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「実在性」なんてぶち○そう![虚無への供物に代えて-前編-]

1 “睡れる花嫁”の愛し方

「アイドルマスターシャイニーカラーズ(通称シャニマス)」という作品の魅力を語ろうとしたとき、しばしばその言説の中心に据えられる「実在性」という単語の驚異的な空疎さに、そろそろ私はホラーじみた感動を喚起されつつある。シャニマスがサービスを開始してほんの一年二年程度であれば、こうした記号的表現をもって感動の共有は可能であっただろう。むしろ、そうした「手軽さ」がブームに火をつけることが往々にしてあるということを私たちは知っている。しかし、サービス開始から六年にもなろうとしているシャニマスにおいては、もはや「実在性」の一言に押し込めることなど不可能なほど、多様な魅力が花開いてきたはずだ。「アイドルを記号的に描かないのがシャニマスの魅力だ」と感じているのなら、貴方はその魅力を「シャニマスのアイドルには実在性がある」という記号の箱に押し込めることなど、最も行ってはならないはずではないか。泥濘にもがくが如く、たとえ体裁が整わなくとも言葉を尽くす行為こそが、シャニマスを愛するということであって欲しい。狭量な態度であることを重々承知しながらも、そう願わずにはいられない。それとも大勢は、「鈴木羽那に負けないオタク」で占められているのだろうか。
「実在性」という言葉を論の核に据えた文章として私が真っ先に思い出すのは、ウェブメディア「リアルサウンド」に掲載された、「アニメ『アイドルマスター シャイニーカラーズ』への期待と懸念 “実在性”にどう挑む?」という記事だ。この記事では、シャニマスという作品が追求してきた、そしてシャニマスの魅力としてユーザーに受け入れられてきた「実在性」について、次のように指摘している。

なぜ『アイドルマスター シャイニーカラーズ』が多重的で自己批判的でキャラクターに記号的なところがないのかというと、『シャニマス』はアイドルの実在性を追求するという愚直な一貫性を持っているからだ。シャニマス運営による実在性の追求の一例を紹介しよう。直近で記憶に新しいのは2022年の10月に行われた「見守りカメラ」という企画だ。これは「事務所に設置された見守りカメラ」という体でひたすらアイドルの衣擦れの音と吐息だけを聞くというだけのコンテンツである。はっきり言ってかなり気色悪いが、この企画からはあらゆる点でシャニマスアイドルに対する実在性のこだわりが見て取れる。

アニメ『アイドルマスター シャイニーカラーズ』への期待と懸念 “実在性”にどう挑む?

 シャニマスに登場するアイドルたちが「多重的」で「自己批判的」で「記号的なところがない」のかどうかは、本稿の主旨から逸れるため他の優秀な記事へと検証を譲りたい。少なくとも記号的なところがないという言には大いに疑問がつきまといそうだが――私は、私服が和装で雅な言葉遣いの女子高生(杜野凛世)も、鳥とお友達の引っ込み思案な女子高生(櫻木真乃)も、十二分に記号的だと思う――、本稿が真に問題としたいのはやはり「シャニマスは愚直にも実在性を追求してきた」という記述の方である。この記事ではシャニマスが「実在性」を追求するその一例として、「283プロ見守りカメラ」という施策をあげている。2022年10月30日にYouTube上で展開された「283プロ見守りカメラ」というコンテンツでは、六時間に及ぶ生配信時間の大半を環境音で構成し、画面にもほとんど変化は訪れない。時折事務所にアイドルがやってきても、聞こえるのは足音や独り言、水を飲むような音であり、なにか鮮烈なやりとりや驚きが提供されるようなものではなかった。これは裏返すと「物語的ではない」と言えるだろうか。エンターテインメント的な装飾を行っていない動画だからこそ、283プロの生々しい日常が感じられる、すなわち「実在性が宿っている」と感じるのだろう。リアルサウンドの記事では続けて、このような指摘を行っている。

だからこそ『シャニマス』のアニメ化は、それ自体が物語化になってしまうのではないかという懸念がある。映像化の宿命として、あるコンテンツを別のコンテンツで表現する場合、そこに必ず翻案の必要性が出てくる。その過程で解像度を低くしたり、情報が入れ替えたりするのは避けられないことだ。

アニメ『アイドルマスター シャイニーカラーズ』への期待と懸念 “実在性”にどう挑む?

 引用元の記事では、脚本を練り込んだり、設定を作り込んだり、あるいは演出を考え抜いて構成することを「物語化」と捉え、シャニマスの魅力はそこにはないと考えていることが分かる。むしろそうしたエンタメ性からは距離を置いて、アイドルたちが存在していると信じられるだけの“リアリズム”を追求してきたことこそ、シャニマスらしさであると。例えば見守りカメラの一幕で、思わず「あるある」と感じるような真乃と甜花の間に沈黙が続く場面があるが、尺が限られるアニメという枠組みでこうした空気感を再現するのは困難であるから、「シャニマス」やそのアイドルたちをそのままアニメで描くという試みははなから無謀ではないか、というのがこの記事の主張だろうか。
 こうした認識は、すでにオタク間で共有されてるだけのレベルにとどまらない。「『シャニマス』の魅力である「実在感」はどのように生み出されるのか?生配信企画「283プロ見守りカメラ」の裏側【前編】」というインタビュー記事では、アイドルマスターチームの広報担当二名が、「283プロ見守りカメラ」をはじめとした、シャニマスのコンテンツ展開を語る内容となっている。すなわち「公式」だ。この記事の中にも、シャニマスの諸施策では「実在感」が感じられること(これが、「実在性」が宿るということとほとんど同義であることは、ご納得頂けると思う)を重視している、といった旨の発言が飛び出す。

吉川:『シャニマス』が4.5周年を迎えるにあたって、これまで大切にしてきた実在感を生かした企画をしたいと話をしていたのがきっかけです。今まで実在感を表現していたテキスト要素ではなく、五感でアイドルたちの存在を感じていただける企画はできないだろうか、という話になりました。

「『シャニマス』の魅力である「実在感」はどのように生み出されるのか?生配信企画「283プロ見守りカメラ」の裏側【前編】」

 シャニマスが追求してきた「実在性」の地平には、アイドルたちの息づかいや足音、あるいは体温といった「肉体」が待っていると、少なくともそう考えている人間が多いということが公式の発言から分かる。このような考え方の端緒とも言うべき思想は、このインタビューでも触れられている「テキストで表現してきた実在感」に始まっているだろう。ファミ通によるシャニマス総合プロデューサー高山氏とシナリオライター橋元氏に対するインタビューで、「アイドルの日常はすでに存在していて、それをカメラで撮影している。そういう姿勢で物語を作っている」という発言があったことが思い出される。

橋元:自然と浮かんでくるというよりは、基本的にはアイドルたちの日々はすでに存在していて、そこをカメラで撮影しているという感覚でしょうか。その中で、映画監督のように彼女たちの魅力を最大限引き出せるようアプローチを模索するというか。

『シャニマス』開発スタッフインタビューシナリオ編。アイドルたちの物語は“描く”というより、監督として“カメラで撮影する”感覚。実在性の高いシナリオを制作するためのこだわりに迫る

「描く」という行為が帯びる、それ以上はそぎ落としようのない恣意性については「映画監督のように……」という発言で予防線を張りつつ、あくまで橋元氏は「アイドルたちの日常をカメラで切り取っている」という立場にいることが分かる。この発言からは、先の「283プロ見守りカメラ」における「肉体の介在」による「実在性」や、リアルサウンドの記事における「物語性の欠如」を通した「実在性」という意図まではくみ取れないが、シナリオに立ち現れた魅力を多くの人間が拾い上げる中で、そうした「実在性」が共有されてきたという経緯は、想像に難くない。

 ……しかし、これら「実在性」という言葉は考えるに付け安っぽい概念であることに気づく。
 例えば「物語性の欠如」によってテキストに立ち現れる、愚直なまでのシャニマスの「実在性」というリアルサウンドの指摘は、「物語性がない」という概念を都合良く取り扱いすぎている点が気になるだろう。名作イベントシナリオ『薄桃色にこんがらがって』は、「物語化されていないアイドルの日常」であっただろうか?私には首肯しかねる。甘奈、甜花、千雪の三人がそれぞれに「らしい」考え方で行動しているから、なるほどそれは「実在感」をもって描かれているかもしれない。しかし、物語の発端は千雪にとって特別な雑誌「アプリコット」のオーディションが、甘奈内定の出来レースだった……という外的な出来事であり、それはシナリオライターによって都合良く持ち込まれた概念ではないのか?「反対ごっこ」という遊びを、果たしてアルストロメリアはどのタイミングで思いついて、どの程度遊んでいたのだろうか。物語のエモーションを膨らませるために脚本家が持ち込んだアイデアではなかった?これらを無視して「物語化されていない世界だ」と考えているのであれば、そのパステルカラーの認知を土台にして築かれた、記事が言うところの「実在性」とは、やはり薄っぺらな概念であると言わざるを得ない。イベントシナリオ『ストーリー・ストーリー』における霧子の台詞「生きてることは物語じゃないから」は、物語化することを否定しているのではなくめいめいに受け取られることで生成される「物語」が、できるだけ嘘のない姿であってくれたらという祈りであり、「シャニマスは実在性を追求する過程で、物語化を否定した」という解釈は、それを誤りだと断ずるつもりはないが安直な認知だと感じずにはいられない。『十五夜おもちをつこう』や霧子LandingPointを読むことでそうしたテーマはより鮮明に浮き彫りとなるはずであり、この記事の筆者には『ブレイド3』に絡めた「超絶技巧の名文」を付け加える前に、イベントシナリオを再読することをオススメしたい。この記事を読んだ私の、嘘偽りない感想がこのようなところだ。

「実在性」という言葉を真に安っぽくしているのは――残念ながら腐り果てた概念に貶めているのは――、「283プロ見守りカメラ」における「実在性(実在感)」の方だろう。息づかいや衣擦れの音が拡張する「実在性」とは、究極的には「あるある」でしかない。偶然事務所に居合わせた真乃と甜花が、会話もなく各々に台本を読んだり、ゲームに興じたりといった場面は、コンテクストが要請した場面ではない。あるいは、カメラを横切るときに聞こえてくる息づかいや弾む足音などはもってのほかであり、それはテキストからではなく、我々が共有する一種の常識(あるある)から浮かび上がってきたものだ。これらは、単に「ありそう」という一点によって描かれただけのものである。
 私たちが西城樹里の存在を信じられるのは、おつりが丁度になるよう端数の小銭を出して会計する彼女の描写があるからではなく(ただしこの描写は好きだ)、かつてのバスケ仲間から届いた手紙に自分なりの言葉でアンサーしようとするその姿勢を目にしたからであって、それが物語的なギミックに修飾されていようがいまいが関係ない。西城樹里に触れられる瞬間とは、単なる「あるある」が描かれた瞬間ではないはずだ。いや、そうはあって欲しくない!

 シャニマスの物語に心打たれてきた。私はシャニマスが大好きだし、素晴らしい作品だと思う。だが、シャニマスは他のコンテンツと比較して異質なことをしているわけではないとも思うのだ。物語が、世界が、キャラクターが魅力的であると思ってもらえるようにそれらを突き詰め、そして作り込み、掘り下げる。それがしばしば他のアイドル系作品には見られないような切り口になっているというだけで、「実在性」などと定義の曖昧な言葉を持ち出してその異質さを粒立てる必要はない。他のコンテンツと同じようなやり方で、他のコンテンツよりもずっと私が好きなところまで深掘りしてくれているというのが、私にとっての「シャニマス」だ。「実在性」という言葉は、そうした魅力をぼやけさせる。私はやはり、この言葉を殺して、むき出しの自分で「シャニマス」と向き合いたいと思うのだ。

 だが――私は「実在性」という言葉をぶち殺したいと願いながら、しかし憎悪することはできない。その言葉に、その言葉を口にせずにはいられない私たちの魂に、身が張り裂けそうな切実さを感じ取ってしまうからだ。

 アイドルたちには実存であって欲しい。
 肉体を持った個人であって欲しい。
 魂の抜けた死体ではなく、“睡れる花嫁”であって欲しい。

 だから私たちは、「彼女らの肉体」を探す。衣擦れや息づかい、SNS投稿の言葉遣いや句読点の使い方、枝葉末節とも呼べるような「あるある」の集積に血肉の温かみを感じようとする。実線によって描き出せない彼女らの姿を、ディテールによって浮かび上がらせようとする。まるで虚しい営みだ。別れた恋人とのメッセージのやりとりを見返している方が、よっぽど身になるかもしれない。
 だが、私たちはこれがやめられない。「実在性」と銘打って、私たちはあるあるを必死にかき集めるのだ。彼女らが聴いていそうな曲でプレイリストをつくって、彼女らが通学にかける時間を推定し、彼女らの使っているマグカップや靴や傘のメーカーを特定し、そうやって私たちは、彼女らの「肉体」とおぼしきものをかき集める。そこには、「あるある」というそれらしさが宿っているのだから、やっぱりそれは「実在性」なのだと言い聞かせながら。

 そんな切実な狂気を私は憎悪することができない。否定することができない。くだらない枝葉末節に囚われ、「実在性」に骨抜きにされた地獄にいるのだとしても、そこで懸命に生きようとする魂をどうしてあざ笑うことなどできるだろう。
 だからやはり、私は断罪するでも批評するでも、あざ笑うでもなく、「実在性」を殺して共に解き放たれたいと願う。そして解放された私たちは、地獄よりも不自由だが少しだけ救いのある煉獄で、どうしようもない自分を救う方策を探してもいいんじゃないだろうか。そろそろ私たちは、自分をねぎらってもいい頃だ。

2 アイドルを好きだというのは、少しだけ死ぬことだ

「実在性」を殺し、アイドルの実在を信じるための灯台を失った私たちは、何をよすがにすれば良いのだろう。それは各々の世界観によるとしか言いようがないが、私はそれを黛冬優子のpSSR【三文ノワール】と【ノンセンス・プロンプ】に求めたくなっている。まるで〈出題編〉と〈解決編〉のように一連の物語として仕立て上げられたこれらのコミュは、黛冬優子と「肉体(生命)」をめぐる物語の果てに、私たちが求めてやまなかった言葉が用意されていた。それは私たちを咎める言葉でありながら、赦す言葉であり、与える言葉でありながら求める言葉であり、嘘でありながら真実でもあるように思う。まるで、黛冬優子とふゆのように全てがあった。

 もしも黛冬優子に「肉体」があったなら、彼女は当然に年老いて、踊れなくなって、歌えなくなって、芸能界を引退して、やがて歩けなくなって、朽ちて死んで、灰になるはずだ。私が黛冬優子に存在していてほしい、彼女の心臓の音が聞きたいと強く願ったとき、その願いの裏側には朽ち果てるという宿命が組み込まれている。「肉体」を望むとは、すなわち「死ぬかもしれない存在であって欲しい」ということなのだと、私たちは自覚的にしろ無自覚的にしろ、その身勝手の咎を背負っている。……付言するまでもなく、私が彼女に肉体を望み、朽ち果てるという宿命を押しつけようとしていたとしても、実際に冬優子が年をとることはないから、そうした要請は有名無実となる。私たちが咎を背負っているのだとしたら、「だからなんだというのか」。早い話がそれだけのはずだ。はずだった。

 ――だが、【三文ノワール】と【ノンセンス・プロンプ】というコミュを通して、有名無実であったはずの「冬優子の命」にリアルな重みが与えられた。時代の流れに呑まれ、いつか忘れ去られるという宿命を負った「アイドル」である彼女の姿に、「遊園地」が、そして「アイドルマスターシャイニーカラーズ」という作品が重なったときに。
 
これらのカードコミュは、黛冬優子というアイドルの生き様を描いた物語である一方で、シャニマスと我々をめぐる「命の物語」でもあったからこそ、現実に横たわる私たちの官能を、否応なく刺激するのではないだろうか。

 シャニマスのいち登場人物に過ぎない黛冬優子は、よほどの方針転換が起こらない限り、決して死が描かれることはない。一方でシャニマスという作品には「サービス終了」がある。新規展開がなくなって、公式SNSの更新がなくなって、そして語られなくなって。そうやって、二度と目覚めなくなることが、誕生のときからその命に織り込まれている。シャニマスにはあるのだ。「死」という概念が。
 そんなシャニマスというコンテンツが内包する「死」の宿命が、遊園地やアイドルといったモチーフとの結びつきを通して、黛冬優子の「命」と重ねて描かれたとき、嘘っぱちでしかなかったはずの冬優子の命は途端、重々しいものになってしまう。そして、彼女に肉体とその果てにある死を望んでしまった私たちに、慚愧の念としてその重みはのしかかるのだ。【三文ノワール】【ノンセンス・プロンプ】というコミュを読んでいて私が、息苦しく、胸が詰まって、身動きがとれないほどの感動に打ちのめされたのは、これらが何よりもメタフィクションの企図に満ち満ちていたからだと思う。

【三文ノワール】のラストシーンでプロデューサーに問いかけた冬優子の言葉は、絶望と悲観のそれだった。冬優子が出演した映画のラストがどのようなものであったのか。ユウコの選択はどのようなものであったのか。それは描かれない。だが、「義体を獲得することで永遠の存在に置き換わる」というラストを、残っていく文化芸術たる「映画」に、「その身のまま朽ち果ててゆく、あるいは自死してしまう」というラストを、絶えず繰り返される消費の中に消えていく「アイドル」に重ねていそうだということは、比較的素直に納得することができるだろう。そして、【三文ノワール】のキモは「冬優子がどちらの選択肢を選ぶのか(あるいは、選びたかったのか)」ということでは「なかった」ところにあった。冬優子には「選べない」のだ。彼女がシャニマスの登場人物である以上、シャニマスに登場する以外の在り方を彼女は選べない。彼女はアイドルとして存在するために生まれたのだから、アイドルを辞めるという選択肢はないのだ。それは運命や宿命と呼ばれるもの。アイドル以外の道を進む選択肢が与えられないという意味で、黛冬優子は「宿命の人」であった。それこそが、【三文ノワール】のラストに冷たい温度を与えているように感じられてならない。彼女がどのように感じていようが、シャニマスが沈みゆくのなら、冬優子もまたその舟と運命を共にせざるを得ないのだから。
 シャニマスという嘘に内包された「黛冬優子という嘘」は、途中式をどれだけこねくり回したところで、アイドルという宿命に、そしてシャニマスという運命に抗することができない。そんな彼女の目に「女優」か「アイドル」かという問いかけは、とても残酷に映ったのではないか。アイドルの道を選ぶのならなおのこと……冬優子がアイドルを続けてくれることは、プロデューサーにとって幸福なんだなどと、浅はかな新婚ポエムを吐く気持ちにはなれない。シャニマスと共に死にゆくという宿命を含意するのだから、「すごいと思う?あの結末を」の言葉一つでも投げかけたくなるはずだ。

【三文ノワール】TrueEnd「幻冬」

【三文ノワール】を経て、黛冬優子という存在に「実在性」を求める態度は、それまで以上に壮絶な行いへと変貌した。彼女に「存在していてほしい」という願いは、そのまま【三文ノワール】のラストシーンへと連結されてしまう。ユウコが永遠の存在へと置き換わる、すなわち冬優子が二次元の存在から、朽ちゆく物質世界の存在へと置き換わるということは、なるほどシャニマスのサ終後にもその存在を保っている方法なのかもしれない。具体的には冬優子のフィギュアを購入することかもしれないし、冬優子の人格を模したAIをつくることかもしれないし、あるいは彼女の生涯を記した二次創作を生み出すことかもしれない。だが、やはりこの方法には問題があるだろう。ユウコを義体に置き換えるときと同じように、そこには倫理的な問題が潜んでいる。フィギュアを購入することは素晴らしいことだ。だが、それを黛冬優子そのものとして扱うとなれば、話は変わってくる。黛冬優子が肉体を得ているのではなく、冬優子が別のものに置き換わって、しかし冬優子として扱われ続ける場面のように私には見える。それは果たして、本当に愛した冬優子なのだろうか?倫理的な欠陥が浮かび上がりはしないか?
 ユウコが主治医と共に、朽ち果てる未来を選んだならどうだろう。実際に冬優子はこの結末しか選びようがないのだが、それがどのような未来であるかはもはや言葉を尽くすまでもない。私たちはいつものように、シャニマスが終わったことを悲しみ、そして忘れ、他のキャラクターを愛するようになる。あるいは、アイドル系コンテンツそのものに興味を失い、現実世界を生きるのに忙しくなる。「新しくないものにそれほど価値なんてない」。【ノンセンス・プロンプ】における冬優子はいささか悲観的すぎる口ぶりだが、それを否定するだけの強靱さを、果たしてどれだけのオタクが持ち合わせているだろうか。よほどの狂人か、よほどの浅薄か。私たちは好きでいることすらまともに貫き通せない、半端者の集まりではなかったか。

【ノンセンス・プロンプ】4コミュ目「周縁回帰」

【三文ノワール】の結末が示しているのは、黛冬優子を、あるいはシャニマスのアイドルたちを「現実」と接続させることは、はじめから絶望しか待っていない虚しい試みであったということだ。「あの結末も?」その問いかけに、無邪気な「実在性」を追い求めていた私たちは心を押しつぶさなければならない。アイドルたちに暴言を吐かれるよりもよっぽど、身につまされる鋭い言葉だ。
 だからこそ私たちは、【ノンセンス・プロンプ】というコミュがそうであったように、「実在性」という言葉との訣別でもって【三文ノワール】を終わらせるべきなのだ。「実在性」をぶっ殺して、黛冬優子と向き合う時が来た。
 嘘の存在に生々しいディテールを与えて「実在性」を見いだそうとするのは、受動的な態度だ。その言葉が要請する嘘っぱちの肉体は殺すべきだ。彼女らが嘘の存在であることはもはやどうしようもないのだから、せめて彼女らが本物でいられるように私たちが努力するべきではないのか。主体的に、彼女らの命を認める。与えるのだ。

【ノンセンス・プロンプ】では、【三文ノワール】で提起された問いかけに対しプロデューサーが一定の回答を示す。アイドルが必ずいつか終わるもので、みんなに忘れられていくものだとしても、そこに彼女らがいてくれる限り、彼は寄り添い続けるのだと言う。閉園しても、観覧車が回る限り整備し続ける整備士のように。それは、永遠のように長い長い今。いささかポエジーが過ぎるように思うが、この回答はとても感動的だ。そしてこの回答は、「実在性」という指針を失った私たちに進むべき道を照らし示してくれているようにも思う。そうだ。私たちは黛冬優子から「黛冬優子」を受け取ったのと同じように、彼女に「私たち」を差し出さなければならないのだ。そうやって、嘘でしかない黛冬優子と私たちが「時間」を共有することで、冬優子が生きる時間はほんの少しだけ本物になる。冬優子は嘘の存在だが完全に嘘の存在ではなくなって、私たちは現実の存在だが完全な現実に生きることをやめる。私たちは、その「嘘」に加担することによって、言葉遊びに過ぎない永遠のような一瞬をそこに出現させることができるように思う。

 私たちは、同じ「嘘」を存在させる共犯者だ。私たちの持つ「時間」という血液を冬優子に分け与えたことで、彼女はどこにも存在しない架空の「肉体」ではなく、現実世界の「時間」の上に「存在」を得た。血を分け合った私たちは、もはやコインの表裏のように不可分一体のはずだ。ゆえにTrueEndでプロデューサー――私たち――は、冬優子に時計を返した。現実とは異なる進み方をする、私たちと冬優子の「時計」。私たちが共有して進む、かけがえのない嘘っぱちの時間。
「嘘はふゆの酸素」という台詞は、黛冬優子が嘘の世界と嘘の時間に生きる架空のキャラクターであることを考えると、とても鮮烈なものに思えてくる。彼女がシャニマスと運命を共にすることがあらかじめ定められているのなら、シャニマスという嘘が続くことは、すなわち彼女が生きながらえることそのものでもある。彼女は嘘の供給がなくなれば消えてしまう存在だった。
 だからこそ、今度はプロデューサーが彼女に「嘘」を差し出す番だ。私たちの存在や時間を、彼女が存在するのに必要な「嘘」として分け与えるのだ。そうやって私たちは、彼女を騙し続ける。冬優子というアイドルが私たちを魅了してくれたように、今度は私たちが、その世界を心の底から信じ、永遠に続いていくのだと信じてやまない今この瞬間を。
 そうやって、二人の時間は再び時を刻み始める。

 さよならをいうのは、少しだけ死ぬことらしい。なら、アイドルを好きだというのも少しだけ死ぬことに似ていると思う。
 彼女たちは確かに存在しない。理解できない人間から見れば、どうしてそんな嘘っぱちに時間とお金を使うのかと、呆れられるだろう。けれど彼女たちが、単なる嘘っぱちでないことは私たちが一番よく知っている。
 私は、私が生きるはずだった時間を少しだけ彼女に分け与えて、同じ時間を生きている。私は少しだけ死ぬ。けれどその分、彼女は少しだけ生きている。それは永遠のように長い一瞬の出来事だ。思い出と呼ぶには儚すぎるだろうか。だが、愛するといういやになるほど自己中心的な所作が、ほんの少しは赦されるような気がする。痛みを感じているのは私で、与えているのは私なのだから。

【ノンセンス・プロンプ】TrueEnd「不斉原子」

 そうやって、今度は彼女の番が来る。扉を開け放って、眩いばかりの逆光に消えていく彼女が、「ふゆにバトンタッチね」と告げたように。私は与え、そしてやっぱり与えられるのだ。

 私と彼女らの関係は何度も何度も回帰しながら、時にそれを永遠のように感じる。



了    







※後編は雛菜とめぐるについて書く……はずですが、いつ書くのかは未定です。よろしくお願いします。※

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