。どうしてもいいねを稼ごうと思って文章を書いたら、もうちょっと違う形式になるだろうなって思うんですけど、そうじゃない文章を書きたいし読みたい。Twitterのいいねはついちゃいますけどふせったーとかもそうで、承認が絡まない自分の言いたいことみたいなものが読めたときはすごく嬉しいですね。

質問5.(共通質問)シャニマスは現在メディアミックス含め、6周年でなお盛り上がりを見せている。しかし、「未来の廃墟」としてのシャニマスを忘れることは、コンテンツへの無批判にもつながってしまうだろう。それを踏まえた上で、岡山氏が思う、「シャニマスの最も幸福な幕引き」はどのようなものか?

ツ:この質問は、僕が『SHINOGRAPHIA』の序文でシャニマスのことを「いずれ忘れ去られるべき未来の廃墟」と形容していることを受けているんですけども、すべての二次元コンテンツはそういう性質を持っていると思うんですね。普遍的な文学作品とかではないから、どこかで忘れ去られてしまう瞬間は来ると。例えば音楽ですが、ベートーヴェンの作品は100年残るけれども、シャニマスが100年残るかって言われたらそうじゃないわけですよね。シャニマスが10年、15年で終わるとして、それが終わるときに、抽象的ではありますがどのような終わり方が最も幸福だと思いますか?

岡:非常に難しい質問ですが、シャニマスが一過性で、私がシャニマスを忘れてしまう日が来るとしても、私の心にダメージをシャニマスが残してくれるのであれば私にとってのシャニマスの幸福な幕引きになるのかなと思っています。これまでもシャニマス自体がシナリオでいずれ終わる、みたいなことを意識的に語ってきたっていう経緯があるんじゃないかなと思うんですけど、シャニマスのサービス終了の日程が決まってもうシャニマスの物語が語られなくなりますっていうのが今後決まったとして、そこに向けてきっとシャニマスはふさわしいものを用意してくれるだろうという予感も当然ありますしね。ただ一方で、シャニマスという物語の中にサービス終了とか世界が語られなくなるっていうこと自体を描き込むことは絶対にできないので、暗喩としては描けても直接的に描くわけにはいかないですし、そこにゲームのアンビヴァレントさというか、本当は終わるということがみんな分かっていて、それを描くことに矛盾とか揺れ動きがある中でアイドルたちの姿が強く私の心の中に残れば、シャニマスにログインできなくなってもそのことを忘れないし、それが心の傷になって残ってくれたらその心の傷を忘れる日が来てもそれは幸福な幕引きになってくれるんじゃないかなと思います。

ツ:岡ディヴィさんは最初の質問から一貫してますけど、シャニマスと私っていう点にずっとフォーカスしますよね。シャニマスとファンダムとか、シャニマスと二次創作とかっていうところに行かなくて、徹底的にシャニマスと私という部分に着目している気がします。

岡:今回質問事項をいただいて、どう回答するかっていうのをざっくり考えたときに叩き台のメモみたいなものを書いたんですけど、なんというか被虐願望っぽいなというか(笑)。ダメージを自分に残してくれたら嬉しいなというのを強く思っていて、シャニマスから何かを受け取るということが、綺麗なままではいられないというところにシャニマスの力強さがあるのかなという気がしていて。シャニマスとファンダムとか、シャニマスと二次創作みたいな社会的意義においてももちろんシャニマスは意義深い作品だと思いますけど、そこについて私は語らないし語ることもないですね。自分が受けたダメージの話をせざるを得ないのかなっていう。

ツ:そういうところが岡ディヴィさんがTwitter上でシャニマスの話をする人たちの中である種の存在感を得ている部分なのかなと思いますね。例えば僕とかは浅倉透は力の戯れだと言ってしまうわけですよ(笑)。冬優子は悲劇の人だとか。岡ディヴィさんだったらそうは言わないし、逆に言うと僕の言うようなことって岡ディヴィさんからは絶対出てこないんで。だから、岡ディヴィさんの雛菜、小糸、にちかに対する言及っていうものに共振する人がいるとすれば、そこにシンパシーを覚えるんでしょうね。徹底的に岡ディヴィさんの言葉で言うならダメージっていうものを自分が忘れない限りで心に秘めて生きていくことが、シャニマスから何かを受け取ることだということですよね。それってコンテンツの持つ一つの究極的な目標だと思うんですよ。それは文学でもそうだし映画でもそうだし。例えばある一本の映画を観て、そこからすっかり人生が変わってしまったと。人生が変わってしまったっていうのは別にいいことだけじゃなくて、そこから人生があれよあれよと悪くなってしまったりしても、その映画が人生を変えたということには変わりないわけですよね。で、そういう破壊力がシャニマスにはあると僕も岡ディヴィさんも思っていると思います。読むうえでもそういうインパクトが反映されている文章がいいということですよね。

岡:そういう気持ちが感じられた文章を読んだときにシャニマスをやっていてよかったなと思いますね。

ツ:『SHINOGRAPHIA』の序文を書いたときからずっと考えているんですが、僕は序文の中で「未来の廃墟」という言葉をさらっと書きましたけど、僕もここまでハマったソシャゲというかコンテンツ自体初めてなんですよ。三次元アイドルオタクのファンダムにずっといましたけど、同じアイドルグループのファンダムに2年以上いることはなかったですね。かれこれ十数年やってましたけど、2年スパンで興味が移り変わっていました。でもシャニマスは4年間ほぼ同じ熱量でやっているので、そういう深さがあるし、それだけ僕もシャニマスからダメージを負っているし、そういう意味では僕は『SHINOGRAPHIA』はシャニマスに対する餞のつもりです。今後シャニマスが続くとして、そして第二、第三の『SHINOGRAPHIA』が幸運なことに現れたとして、その対象がいつか終わることに対する意識に貫かれていることが一つの価値だと思っています。例えば、夏葉のLanding Pointで、「放課後が終わるとしたら、真っ先に私じゃない?」っていう台詞がありましたけど、ああいう台詞が夏葉から出てくることってすごく意義があると思います。それはまあ放クラというグループがそういうグループだという話もあるんですけども、『五色爆発』の廃校の校舎の窓から果穂が叫ぶシーンがなんであんなに感動的なのかと言ったら、いずれ終わる予感がそこに横溢しているからだし。それはコンテンツの自己言及でもあるんですが。【三文ノワール】、【ノンセンス・プロンプ】、【桜花拾】もそうですけど、「永遠」というテーマをいつまでも扱うことはできないわけじゃないですか。であるならば一旦シャニマスが自分にピリオドを打つフェーズが来ないといけないので、それはシャニマスやこういう文芸同人含めた二次創作にしても、どこかの段階で一回みんなが共有しないといけないと思っています。
 で、僕は割とシャニマスとファンダムっていうところで「シャニマスにおける幸福な幕引き」っていうのを考えたんですけど、岡ディヴィさんから「私にとってシャニマスが終わるとすればそれはどういうことなのか」って話が出てきて、あっ、そう来るんだ!という感じがして、結構面白かったですね。

岡:色々考えたんですけど、これ以外出てこなかったですね。ちなみにツァッキさんはどういう風に幕引きを考えていますか?

ツ:そうですね……。Twitterの言動からそうは見えないかもしれないんですが、僕自身があんまり人の記憶に残りたくないっていうたちなんですよ。期せずして目立ったりはしますけど。僕はもともと2ちゃんねるをやっていたので、匿名であったりとか、言ったら埋もれて消えるっていうのがSNSのよさだと思っていて、シャニマスに出会って自分の生きてきた爪痕を世界に残してもいいのかなという気持ちになったんですね。でもやっぱり僕もそうだしシャニマスもそうなんですが、所詮は床のシミになるだろうという気はしていて。で、床のシミになるのが最も美しいと思っているし。もっと具体的な話になりますけど、シャニマスがサ終するときに誰もシャニマスやってなかったらいいなと思うんですよね、僕含めて。みんなシャニマスを忘れた状態でサ終してほしいし、それが一番シャニマスらしいと思いますが、そうはならないわけですよ。絶対サ終するってなったら話題になるし、多分駆け込みでやる人とかもいるから、今メディアミックスもしてるし、全然そんなことにはならないんですが、願わくば誰もシャニマスをやっていない状態でサ終してほしいですね。なので僕のようなファンは割と不孝者というか、シャニマスには地下出版であってほしいという思いがあるので、まあそうはなってないんですが、最後くらい自分の好きなコンテンツに惨めに死んでほしいんですよね。
 なんでこんなことを言うかっていうと、まさに僕が好きだった地下アイドルがまさにこうして終わったんですよ。僕が中3から高2ぐらいまで通ってた地下アイドルがいて、最初5人組だったのが色々メンバーの脱退があって、最終的にそのグループ名を冠しているんだけど1人のメンバーしか残らなくなって、誰にも知られずその子が卒業してグループが消滅したっていうのがあって。僕はアイドルグループの終わり方としてはそれが一番美しいと思っているし。シャニマスもそうであってくれたらいいなというのは思いますね。

岡:ひっそりと息を引き取るというあたりにはるきの【桜花拾】であった「はじまりも終わりもない場所」を想起させますね。確かにそれはそれで美しい光景かもしれない。

ツ:僕も割と楽観主義なんですよ。別に俺が見てなくてもこのコンテンツは生き延びるだろうって考えちゃうんで、三次元アイドルみたいに他のオタクがいっぱいいる場所に行かなければそのアイドルを見れないっていうのに耐えきれなくて三次元アイドル(のオタク)をやめちゃったんですけど、でもシャニマスってライブを除いたらプレイしてるときって自分とシャニマスだけじゃないですか。となると気持ちがそう(楽観主義)じゃなくなっちゃうんですよね。やっぱり俺だけのものであってほしいと思うので(笑)。

岡:ここ最近「永遠」をテーマにしたお話がいくつか出ているっていう流れがある中で、エンドマークというか、シャニマスがこれまで以上に終わりを意識していることをたびたび感じるので、その意味で各々がこういうことについて考えを巡らせるのは意味があると思いますね。

ツ:なので、僕もそれをもろに言ってしまってはちょっと身も蓋もないかなと思って、さらっと序文の中で言ってるんですけど、そういうことを皆さんが考えるきっかけになればなと。

質問6.(共通質問)「あなただけのシャニマス」を一言で言い表すとしたら、何になるか?

岡:気の利いた回答が思い浮かばなかったんですが、今朝7時に思いついた表現で言うと、「自分がいつか言いかけた言葉の続きが見つかるお話」が私にとってのシャニマスかな、と思います。にちかへの思い入れがまさにそうですけど、自分に近いものを見ながら、一方で自分が口にできなかった言葉の続きが見つかるっていう、キャラクターそのものではないし物語そのものを書いているわけでもないけれど、でも言おうとした言葉がそこにあるっていうところが「私のシャニマス」なのかなと思いますね。

ツ:すごくいいですね。それは僕が浅倉論の最後で書いたことにも繋がってくるかも。

岡:あれは本当いい文章ですよね。note紹介にも引用させてもらいましたけど。(言いかけた言葉の先が見つかるということが)シャニマスにおいては本当のことだと思うし、そうであることが美しいと思いますしね。自分が言わなければならないことの一行目がそこに読み取れるっていうことが幸福なのかなと。

最後に言いたいことがあればどうぞ。

岡:『SHINOGRAPHIA』が出る事前企画ということなので。本当にいい文章がたくさん載っていると思いますし、私のさっき言ったようなことですけど、「語らなければならなかった言葉の一行目」が『SHINOGRAPHIA』にもきっとあると思うし、きっとそれは手に取ったあなたにとってもそうであると確信しています。自分にとっての語りのきっかけが詰まっていると思うので手に取って読んでいただきたいというのが切なる願いですね。

ツ:すいません、宣伝までしていただいて(笑)。

岡:それこそ『VS』論なんか本当に早く読んでほしいですね。

ツ:『VS』論に関しては岡ディヴィさんに完成稿の一個前のバージョンを読んでいただいて、大変熱のこもったメッセージをいただきまして。自分の文章の宣伝になっちゃうんですけど、シャニマスのコミュを読むことの快楽っていうものと、シャニマスがなんで友愛というものをここまで描こうとしているかの必然性が一つの論理的帰結として導ければいいなという狙いで書いています。それが岡ディヴィさんに文章の中に潜ませているつもりはない僕の気持ちまで見抜くような評をいただいたのが非常に嬉しかったですね。

岡:そんな高度なことしてましたっけ(笑)。

ツ:岡ディヴィさんの美点だと思うんですけど、ある種の素朴さでしか見抜けない本質というものがあると思うんですよね。岡ディヴィさん自身が良い意味でとても素朴な方なので、ちょっとひねった読み方というか、それこそ大学で批評を読んだり書いたりしている人だったら逆に気づかないだろうなっていうところに岡ディヴィさんが気づいていらっしゃって、それがとても嬉しかったですね。

岡:(『VS』論の)一番最後のパートで、手紙というものが二者間の間で完結しているもののはずなのに、それが第三者に読まれることの奇跡に言及するくだりなんかは、物語的な語りが大きくうねっていく読み物としての快感がありましたし、締めもとても綺麗で。

ツ:ハードルがどんどん上がっていく(笑)。

岡:(笑)そうですね、でも本当に良い文章ですし、他の方のクオリティも保証されていると思います。結果的に『SHINOGRAPHIA』を手に取った人が何かを語るきっかけになればいいなと雑誌全体として思いますね。

ツ:最後に宣伝までしていただきありがとうございました。1時間半以上に及びましたが、こちらで対談は締めたいと思います。ありがとうございました。

岡:ありがとうございました。

(取材・文:ツァッキ @lettrederodez)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?