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「クジラのおなかの中」とは【世界一やさしい『天檻』解説】

こんにちは。
岡山ディヴィジョンです。

みなさーーーん!!!
ノクチルは最高ですかーーーー?

\ ノクチル最高だって、思ってしまったーー!!! /

そんなわけで(?)今回は、「世界一やさしい『天檻』解説」をしていきたいと思っています。「解説」なんて偉そうな単語を使ってはいますが、様々な要素が複雑に絡み合った『天檻』というシナリオを読み解く、ヒントくらいに思って頂ければ幸いです!



0.なぜ「世界一やさしい解説」なのか

そもそも、なぜ本稿が「世界一やさしい解説」を標榜しているのかについて、ご説明します。釈明させて欲しいのは、別に調子に乗っているわけではない!ということです。
「世界一分かりやすい」ではなく、「世界一やさしい」というのがポイントです。

突然ですが、「天檻 クジラ 意味」などと検索すると、「シャニマス攻略 Wiki*」というサイトが上位表示されるのをご存じでしょうか。このサイトの『天檻』のページでは、「クジラのおなかの中」について次のような考察を展開しておられます。

以下はオープニングの「クジラのおなかの中で」を軸に考察。
○『スターウォーズ』のシナリオにも影響を与えた、比較神話学の古典『千の顔を持つ英雄』では英雄神話によく現れるエピソードのパターンを研究しているのだが、その一類型に「クジラの腹の中」というものがある。
・「クジラの腹の中」型のエピソードでは、英雄は(外に出るのではなく)未知の異界の中に入り、生まれ変わろうとすることになる。
(以下省略)

シャニマス攻略 Wiki* より

……なるほど?

大変説得力のある考察なので、是非全文を読んで欲しいです。
ただ、無教養人間である私にはいまいち飲み込みづらいというのが正直なところ。シャニマスの外の知識を用いた考察は説得力があると同時に、何となく煙に巻かれているような気持ちにもなってしまうんです。
だから、そんな気分になってしまう私と同じ馬鹿なみなさんの為、「知識」をほとんど使わない解説noteを目指します!

そういった意味で、「世界一分かりやすい」ではなく、「世界一やさしい」をタイトルに冠しているわけです!

それでは、しれっと無礼を働いたところで、『天檻』について考えていきましょ~~~~!


『天檻』

どうです、あの獣は捕らえられましたか
――――おお、手に傷が……噛まれたので?
なるほど網を破り、得手勝手に潜航し、大波をたてる……
それじゃ心も休まりますまい
……しかしあなた、もし首尾よく檻に収めたとして
いったいあれらが生きていけますかね

それぞれにソロの仕事も活発化しはじめたノクチル
少女たちにとって、この時間は早く来すぎてしまった将来なのだろうか
それとも遠い先から打ち寄せる、小さな波にすぎないのだろうか

『天檻』あらすじ


1.「転換」

そもそもノクチルのシナリオでは、「成長による価値観の変容」以上に、「転換による価値観の拡張」が強調して描かれてきたように思います。

例えばイベント『ワールプールフールガールズ』では、「将棋の駒」の裏表に着目し、駒を「ひっくり返す」という動作が印象的に用いられました。物語のラストに示された「今を永遠のようにしたい」というノクチルの想いは、将棋の駒のように「今」を「永遠」へとひっくり返していることが分かります。

この「ひっくり返す」という概念は、まさしく「転換」です。

したがって『ワールプールフールガールズ』というシナリオは、彼女たちの考えやスタンスが「転換」することによって、彼女らの「世界(価値観)」が拡張する物語だったと言えます。

『ワールプールフールガールズ』エンディング「各自決行されたし」より

このように、ノクチルのシナリオにおいて「転換」というのはキーワードであり、ひとつの軸になっていると思います。
ノクチルの歩みの集大成である『天檻』のイベントタイトルは、様々な意味が込められていると思いますが、「転換」という言葉にひっかけたものでもあるでしょう。

言葉を掛けた、ダジャレならぬ洒落表現は、『ワールプールフールガールズ』のコミュタイトル「うらない(NOTFORSALE!)」などが非常に印象的でした。

「占い」と「売らない」

本作『天檻』においても、サポートSSRのカードタイトルが【洒落】であったり、「天気(転機)」というモチーフが登場していたりします。やはり「言葉をかける」という表現は意識的に用いられていそうですね。
「天気(転機)」については後記します!


さて、『天檻』に「転換」という意味が込められていたのだとしたら、本シナリオではどのような「転換」が起こっていたのでしょうか?
結論から申し上げると私は、次の2つの転換が描かれていたと考えています。

①時間の転換「過去⇔未来」
②立場の転換「捕食者⇔被食者」

シナリオ内に登場した様々なモチーフの意味を深掘りしていく過程で、これら2つの転換についても考えていきたいと思います。


2.サッカー

『天檻』だけに限りませんが、「学校」は日常の象徴として登場します。
第1話「鎖状時間」で描かれた、ノクチル四人が屋上でご飯を食べる姿は印象的でしたね。ジュレいただき。ジュレもらうね~

そんな日常空間である学校に、「サッカーのスカウト」が現れるというのはどのような意味があったのでしょうか?

かわよ

学校でサッカーをプレイしているだけだった「先輩」は、スカウトが来たことによって学校中からちやほやされることになりました。一方で彼は、スカウトによる厳しい評価の視線にも晒されます。どちらも、「先輩」がプロになるかもしれないからですね。

その様子を小糸は、「まるでオーディションだ」と語っていました。

かわよい

この小糸の発言からも分かるように、「サッカー」の描写は「芸能界(アイドル)」の暗喩として機能しています。

スカウトが姿を現したことで、日常の象徴である「学校」に「プロの世界」が持ち込まれることになりました。これは言うなれば、「日常と非日常が混じり合っている状態」です。本シナリオのノクチルも、同様の状況に置かれていましたね。

それでは、「サッカー」と「アイドル」の要素が、それぞれどのように対応していたのかを整理しましょう。

①「先輩」=浅倉透

第1話「鎖状時間」の冒頭で、透と小糸は注目を集める「サッカー部の先輩」について雑談しています。
このシーンで小糸は、透がアイドルにスカウトされたときのことを思い出していますね。

小糸の目には、先んじて「プロの世界」へと飛び立とうとしている姿が、「先輩」と「透」で重なって見えたのでしょう。

こういった描写から、「サッカー部の先輩」は「浅倉透」の暗喩であったと考えられます。

円香の態度からも同様の示唆を読み取ることができますね。
彼女は「先輩」への歓声に対して、「騒がれてるからファンになっただけでしょ」と冷ややかな目線を送っています。そして円香は、浅倉透に向いている「業界の関心」についても、同様の姿勢を見せていました。

「興味があるのは浅倉に?それとも、幼なじみアイドルユニットに?」プロデューサーに対して、そんな皮肉を口にしています。

こうした描写から、『天檻』では「サッカー部の先輩」=「浅倉透」として描かれていたと分かります。

②「サッカー」=「パーティー」

学校という日常の空間で繰り広げられる「サッカーの試合」。小糸はこれを「オーディションのようだ」と語ったわけですが、『天檻』ラストの「パーティー」もこれと同様の構造を持っています。

どちらも「クローズドな場所」で、オーディションのような「評価の視線」が向けられる空間である、ということです。学校という閉じた場所と、プライベートパーティーという閉じた場所。スカウトからの視線と、ワイン坊やの視線がそれぞれ対応していますね。
また、評価される対象が「先輩」と「透」であり、①で考えたようにこの二人はイコールで結ばれることから、被評価者についても共通しています。

③「スカウト」=「業界人(ワイン坊や)」

先述の通り、学校という日常の空間に現れた「スカウト」は、そこにプロの世界という「非日常」を持ち込む存在でした。これは、ノクチルにとっての「業界人」と同じ立ち位置にいることが分かると思います。

また、②で考えたようにサッカーとパーティーはシナリオ上同一の図式を持った概念であることから、クローズドな空間で「先輩」を評価する立場であるスカウトと、クローズドな空間で「透」を評価する立場であるワイン坊やは、同様の役割を担った人物と分かるでしょう。

非日常が混じり込むことによって、ノクチルはいつも通りの「日常」が送れなくなりました。

第2話「ずっと仲良しノクチルとか笑」では、ノクチルメンバーにアイドルとしての仕事が舞い込み、学校に来られないというシーンがありましたね。屋上でご飯を食べる四人という象徴的なシーンから一転、一人でご飯を食べる小糸が描かれたシーンでは、「アイドル(非日常)」が日常にもたらしてしまう影響というものを、意識せずにはいられません。

さて、ここまでサッカーは「芸能界」のメタファーだった、という説を展開してきました。ということは、ノクチルの面々がサッカーとどのような距離を置いていたのか、態度を示していたのかを考えれば、彼女らのアイドルに対する現在のスタンスを掴むことも出来そうです。

(1)樋口円香

円香はサッカーの試合中、生物の授業を受けていました。生物教師は校庭から届く歓声に対し、「うるせーな、外」とこぼしています。この生物教師の心情は、円香の心情を表していると考えられるでしょう。

先述の通り円香は、この教師と同じように「先輩」を取り巻く熱狂に対して冷ややかな視線を送っています。「芸能界」や「アイドル」といったものに対して、一定以上の距離を置こうとする彼女のスタンスがよく現れた態度だと言えるでしょう。

「騒がれてるからファンになる」という発言も、先の節にて触れたように「先輩」に対しての意見だけでなく、「業界人からもてはやされる浅倉透」に対しての心情が表れた発言だとしたら、思い出されるのは『天塵』や【UNTITLED】がありますね。

「透にできることで、私にできないことはない」
樋口が抱える浅倉に向いた矢印を感じるセリフです。一見すると、樋口の中には浅倉に対する対抗心が存在しているように見えますが、個人的には少し違う感想を持っています。
これは「自分は浅倉と同格だ」という対抗心というより、「浅倉は特別な存在ではない」という感覚の発露なのかなと思っています。

【シャニマス考察】全イベントを振り返る【ノクチル編】 より

拙note(そんな言葉はない)より引用の通り、「浅倉透は特別だ」ともてはやす業界人、騒ぎ立ててファンになる人たちに対する円香の不快感は、「ノクチルや透を一方的に消費しようとする連中に対する苛立ち」という言葉に換言できるでしょう。
お前達が特別だと騒ぎ立てる浅倉透は、特別な人間ではない。透にできることで私にできないことはない。私は浅倉透を分かっている。…………

「消費する人たち」への不快感をあらわにする円香

こうした心情が発露する「円香と小糸が廊下で会話するシーン」は、「透が業界人から凄まじいと評されるシーン」と同時並行で描かれていることも、非常に示唆的であると言えるでしょう。

『天檻』に限らず、こうした「シーンの配置による文脈」は、シャニマス頻出概念なので注目してみてください。

(2)福丸小糸

小糸はサッカーの試合中、古文の授業を受けていました。ほぼ円香と同じ状況じゃねーか!と思いきや、古文教師のセリフは微妙に違います。窓の外の喧噪に対し、「今日はすごいわねぇ」とこぼしているのです。
また、小糸のリアクションにも注目。彼女は外からの歓声が気になりつつも、授業に集中しようとしています。

自分のすべきことに集中しつつも、どこかサッカーの熱狂に気をとられている様子の小糸。

すでに述べたように、小糸はプロになろうとしている「先輩」の姿と、アイドルにスカウトされた時の透の姿を重ねて見ていました。その感覚の根底には、自分は置いていかれるかもしれないという焦燥が滲んでいそうだと分かるでしょう。
これまでのシナリオにもそうした心情は繰り返し描かれてきましたし、『天檻』でも「透は自分と違って活躍している」という旨の発言をしています。

「小糸ちゃんもじゃん」その返答に、上手く反応できなかった小糸。

こうした感情が、その後の「仕事の選択」を迷わせることになりました。

喧噪が聞こえてくるけれど別の場所にいて、自分のやるべき事に集中しながらも、しかしどこか歓声に気をとられている小糸の姿から、そうした彼女の現在地点が見えてくるように思います。

(3)市川雛菜

雛菜はサッカーの試合中、隣で体育を受けていました。彼女はクラスメイトから、「試合が観たいからペアを組んでくれ」と頼まれます。

着目したいのは、雛菜がノクチルの中で最もサッカーの近く、同じグラウンドに立っているという点です。また、「サッカーが見たいなら見ればいい」とクラスメイトに言う一方で、自分自身はサッカーにあまり関心がなさそうなのもポイントだと思います。

①同じグラウンドに立っている

透がアイドルになったから自分もアイドルになった、という始まりを持つ雛菜は、渦中に置かれた透(=「先輩」)と最も近しい目線を持っている人物であると言えます。
幼なじみを追いかけているという感覚を持つ小糸や、アイドルに対して消極的な姿勢を見せることも少なくない円香と比べて、積極的にプレイヤーであろうとする彼女のスタンスが、「同じグラウンドに立っている」という描写から見えてきます。

また、「見たいなら見れば良い」というクラスメイトへのアドバイスは、彼女のアイドル活動の基本スタンスが現れていますね。枚挙に暇がないくらい様々なシナリオで、そうした雛菜の思想は描かれてきましたが、一つあえて例を挙げるなら【♡LOG】があるでしょうか。

【♡LOG】1コミュ目「CAM:P」より

②(サッカーに)関心がない

「サッカー部の先輩」が透のメタファーであったなら、「透せんぱ~い♡」と言って憚らない雛菜はサッカーに関心を抱いていてもおかしくないはずです。ところが、雛菜はこれっぽっちも関心がなさそうでしたね(笑)。

そんな態度から、彼女の現在地点が見えてくると思います。

雛菜は決して、透へ関心がなくなったわけではないでしょう。ただ、『天檻』時点の彼女は「透と同じ場所」を目指そうとしているわけではありませんでした。そうした現在のスタンスが現れたために、サッカーに関心がなさそうなのでしょう。

彼女はノクチルがそれぞれの道へ、「枝状に別れる未来」へ歩みをすすめていることを強く自覚していました。

「枝状(に別れる、それぞれの)未来」

雛菜が「枝状未来」を自覚していることが分かるのが、第5話「枝状未来」で透を除く三人が会話するシーン。『ベスト・サマーガール・アワード』のプレス向けイベントに参加した透が、ニュースサイトの記事になっていると話題にする場面です。

自分(たち)を置いて先へ進もうとしている透の姿に、「透ちゃんはどんどん……」と呟いた小糸に向けて、雛菜はこう口にしました。

「透先輩は行っちゃうよ。だからすき~!」

このセリフは言わずもがな、イベントシナリオ『天塵』からの回収です。『天塵』でのやりとりを振り返っておきますと、「花火大会に出たいよ、だって透ちゃんはどんどん……」と言いよどんだ小糸に対して、明るい声で雛菜は次のように答えていました。

「だから雛菜もどんどん行くよ~?」

『天塵』第6話「海」より

同じやりとりから、雛菜の〆の一言だけが変化していると分かります。

「透先輩はどんどんいっちゃうよ」
 →天塵「だから雛菜もどんどん行くね」
 →天檻「だから好き」

こうした発言の変化は、市川雛菜という人物のスタンスが変化していることを示唆していますね。

アイドルを始めた頃の雛菜(『天塵』時点)は、透がどんどん進んでいく方向へ自分も進もうとしていました。透がアイドルになったからアイドルになった彼女らしいスタンスだったと言えるでしょう。だから、「透先輩はどんどん行くから、私も行く」と発言しました。

一方『天檻』の頃には、すでにノクチルそれぞれが別々の未来へ進んでいくのかもしれないと言うことを自覚していました。だから、自分とは異なる道を突き進む透が「好きだ」と言っているのだと思います。

こうした雛菜の「変化」は、シナリオの随所にちりばめられていました。例えば「写真」にまつわる次のシーン。

サクランボと爪が写るように透の写真を撮った雛菜に対して、円香が「ツイスタ?」と訊ねました。それに対し、雛菜は「綺麗だったから」と返答しています。

この発言は、それまでの雛菜シナリオが集約されたような味わい深いセリフですが、特に繋がりが強いのは『感謝祭』でのセリフでしょう。彼女は感謝祭時点では、写真を撮る理由を「楽しいことはすぐに終わってしまうから写真に残しておく」と口にしています。

市川雛菜 ファン感謝祭編「Memo/Re:」より

しかし彼女はLandingPoint編にて、「振り返って楽しかったと懐かしむのではなく、最後の一瞬まで楽しい『今』を生きたい」という結論を示すに至りました。

だからこそ雛菜は、『天檻』で透の爪を写真に残した理由を、「綺麗だったから」と答えているのだと思います。
過ぎ去ってしまうから振り返るために写真を残すのではなく、その瞬間が綺麗で大切だから写真を撮っている。円香ですら「ツイスタ?」と訊ねる中、雛菜のスタンスがそのように変化している事実には、担当プロデューサーとして万感の思いがありますね!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

市川雛菜 LandingPoint編「Everyth!ng」より

彼女のこうしたスタンスは、『ワールプールフールガールズ』の「今を永遠にする」というテーマにも繋がっていきます。

(4)浅倉透

透はサッカーの試合中、授業を受けずに屋上から試合を眺めていました(授業を受けなさいおバカ)。
このシーンでは、浅倉透という人物が「捕食者である」ということを、再確認するためにありました。

この考えを掘り下げる前にまずは、本シナリオにおける「捕食」について考えを整理しておきましょう。


『天檻』における「捕食行為」とは、「消費行為」に換言可能な概念です。

まず、「サッカーのスカウト」や「業界人」、「ワイン坊や」に代表されるような「ステージを用意する側」の捕食行為は、「さあ輝いて見せろよ」という態度です。これは言うなれば「他者の消費」とも言うべき態度であり、ひいては我々“ファン”の立場も包含されるでしょう。

対して「サッカー部の先輩」や「浅倉透」のような、「評価される側」による捕食行為とは、そうした空間を自分のためだけに消費する姿勢のことです。ステージ、カメラ、場の空気を自分のものにして消費する。注目をかっさらってしまう。さながら「(他者の)視線の消費」でしょうか。

そして、捕食者同士が互いを食い合う世界、「消費し合う関係性」こそが「芸能界」という生態系でした。

GRADのラストで透は、そうした「生態系」へ深く言及していましたね。

浅倉透 GRAD編「泥の中」より

「どんな形したのが、私って思われても」
「いつか誰かが、食べてくれたら」

透がGRADで経験した「芸能界」とは、捕食者によって用意されたステージで、彼らが求めるものを一方的に押しつけられるという、「一方的に消費される世界」でした。彼らが求めるものは「奇跡の赤ジャー」であって、それ以上ではない。
そうした状況に、透はモヤモヤを抱えていました。これは「頑張っている」ということなんだろうか?と。

しかし彼女は、その世界で「頑張る(息をする)」ことを決めたのでした。「こんな風に輝いてみせろ」と押しつける捕食者たちを相手に、逆にその場を使って輝いてみせる。それは、絶えず行われる捕食行為の一部になって、「頑張り続けること」。
GRADを通して透が願ったのは、そうした「頑張り続けなければ捕食(消費)されてしまう世界に、存在すること」だったのかもしれません。

浅倉透 GRAD編「泥の中」より

GRAD以降、折に触れて強調されてきた「浅倉透の捕食者としての資質」とは、周囲の期待やカメラ、その場の空気を余すことなく自らの為のものにしてしまう才能のこと。
そして、LPや『天檻』で印象的だった業界人たちは、浅倉透に何かを求め消費しようとする者たちでした。

GRADに示された「生態系(泥の中)」が、それ以降のシナリオで具象化していることが分かりますね。

この、2つの側面を持つ「捕食者」という概念は、「自らの為に何かを求める」という点と、互いが互いを捕食し合っているという点で、表裏一体の概念であると考えています。


こうした、浅倉透の「捕食者」としての側面を再確認しているのが、屋上でサッカーを見下ろしているシーンです。

この場面の透が「捕食者」として描かれている根拠として、こちらのシーンを思い出してください。

画像だけだと伝わりづらいですが、このシーンでは透のあくびに「クジラの鳴き声」がオーバーラップされています。

クジラは言わずもがな、生態系において存在感のある生き物です。小魚やプランクトンなどを捕食して生きる「捕食者」であると同時に、その死骸は多くの生き物にとっての栄養になる「被食者」でもある。ある意味、「生態系を象徴する生き物」であると言えるでしょうか。

本作『天檻』においては、特に「捕食者」としてのクジラが強調されていました。

例えば6話「くじらを捕まえろ」は、その後の広告ディレクターのセリフ「あんなのいれとく生け簀ないっすよ」や、あらすじ「もし首尾よく檻に収めたとして、あれらが生きていけますか」へと繋がっていますが、これはいずれも「捕食者であるクジラは捕らえられない」ということを語っています。

クジラというモチーフは、「いずれ死する被食者」というのも一つのポイントですが、『天檻』においては「捕食者の象徴」であると考えて差し支えないでしょう。

クジラの鳴き声は本シナリオでもう1カ所、印象的に用いられていた場面がありましたね。そちらでも捕食者を強調する用いられ方だったと思います。詳しくは後記します。

透のあくびにクジラの鳴き声が重ねられていたのは、彼女が「捕食者」としての側面を持った人物であることを、今一度確認するためでしょう。彼女はサッカーを品評するスカウトと同じように、試合を眺めていますからね。
また、屋上からサッカーを見下ろしているというのも、スカウトのような「評価する人間の立ち位置」(高い場所)に立っている、と表現しているのかもしれません。

ここで押さえておきたいのは、透は繰り返し「捕食者だ」と評され、このシーンでもその事実を再提示しているわけですが、当人にその自覚がないという点です。というより厳密には、「捕食者」としての資質が示唆されたのみで、「捕食者」として描かれてはいないことでしょうか。
これだけ聞いてもピンとはこないと思うので、詳しくは後記します。どれだけ宿題を残すつもりだ


はてさて、2つほど重要なお話を後回しにしたところで、サッカーに関連した透のシーンはもう一つありますね。
小糸と共に、サッカーの試合を眺める場面です。

え、メッチャ可愛くない?

すでに述べたとおり、小糸は「サッカーの試合がオーディションのようだ」と語っています。そして同時に、「(自分と違って)プロの世界で活躍している透はすごい」と。それに対し透は、「今って将来なのかな?」という、現在地点についての疑問をこぼしていましたね。

「今って、将来?」というフレーズは、イベントのあおりにも使われています。すなわち『天檻』において最も重要なセリフであると言って差し支えないでしょう(名推理)。

1.「転換」の節でも述べたように、本シナリオには「立場の転換(捕食者⇔被食者)」と、「時間の転換(過去⇔未来)」という、二つの「転換」が起こっていました。そして、サッカーにまつわる透のシーンでは、いずれもそれら「転換」を匂わせています。「捕食者」と「時間」の概念が登場していますからね。

どのような転換が起こったかについては、後ほど詳しく書きます!

《宿題リスト》
○「クジラ」が捕食者を象徴している、鳴き声が流れたもう一つの場面
○透は捕食者として描かれていなかった?
○「立場」と「時間」がどのように転換したのか


◇ワンポイント解説「空腹」◇

「捕食」とはそのまま何かを「食べる」という意味ですね(当たり前だろ)。だからか、シナリオではしばしば「捕食者として渇望する姿」を、「空腹」として描いてきました。

例えばLandingPointのライブ前後のコミュでは、「透は求めている」ということと対を為すように「空腹であること」が描かれています。これは、彼女が「捕食者」として次のステージ、消費行為を渇望していることが分かる描写だと思います。

浅倉透 LandingPoint「ライブ1曲目前コミュ《個人》」より
浅倉透 LandingPoint「ライブ後コミュ《個人》大成功」より

『天檻』でも、業界人から「浅倉クン、すごいっすね~。いやまじ『捕食者』って感じで!(意訳)」と評された写真撮影の後、空腹を訴えるシーンがありましたね。

お腹なっちゃうの可愛すぎ


3.消費

冒頭のパーティーでは、ここまで考えてきたような「消費されるノクチル」の姿がまざまざと描かれていましたね。

なんじゃお前。舐めんなよ

プールに飛び込んでしまう、という『天塵』のラストを彷彿とさせるような行為すら、それを「ノクチルらしさ」として消費されてしまう。それが、彼女たちの置かれた「現状」だったのでしょう。

また、先述の通り「サッカー」は芸能界を暗喩するモチーフだったわけですが、これらキーワードは「ゲーム」というフレーズで結びついているという点も印象的ですね。
サッカーは言わずもがな「ゲーム」であり、「勝ち負け」の概念が存在します。そして業界人たちもまた、ステージや場の空気のことを「ゲーム」と呼び、印象に残る活躍を「勝ち」だと表現していました。

代理店営業は、パーティー会場を「自分たちのゲーム」にしたノクチルの活躍を「勝ち」と表現し、業界人がノクチルに関心を持つ理由を「勝っているやつの匂いがするから」と言っています。

ぎゃはは笑いも腹立つんだよな

ここでもやはり、「捕食者」による相互関係が働いているとが分かりますね。

コミュタイトル「やつらのゲーム」には二通りの意味がありました。

1つ目は、パーティーの主催が語ったように「ノクチルのゲーム」という意味。ノクチルは自分たちらしいやり方で、パーティー会場の空気をガラリと変えてしまいました。大勢の人間が集まるパーティーを、まるで自分たちのものであるかのように振る舞う彼女たちは、まさに場を消費する「捕食者」。「ノクチルのゲーム」にしてしまったわけです。

一方、そんな彼女らは業界人によって消費されてもいます。
「これがノクチルの良さなんだって!」といった一方的なまなざしに始まり、「ノクチルの勝ちじゃん」という勝ち負けの尺度の押しつけ、果てには「勝ってる奴の匂いがするから業界人が引き寄せられる」という、ノクチルを獲物として見ているに等しい発言など、枚挙に暇がありません。

なんだコイツら。

言うなればこれは、ノクチルを取り巻く「業界人のゲーム」であり、「やつらのゲーム」のもう一つの意味でしょう。

浅倉透LandingPointに登場した「広告マン」もまた、そうした業界人を象徴するような人物でしたね。彼はしばしば「浅倉透の理解者」であるかのように見えてしまいますが、厳密には違うと思います。彼は、浅倉透が望んだ「生態系」の価値観を体現する人物であり、「才能を持った浅倉透」に対するまなざしは的確だったと思いますが、それが「一人の少女・浅倉透」を見ようとしていたプロデューサーと比べて「より深く透を理解していた」とは、到底言えないと思います。

彼もまた、自分の持つ価値観や「ゲーム」を、透の姿に見ようとしている「捕食者」の一人に過ぎなかったというのが私の考えです。

浅倉透 LandingPoint編「火」より

こうした魑魅魍魎に対して、明確に不快感を示していたのが樋口円香でした。

「騒がれてるからファンになる」というのは、「勝ってる奴の匂いがするから業界人が寄ってくる」と、ほとんど同じ意味の発言です。好き勝手に騒いで、手前の価値観を押しつけてくる「業界人」に対し、彼女は冷たい視線を送っていますね。

「これぞノクチルっしょFooo!」という、ノクチルそのものではなく「俺たちが思うエモいノクチル」を消費しようとする勝手な態度に対して、彼女が思わず漏らした言葉がこれでした。

「これがDNAだってことはなんでわかるの」

円香の目に映るものは、教師が「DNAだ」と言っているだけで、見ただけではそうと分かりませんよね。「なんか普通に、ゴミがうつってるだけじゃないのこれ?」と円香は思っていたかもしれません(そんなわけない)。

それと同じで、業界人は彼女らに「幼なじみでナチュラルな、エモいノクチル」を見ようとしているだけなのではないか。円香はそんな風に感じていたのではないでしょうか。
それが本当の姿かどうかなんて分からないはずなのに。どころか、本当の姿なんてものがあるのかだって分かりはしないはずなのに。

サッカーの描写でも示されていたような、ノクチルの置かれた「消費される立場」が、こうした描写からも分かりますね。


4.天気

『天檻』では、「天気」は「転機」を象徴するものとして用いられています。

透や円香が仕事に忙しい中、小糸が一人でお昼ご飯を食べるというシーンは、先述の通り学校という「日常」の空間に非日常が混じり込んだために、今まで通りの日常を送れなくなる、という場面でした。
この場面では、「雨が降って屋上に出られなかった」というのもポイントです。

「天気」は、生活のリズムを変える「転機」になり得ると言うことです。

雛菜が天気予報のコーナーに出演した際、共演者からの「晴れたらみんなでどこへ行きたい?」という質問に対し、彼女は次のように答えました。

「みんな、自分のすきなところに行くのがいいと思う」

2.サッカー(3)市川雛菜 の節で考えたように、彼女は「枝状(に別れるそれぞれの)未来」を強く意識していました。そんな彼女は、「天気が変わって、日常が変化して、転機が訪れたとき、みんなは自分が思う道を進めば良いんじゃないか」と考えていると分かります。だからこそ、「みんな、自分のすきなところに行くのがいい」と回答したのでしょう。
この「雨が上がったらどこへ行く?」という問いかけは、「天気」は「転機」というモチーフを象徴しています。

『天檻』における小糸の葛藤を思い出しましょう。

自分だけにオファーが来たオープンキャンパスの仕事と、ノクチルにオファーが来たゴールデン帯のテレビ番組。一方に出演すれば、もう一方には出演できないという二者択一。どちらかを選ばなければならない状況に置かれ、小糸は悩みました。
そんな彼女は物語ラストで、プロデューサーと共にオープンキャンパスの仕事を選んだ様子が描かれました。「二つの仕事」が小糸にとっての「転機」になったと分かります。

そして、これらの仕事が舞い込む場面は「天気」に絡めて描写されます。

雨が降る学校でのシーンと、降り止んだ後の事務所のシーン。さらにこの後、小糸が自宅でオーキャンの仕事について考えるシーンも挿入されていることから、これら二つの仕事は天気が移り変わると共に舞い込んでいると分かります。


小糸は、ノクチルで一番最後まで学校に残っていた人物でした。

物語ではまず、透が1人撮影に臨むシーンと並行して、3人がご飯を食べるシーンが描かれます。4人の中で透がはじめに、日常(学校)から非日常(芸能界)へ飛び出していったことが、このシーンから分かりますね。幼なじみ4人組の日常は、そこから少しずつ変化しはじめました。
これは『天檻』というシナリオに限らず、幼なじみグループが「ノクチル」になった経緯とも重なります。

そうなんです。『天檻』というシナリオで学校から「仕事場」へ移動していった順番は、彼女らがアイドルになった順番とおそらく同じなんです。言わずもがな、彼女らがアイドルになったきっかけは「透がスカウトを受けた」ことでした。

そして次に、円香がアイドルになります。学校には小糸と雛菜が残され、円香は「学校(日常)」に未練があるかのように教科書を読んでいますね。これは、芸能界という世界に飛び込みながらも「アイドルなんて…」「私はそこに軸足を置かない」と、距離をとろうとしていた円香のスタンスが現れているように見えます。

そして、最後まで学校に残されているのが小糸です。
彼女は『天檻』のシナリオ内においても、「みんなはノクチルという括りにこだわりがない。そこにこだわりがあるのは私だ」と、幼なじみ4人の繋がりへの想いを語っています。枝状に別れるそれぞれの未来へ、その一歩を踏み出せずにいたのが小糸でした。

みんなで出たい。『天塵』の時に打ち明けた想いを、反芻している小糸。

学校という日常の空間が、雨によって閉ざされているとき、彼女は外の世界(芸能界)への一歩を踏み出せずにいました。ところが、「天気」が変化することを「転機」として、彼女の元にも仕事が舞い込む。学校の外へと踏み出す「仕事」というきっかけは、しかし「ノクチルの仕事」か「自分の仕事」の二者択一だった。

「みんな、好きなところに行くのがいいと思う」

雛菜はそう語ります。そうであるならば、雨が上がったあとの小糸はどこへ向かうのでしょうか。

『天檻』の一つの軸となる小糸の物語ですが、こうした何気ない描写からも小糸の心の揺れ動きを捉えていることが分かりますね。

◇ワンポイント解説「ハシルウマ」◇

「透が真っ先にアイドルになったことで、日常が変化する」
このテーマをもろに描いたのが、樋口円香のsSSR【ハシルウマ】でした。コミュは全編を通して「夢うつつ」な雰囲気ですが、透がアイドルという非日常へと飛び出していったことに対する、円香の「思うところ」が描かれていたことは明白でしょう。

そうしたテーマは、イラストにも現れます。

pSSR【ギンコ・ビローバ】や樋口円香LandingPointなどで示されたとおり、プロデューサーが纏うスーツというのは社会規範の象徴でした。言い換えればそれは「常識」であり、「日常」でもあります。

そうした「日常」を身に纏うなか、浅倉透だけがネクタイをはずそうとしていることは非常に示唆的ですね。彼女が真っ先に、そうした規範から解き放たれ「アイドル」になったのでした。

「アイドル」という異様な存在へ、一人で成ろうとした透。そんな幼なじみの姿を、円香はどのように見ていたのでしょう。
【ハシルウマ】が描こうとしていたのは、そういった円香の中に渦巻く気持ちだったと考えています。


5.歌(「時間の転換」)

サッカーの試合を見ていた透がこぼしたように、「今って将来?(今とはいつなのか)」という問いかけが提示されました。そしてこれは、冒頭にも述べたように「時間の転換」によってアンサーされたと考えています。
では、透はどのような「転換」を通して自分なりの答えを出したのでしょうか。

それを読み解くことが出来るのは、「ラストのパーティー」です。

再三述べているとおり、「ワイン坊や」は本作屈指の「捕食者(消費者)」として描かれています。透に対して、「ステージをあげるから、何か面白いものを見せてよ」という態度は、まさしく透を消費しようとするものに他なりません。
また、彼は「何もかもが予想通りでつまらない」と語ります。

なんじゃこいつ

そんな彼が、唯一感動できることして挙げたのが「ワイン」でした。
仕事も兼ねているでしょうから、彼は純粋な「コレクター」とは言えないかもしれませんが、大量にワインを蒐集する極めて消費者的なスタンスの人物であることが示唆されます。

ワイン坊やがワインに求めていたものは、「ワインが重ねてきた時間が、空気に触れて花開く瞬間」でした。
同時に彼は、浅倉透という「面白いらしい人」に対しても、同じような「驚き」や「ときめき」、あるいは「輝き」を求めます。

努力がいつか花開く瞬間かもしれないし、「浅倉透」という才能が花開く瞬間かもしれない。ワイン坊やが求めたものは「将来」や「未来」でした。

「将来を見せて見ろ」といういけ好かない態度にアンサーすることによって、透は自身の疑問でもある「今って将来?」についても答えを出すことが出来そうだと、何となく分かりますね。

透は、こうしたワイン坊やの望みを承認しています。
「じゃあ50年後に」という発言によって。

この発言によって彼女は、ワイン坊やに対し「未来」を示すことを約束したようなかっこうになります。

ところが、透がステージを通して示したのは単なる「未来」ではありませんでした。だからこそ、ワイン坊やはそのステージにいたく(痛く)感動したわけです。

透は視点を転換し、「過去」へと回帰しました。それが逆説的に、ワイン坊やが見たがっていた「浅倉透の未来」を示すことにも繋がりました。

透が選んだ「回帰」とは「懐かしい歌」であり、樋口円香です。それも、単にユニットメンバーの樋口円香ではありません。透が選んだのは、「まどか」と呼びかけたことに象徴されるように、「幼なじみの樋口円香」でした。

枝状に別れる未来へと進んでいくとき、ノクチルは一緒にはいられなくなるかもしれません。それは『天檻』本編中に幾度となく提示された事実です。しかし、再び集まることはできる。
一緒に遊んでいた頃、教育番組の曲を耳にしていた頃、樋口を「まどか」と呼んでいた頃、単なる幼なじみの関係へ、彼女らは回帰することが出来ます。たとえ、50年後であっても。

自分たちがどうなるのか、どこへたどり着くのか。
分からないことずくめの中、透に示すことが出来た唯一の未来は「過去へと回帰すること」でした。

「未来の中に過去を見る」という、時間に対する視点の転換が起こっていることが分かると思います。こうした「過去⇔未来」の転換には、ワイン坊やも思わず唸りました。

ラストシーンで小糸が踏み出した第一歩も、こうした「時間の転換」という概念に集約されるでしょう。

4.天気の節でも触れたように、小糸は幼なじみグループ(あるいはノクチル)がバラバラになっていくことを恐れ、自分一人の仕事を選べずにいました。みんなはノクチルでの仕事にこだわりがない。こだわっているのは自分なんだ……そうこぼした小糸の姿は印象的でしたね。

ところが、「また帰ってこられる」からこそ、小糸は自分の道を進むことに決めたのです。

「未来」と「過去」の転換。帰っても、また遊べるという「回帰」です。

また、この「回帰」を象徴するラストシーンでは、ノクチルの立ち絵に1枚目のpSSR私服が用いられていました。
過去へ戻っていくことと、未来へ進みゆくことが円環をなすラストシーンで、最も過去の衣装が用いられているのは、意図的なものでしょう。

「今はいつなのか」
浅倉透の問いかけに対する答えは、コミュタイトルに示されています。

「過去」と「未来」が転換するとき、「今」は絶対的に「今」となります。「今」は過去から見れば未来であり、未来から見れば過去ですが、過去と未来は転換するのだから、「今」が相対的にいつなのかというのは重要ではありません。

彼女たちが生きる「今」は、「今」です。

枝状未来に何が待っているのかは分かりませんが、彼女たちは「今」を見て生きています。それが、エンディング「それでもいましか見えないよ」から読み取れるのではないでしょうか。

こうした『天檻』にて示された価値観が、さらなる拡張を見せたのが『ワールプールフールガールズ』というシナリオでした。

《宿題リスト》一つ終わり

◇ワンポイント解説「二人の企み」◇

と、ここまで「時間の転換」なんてごちゃごちゃした概念の説明をしてきましたが、浅倉透がそんなことを考えていたはずがありませんね。ぐだぐだうるさいのはオタクの領分なので。
彼女が円香にステージを託すに至った理由も、シナリオ内にきちんと提示されています。

浅倉透は「ラストのパーティー」で、次の2つを求められていると認識していたはずです。

①透が見ている世界

プライベートなパーティーで、自分が一体なにを求められているのか。透がこぼした疑問に対して、プロデューサーは「透に見えている世界に興味があるんじゃないか」と返しました。
素直に考えれば、透は「自分が見ている世界」をラストのステージで表現しようとしていたはずです。

②蓄積した時間の開花

先述の通り、ワイン坊やが求めたのは「蓄積した時間が空気に触れて花開く瞬間」。すなわち「未来」でした。透は、ワイン坊やが求めていたような「時間の蓄積が開花する瞬間」をラストのステージで表現しようとしたはずです。

③お出しされたステージ

浅倉透にとって「①自分が見ている世界の人物」であり、「②最も長い時間を共有(蓄積)してきた存在」なのは、樋口円香です。そんな円香が「懐かしい歌」を歌うことによって、透は求められた2つのお題に回答できると考えたのではないでしょうか。

④円香がステージに立った理由

透からのオファーに対し、円香がそれに応じた理由は明快でしたね。

「ここを全部もらっていく」

ノクチルや透に向いている「消費のまなざし」に対して、苛立ちや不快感を抱えていたのが円香でした。そんな彼女が、そうした連中の鼻を明かしてやりたいと考えるのは自然でしょう。
それに加えて彼女は、「歌を歌いたいという衝動」と向き合ってきた経緯があります。詳しくは立ち入りませんが、そうした欲求の果てにこのステージがありました。


6.クジラのおなかの中

ようやくタイトル回収

『天檻』では、オープニング「やつらのゲーム」と第6話「くじらを捕まえろ」でそれぞれ1回ずつ、「クジラのおなかの中」という印象的なフレーズが用いられていました。そしてこれらは、物語を通して「立場の転換」が発生したことにより、意味合いが変わっています。

「クジラのおなかの中」には2通りの意味があるのです。

では、この意味深長な言い回しにはどのような意味があったのでしょうか。棚上げにしていた残り二つの宿題と共に、考えていきましょう!

《宿題リスト》
○「クジラ」が捕食者を象徴している、鳴き声が流れたもう一つの場面
○透は捕食者として描かれていなかった?
○「立場」と「時間」がどのように転換したのか(済)

(1)「クジラのおなかの中で僕らは自由」(OP)

3.消費の節で述べたように、絶えず消費の視線に晒される「パーティー」に参加していた透たちは、そうした参加者の目から逃れるようにプールへと飛び込みました。結果、そうしたノクチルの姿すら「ノクチルらしさFooo」と消費されてしまったわけですが、透はここで「クジラのおなかの中で僕らは自由」とモノローグしています。

クジラが「捕食者」を象徴している、とすでに指摘しました。ということは、「クジラのおなかの中で~…」というセリフの意味は、透を含むノクチルの四人が業界人というクジラ(=「捕食者」)によって捕食され、「おなかの中に閉じ込められている」という意味ではないでしょうか。
何かを捕らえておく場所という意味では、「檻」という言葉もここに繋がっていきそうです。

芸能界という生態系に身を置き、「何を見せてくれるんだ君は」という消費や期待を押しつけられる立場、すなわちクジラのおなかの中に閉じ込められた透たちは、そうした窮屈の中にあっても「僕らは自由」だと語りました。
とても自由とは表現しがたい状況のように見えますが、これは2.サッカーの節でも考えたように、芸能界という生態系を、透が望んでいるからでしょう。

GRADを通して透が願ったのは、そうした「頑張り続けなければ捕食(消費)されてしまう世界に、存在すること」だったのかもしれません。

2.サッカー(4)浅倉透 より

オープニング時点での「クジラのおなかの中~…」については、あくまで「転換前」の描写であり、透はあくまでも「被食者」として描かれているというのは重要なポイントです。

この『天檻』のオープニングでもそうであるように、透はこれまでのシナリオを通して、「捕食者としての才能を持っている」と同時に、「捕食される立場にいる」ということも描かれてきたのでした。

例えば『天塵』の第3話「アンプラグド」で透は、童謡を熱唱して見せました。その姿勢は大変面白いし格好いいわけですが、既存の枠組みを変えるには至りませんでしたね。結局ノクチルは、その後仕事を干されるという代償を支払うことになります。あくまで、業界が要請したルールに振り回される立場にあったということです。
だからこそプロデューサーは、「彼女たちが持つ輝き」を業界へ送り出すにはどうすればいいのか、頭を悩ませることになりました。

『天塵』エンディング「ハング・ザ・ノクチル!」より

浅倉透GRADでも「奇跡の赤ジャー」として一方的に消費される立場にありましたし、浅倉透LandingPointもまた、捕食される人物としての浅倉透が描かれていたように思います。

透のLPは、日常を生きる「ただの少女・浅倉透」と、資質を持った者として欲求不満を抱える「アイドル・浅倉透」がせめぎ合う物語でした。そして、それらがせめぎ合う場所として「映画館」が登場します。
売店が適当な運営をしていることに象徴されるように、映画館そのものは「日常」を表象しますが、スクリーンに映し出されるものは「非日常」すなわち芸能界を表象します。ただの少女でもあり、アイドルでもある透の心が揺れ動くとき、自然と映画館に足が向いたのは「日常と非日常」が混じり合って、せめぎ合っている場所だったからでしょう。

ところが、そうした「日常」は焼かれてしまいます。
透は、自らが求めた「捕食の相互関係」すなわち生態系というものの影響力の強さを知り、さながら退路を断たれたかのように戦いへ挑んでいく。怒っているみたいな、悲しんでいるみたいな、挑んでいるみたいな表情を浮かべながら。そこで物語は幕が下ろされました。

浅倉透 LandingPoint編「キッチンできみは火薬をまぜる」より

「捕食者」としての資質を持ち、業界人からもその才能が求められる一方で、あくまでも捕食される姿を描いたのがLandingPointだったと分かります。

LPに至るまで、一貫して捕食される立場だった浅倉透。しかし、「立場の転換(捕食者⇔被食者)」を起こすことによって、透は逆に捕食者たちを捕食して見せました

(2)「息してる。クジラのおなかの中で」(ED)

「ラストのパーティー」の会場から飛び出したノクチル。
透はタクシーに乗り込む寸前に、「息してる。クジラのおなかの中で」とモノローグしていました。

このパーティーで透は、ワイン坊やという捕食者からステージを与えられながらも彼らのゲームには付き合わず、逆に「時間の転換」を通して自分たちのステージを作り上げ意表を突きました。
これまで捕食される側として描かれ続けてきた透が、「捕食者」に対し初めてカウンターを喰らわせることが出来たのが、このシーンだったわけです。さながら、「捕食者」として描かれた初めてのシーンだった、とでも言いましょうか。

キーとなるのは、浅倉透ひとりの力でカウンターパンチを放ったわけではないということです。ワイン坊やたち「捕食者」の鼻を明かすことが出来たのは、透が「ノクチル」だったからこそでした。

「ラストのパーティー」において、ステージを与えられていたのは浅倉透です。しかし、会場の空気をまるごと飲み込んだ「捕食者」とは誰だったのか?

円香の歌が、会場の空気を変えましたね

そうです。会場の空気を飲み込み、捕食者たちの意表を突いた「クジラ(捕食者)」とは、ノクチルのことでした。

透に与えられたはずのステージが円香に委ねられたことによって、透のステージではなく「ノクチルのステージ」になったことを理解した雛菜は、小糸を誘って踊り始めます。
「(これはノクチルの)本番~!」という発言からそれが分かりますね。

「ノクチル」というのは、それ自体が一つの捕食者(クジラ)。そして浅倉透は、そんなノクチルのメンバーの一人です。「クジラのおなかの中にいる」というのは、「ノクチルという巨大な「捕食者」を構成する一員」「クジラの内側にいる」という意味だったのではないでしょうか。

根拠ではないですが、あらすじなどで再三語られた「クジラを捕らえておくことはできない」というセリフが、パーティー会場という閉ざされた空間(檻)から解き放たれていったノクチルの姿と重なります。
「クジラのおなかの中」というモノローグが語られたのも会場から脱走した直後のシーンでしたし、捕食者が現れたことを示唆するクジラの鳴き声SEが使われた2つめの場面は、ここでした。

また、「ノクチル」とは「一匹の捕食者」であった、ということを表すもう一つの要素として、彼女らがタクシーに乗り込んでいることが挙げられると思います。

『天塵』から共通して、「車に同乗する」というのはノクチルの重要なモチーフです。幼なじみでありながら、しかしひょんなことからバラバラになる可能性を帯びた存在でもある彼女ら。自分たちとは異なる価値観やルールの元に動く芸能界という世界を、一つのグループ(車)になって海を目指すことができるのか?
そんな緩やかなテーマ提起が、最初期のイベントより行われていました。

このモチーフは、『海へ出るつもりじゃなかったし』では「舟」等とも重ねられながら、『天檻』では本当の意味でバラバラの未来へ進んでいくかもしれないということと向き合います。すなわち、彼女らが自分の進みたい方向へ進むとき、一つの車(ノクチル)に同乗し続けることは出来ないのではないか?という命題です。

この提起については、先述の通り「未来と過去は円環をなす(回帰する)」という結論を出しました。少女たちが進む道はバラバラかもしれませんが、再び「ノクチル」になることだってできるということです。
そうした結論を出したからこそ、彼女たちは共に「タクシー(車)」へと乗り込みました。海を目指して。

このシーンはとても象徴的ですね。

また、彼女らが途中下車している件についても注目したいです。これについては、次の節で詳しく考えましょう。


7.プロデューサーと「陸」

ここまで触れてこなかった、プロデューサーについても考えてみます。彼について後回しにした理由は、彼が物語のラストに口にするいずれのセリフも、『天檻』というシナリオを総括するにふさわしいものだったからです。

そうです。みんな大好き、「陸でいたい」です。

そもそも彼は、物語冒頭に「彼女たちを繋ぎ止めること自体が矛盾ではないか」「彼女たちに、窮屈を強いているのではないか」と悩みを吐露していました。

そんな彼が物語ラストで口にした「陸でいたい」というセリフは、『天檻』という物語のテーマを総括すると共に、自身の悩みに対して出した彼なりのアンサーでもありました。


「いつまでも一緒にいるわけじゃないって知ってる」

無数の進路がある広い世界を進むことで、少女達はバラバラになってしまうかもしれない。そして彼女たちもまた、ノクチルという一つの車に同乗し続けることは難しいと知っている。
『天檻』という物語の冒頭から再三にわたって語られた、「ノクチルの現在地」をプロデューサーは再確認しています。

しかし彼女らは、「過去へと回帰することが出来る」と、物語中に示して見せましたね。

いつまでも一緒でないことを知っている。それでも少女たちを「ノクチル」として繋ぎ止めているものは、芸能界という「非日常の世界」でした。
今回の透のように、一人の力ではまた捕食されるに終わったかもしれない戦いを、ノクチルであれば逆にとって返すことも出来る。

それは懐かしい日々への回帰であると同時に、未来を切り開くということでもあるのではないでしょうか。

プロデューサーが述懐するシーンと並行して語られる、ノクチルが川縁を歩くシーン。先述の通り、彼女らはタクシーから途中下車して「自分の足で」歩いていますね。
車(ノクチル)から降りて、それぞれに海を目指して歩く彼女たちは、空腹や疲れ、足の痛みなどをめいめいに感じています。すなわち、一人で進むにはそうした苦悩がついて回ると言うことであり、「ノクチル」へと回帰すること、事務所やプロデューサーという「陸」へと「帰宅」することは、それらを癒やす冴えた手段でした。

だからプロデューサーは、「また車に乗ってくれるか」「事務所に戻ってくれるか」とノクチルに持ちかけたのです。

プロデューサーが語ったように、「事務所」とは自由な彼女らを縛り付ける「檻」なのかもしれません。しかし物語ラストでは、戦いの傷を癒やすための「帰ってくる場所」と再定義されました。
これは、それぞれの道を歩もうとする彼女らを縛り付ける「檻」としての「ノクチル」が、過去への回帰を通して「帰ってくる場所」として再定義されたことと、表裏一体です。

事務所やノクチルは「檻」という意味合いを含んでいましたし、ノクチルはクジラともイコールで結びつくことから、「クジラのおなかの中」というフレーズが「檻」というモチーフと連結することも想像に難くないですね。イベントタイトルロゴがこれを示唆しています。

「檻」にクジラの図柄が用いられています

「檻」というものが、彼女らを不自由にするものであると同時に自由にするものでもあり、最終的には事務所やノクチルといった概念にまで結びついていくのは、まさにノクチルらしい「転換」ですね。

物語ラストのイベントスチルも、「ノクチルという場所に帰ってきた彼女たち」を、影を用いて「檻」の中におさめるよう描いています。

窓枠の影が、まるで格子のようですね。

また、こうした「帰ってくる場所」「陸」というモチーフは、シャニマス重大思想である「家の思想」における、「帰宅の概念」であることが分かりますね(これは妄言なので忘れてください)。

「彼女たちの心に広がっている海」と「彼女らを繋ぎ止める世界」がイコールであることから、「海」とは少女たちにとっての「世界」であると分かります。これは、すでに過去のイベントで提示されているモチーフでした。

例えば『海へ出るつもりじゃなかったし』では、同化した存在であった幼なじみグループが「海へ漕ぎ出すこと(アイドルになること)」を機にそれぞれ色づき始め、別々の「海(世界)」を持つに至りました

「うみを盗んだやつら」とは、ノクチルがそれぞれの海を持ったという意味ではないでしょうか。

浅倉透GRADにも象徴的なセリフがありましたね。プロデューサーの、「透の海には生き物がいるんだな」というものです。

浅倉透 GRAD編「決勝前コミュ」より

すでに述べたとおり、透GRADは「捕食の連鎖が渦巻く生態系で生きたい」という願望を抱くに至る物語でした。そんな物語を締めくくるこのセリフは、「透は自分の世界に他者の存在を受け入れたんだな」という意味合いだと思います。
幼なじみや己の世界観といった、閉じた世界ではなく、他者の介在する世界へ漕ぎだした、という意味合いでしょう。やはり、「海」とは「世界」のメタファーであると想像できそうです。

そうした「彼女らが他者の介在を認める世界(海)」を、プロデューサーが用意してあげることはできません。それは、彼女らがおのおのに受け入れる世界観だからこそ尊い。
透明だった少女たちが手にする、「自分の色」だから。

だから、彼は「帰ってくる場所」でいることに決めたのです。

彼女らが食べ物を望んだとき。
彼女らが一人で歩くことを望んだとき。
彼女らが車に乗ることを望んだとき。
彼女らが帰宅することを望んだとき。

『ワールプールフールガールズ』エンディング「各自決行されたし」より

彼は帰ってくる場所として、彼女らの願いをサポートするのでしょう。


8.『ワールプールフールガールズ』

以上、ノクチルの集大成かつターニングポイントとなった『天檻』というイベントシナリオについて考えてきました。
そして、「消費(捕食)」というキーワードを通じて『天檻』と『ワールプールフールガールズ』は、表裏一体のお話であったと私は考えています。せっかくなので、ごくごく簡単にそれについても述べてみましょう。

象徴的なセリフとして、透ママの次のセリフがあります。

『ワールプールフールガールズ』第5話「とびぐるま」より

『天檻』では、ギラギラした「捕食者」の存在を自身の世界に認め、同時に捕食者たちの世界に自分たちが存在することも認めた、「捕食者・ノクチル」の初陣であったなら、各々の世界に引き込んで消費しようとする「他者」は、何も「捕食者」だけでないということを示したのが、『ワールプールフールガールズ』です。
このシナリオは、近しい人たちやファンの心の中に、「勝手に生かされている自分たち」を見つめるお話でした。

そのものではない「自分」が、透の母や昔の同級生、「りゅうおう」、そしてファンたちの心に存在しています。それは時に「永遠であってほしい」という一方的な願いを押しつけることに繋がり、想いの性質こそ違えど、ノクチルと相対する「業界人」に近しい存在になってしまいます。
『ワールプールフールガールズ』は『天檻』と同様、「ノクチル」を一方的に消費しようとする態度に対して、自分たちには何を示せるのか?という課題と向き合う物語だったわけです。

「応援してくれる人たち」のことを考えるお話

彼女らは『天檻』同様、「時間の転換」を通してファンに想いを伝えました。
この世界に「フォーエバー」はない。だから、今を永遠みたいにして、時間という概念から解き放たれる。過去も未来も、出会いと別れも、わっかのように繋がって永遠になる。

それが、「彼女らワレワレの自由」でした。

何度でも解散して、そのたびにまた結成する「過去と未来が円環をなす」アイドルユニット・ノクチル。

それは、花火が散るような刹那の美しさから脱却し、「今」を生きるという永遠を手に入れた、美しい生命の名前でした。


9.『天檻』を語ることの「暴力性」とは?

……と、いうわけで『天檻』の解説についてはほとんど終わったのですが、ここまでの論がいまいち納得いっていないな、という方向けのおまけを付け加えておこうかなと思います。

そもそも『天檻』という物語は、どの要素を重視するかでスタンスがぱっきりと別れるという性質を持っていると思います。

例えば次のnoteでは、「『天檻』やノクチルを語る行為は暴力性を帯びる」という指摘をしておられます。

つまるところ天檻を語ることの不可能性とは、独立した主題を並列して提示しているので語り切るのが構造的に難しく、さらに言えば「一方的かつ断定的に語ることの暴力性」を提示しているため、天檻を語ろうとすること自体矛盾になる。ざっくり言うとこんなところだ。

『天檻』を語ろうとする不可能性と暴力性にどう向き合うか より

引用したnoteは大変読み応えがありますので、是非こちらもご一読ください。はてさて、こちらのnoteがとっているスタンスとしては、「業界人による(あるいは私たちユーザーによる)ノクチルの消費」という現象にフォーカスした立場でしょう。
語弊を恐れずに言えば、ノクチルはあくまでも「あるがままの少女たち」であり、だからこそ業界人のまなざしは大変暴力的である、という考え方でしょうか(引用元ではノクチルの特異性について考えた上で、それが「あるがまま」であるということのスゴさ、記号化することの暴力性を指摘しています。私はかなり乱暴な要約を行っているので、ぜひ原文を参照ください。スミマセン……)。
こうしたスタンスは引用元noteで指摘されているとおり、樋口円香がとっているスタンスにも近しいと思います。

一方、それとは全く逆のスタンスも存在します。それが、「浅倉透は捕食者である」という事実に対してフォーカスしたスタンスです。主に浅倉透が持つ「特別性」や、これも語弊を恐れずに言えば「非人間的な存在感」にスポットを当てる世界観です。
主観ですが、二次創作などでよく採用される考え方ではないでしょうか。

下に引用しているのは、【ダ・カラ】実装直後ぐらいに見かけた二次創作イラストです。透の「特別性」にフォーカスしていることが分かります。あと絵が美しすぎる。
というかそもそも、【ダ・カラ】が透の特別性にフォーカスしたシナリオなんだから、こうなるのは自然なんだよな……。

私の論は、この二つのスタンスの中庸をとっています。

従って、本稿の主張に違和感を覚えた方は、上に引用したどちらかのスタンスにより近い考えを持っているのではないでしょうか?

透は「捕食者」としての特別な資質を持つ人物ですが、芸能界という生態系においてそれはむしろ普通のことであって、彼女もまた捕食されるいち生命に過ぎない、ということがこれまでのシナリオでは描かれてきたと感じています。
これは、透は「特別」かつ「普通」である。上に引用した、そのどちらのスタンスでもなく中庸のスタンスであることが分かるでしょうか。

私は、このスタンスが最もしっくりきます。
なぜなら、『Catch the shiny tail』の有名台詞「みんな特別だし、みんな普通の女の子だ」という考え方に近くて、一番シャニマスらしいかな、と感じるためです。

『Catch the shiny tail』第5話「私の場所」より

私はこのスタンスを採用しているわけですが、中庸を行く考え方はどっちつかず感が否めないので、本稿の主張がいまいち腑に落ちなかったという人がいるのもごく自然です。


10.おわりに

いかがでしたか?
本noteではGRADやLP、『ワールプールフールガールズ』についても触れながら、『天檻』という物語のテーマを考えてきました。大変長い文章になってしまったうえ、自分が書いたnote史上もっとも分かりづらい内容になってしまった予感があり、最後まで読んでくださった方には感謝の言葉しかありません。ありがとう。

本稿は、『天檻』のひとつの読み方を提案するものであり、正解を提示するものではありません。大切なのは、私の読み解きを土台にみなさんがどのような解釈を広げていくかと言うことです。

例えば、本稿ではエンディング「それでもいましか見えないよ」で川沿いを歩くノクチルについて、あまり触れてきませんでした。しかし、あのシーンは『天檻』どころか、ノクチルの歩みを総括するような素敵なシーンに仕上がっていると、私は考えています(同じ主張の繰り返しになると考え、割愛しました)。
ですので、本稿に対して抱いた違和感や、触れられていないシーンについて考えることをとっかかりにして、それぞれの解釈が花開くのも楽しいかなと思います。



きかせてください。
あなたの“思想”――――――――。

♪Anniversary






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こんなnoteを読み切るような奇特やさしい方は、仲良くしてくれると嬉しいです!

それでは~~!


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