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【シャニマス考察】全イベントを振り返る【ノクチル編】

こんにちは。
岡山ディヴィジョンです。

本noteでは、『アイドルマスターシャイニーカラーズ』ゲーム内に実装されてきたシナリオを、簡単に振り返っていきたいと思います。
自分の感想を書き留める備忘録のようなものですが、「あーそんな感想の奴もいるんだなぁ」などと思って頂ければ幸いです。

今回は『ノクチル』編。
タイトルに「全イベントを振り返る」などと書いていますが、本当に全てのイベントを振り返ることなど叶うのでしょうか。前回の『イルミネ』編が11月だったので、このペースで書いていては一生完走できる気がしません。
ちなみに本noteは、4月に開催予定の新イベント『ワールプールフールガールズ』実装に間に合わせるつもりで書き始めましたが、それすら間に合うかは微妙なところです。
(執筆開始時点は2023/03/21。5thが終わったばかりです。5th、良かったね…)

以前執筆したイルミネ編では、共通コミュの内容は含めていませんでした。ただ、イベントの内容を理解するため共通コミュについても読み返してはいたので、今回からは共通コミュについても考えていこうと思います。

ここから先は、全面的にネタバレするので注意です! ※未読なのに開けたらパンチ!

それではいきましょう!


1.WING編

◇浅倉透

浅倉透のWINGを読んでいて、個人的にキーポイントなのかなと感じるのは以下の2点です。

①浅倉透は自他の境界線が薄い
これはWINGに限らないことなのですが、浅倉透は「自他の境界線が曖昧」なところがあるのかなと思っています。

「言葉にしなくても気持ちが通じる」と思い込んでいるのは、その一例ですね。自分と他人の境界線が曖昧なために、相手に自分の気持ちの延長を持ち込んでしまうのではないでしょうか。
他にも、【ハウ・アー・UFO】では人工衛星に、【pooool】では草場の虫たちの闘争に感情移入する姿が描かれていたように思います。
「何かに感情移入しやすい」のは、自分と自分以外の境界線が曖昧なためではないかと思っています。

そんな彼女の性質が、その後のシナリオにも大きな影響を及ぼしていきます。

②一緒にのぼってほしい

浅倉透がWINGシナリオの時点からずっと言い続けていることが、「一緒にのぼろう」ということなのかなと思っています。

浅倉透には、のぼってものぼってもてっぺんに着かないジャングルジムが、いつまでも続いていく人生と重なって見えていたようです。
「人生って、長すぎるよね」
彼女はシナリオの中で、そんなつぶやきを残していますね。いつまでもてっぺんに着かないジャングルジムと同じで、人生はいつまで経っても終わらない「途方もないもの」に見えていたのかもしれません。

だからこそ、彼女の目にプロデューサーは異彩を放って見えました。
いつまでも続くジャングルジムに「のぼろうよ」と誘いかけた彼。
いつまでも続く人生に、「アイドル」を通してのぼろうと誘いかけた彼。
そんなプロデューサーに対して、「なら一緒にのぼってほしい」と考えるのはごく自然なことでしょう。

浅倉の抱いた、「プロデューサーも一緒にのぼってほしい」という願いが、今後のシナリオで重要な要素になっていきます。

◇樋口円香

樋口円香のWINGでキーポイントかなと思うのは、以下の3点です。

①自分がどう受け取られるか

樋口円香といえばこのセリフが有名ですね。

樋口円香は意識的に、こうした露悪的な発言をしている節があると思っています。それは、彼女が「自分がどう見られているのか」に意識的な人間だからではないでしょうか。

WING編での樋口は、強くアイドルを願ったわけではない自分に後ろめたさを感じている様子が描かれています。例えば、「二酸化炭素濃度の話」(WING4コミュ目)で顕著に描かれていましたね。
そして、そんな自分がアイドルとして「本気の人たち」と競い、試されていくことの恐怖を吐露している。

彼女はなんでもそつなくこなせてしまう一方で、その事実を後ろめたいと思っているように見えます。本気でアイドルになりたいと思っている人の横で、器用なだけの自分が評価されてしまっても良いのかと歯がゆい気持ちでいるのかもしれません。

本当に評価されるべきは、自分ではなくアイドルに本気の人だと心のどこかで考えているのでしょう。
だからこそ、彼女はいつか打ちのめされてしまうのではないかという恐怖心を抱えます。本気で願う人の隣で、もし自分もその気になってしまったら、待っているのは心が折られる未来だけ。
本気で願っていない自分は評価されるべきでないし、いつか必ず身の程を知るから、だから自分は本気でアイドルを願うことはない。

そんな風に考えている彼女だからこそ、アイドルを舐めた態度でいないとバランスがとれないのでしょう。樋口円香の露悪的な言動には、そうした彼女の考えがあるように私は思っています。


一方で、樋口円香は勝手に分かったようなことを言われる=「消費される」という事にも敏感です。それは、このシナリオ以降に色濃く出てくると思っていますので、ここでは割愛いたします。

余談ですが、樋口円香のサインもそうした「消費」への抵抗の表れだと思っています。

「樋口円香」ではなく「ヒグチマドカ」と表記するのは、彼女自身が都合良く消費されることへの抵抗なのかなと。なんというか、「樋口円香」と漢字で書くよりもカタカナで書く方が正体不明な感じがしませんか?
浅倉透のことを「浅倉」と呼んでいるのも、そういった感覚に根ざしているところがあると思っています。【UNTITLED】でも語られていましたね。

※問題は、私がこうして「樋口さんってこんな人なんじゃないかな」と文章を綴る行為自体が、一方的な消費になってしまっていることですが…※

②相手をどう受け取るのか

上述したように、ヒグチマドカは本気で戦いもがいている人の横で、自分が評価されてしまう状況を後ろめたいと感じているように思います。そんな樋口にとって、「相手のことをどのように受け止めるのか」ということもまた、重要なテーマになっているような気がします。
筆頭がプロデューサーでしょう。

さぁ、何故でしょうか…?

彼女はかなり真面目なところがあり、「相手からの矢印をどう受け止めるのか」については、なんども慎重な発言をしています。

しかし、アイドルという職業は一方的な消費、相手からの矢印を避けて生きることは出来ないもの。
だからこそ、樋口円香が「相手からの矢印をどのように受け止めるのか」が、シナリオのもう一つのキーになっているように私には思えます。

WINGで提示された彼女の宿題は、そういうところだったのかもしれません。

③言葉にすること

①②に関連しますが、樋口は「言葉にすること」をとても重んじています。
例えば、プロデューサーのことを「プロデューサー」と呼ばなかったことはその代表でしょう。
アイドルを受け入れていなかった彼女が「プロデューサー」と呼ばないのも、WINGを制したあとの彼女が「プロデューサー」と呼びかけるのも、彼女が「言葉」を大切にしているからではないでしょうか。

①で述べた「わざと露悪的な発言をする」のにも同様の意味がありそうです。自分はアイドルに期待していない、自分は評価されるべきでないという心理を確かな物にするために、言葉にしているような気がします。

彼女が言葉を重んじるのは、「ありのままのこと」に大きな関心があるからだと思っています。
P-SSR【オイサラバエル】やS-SR【ダ・カラ】などで語られているように、彼女は「美しい物」への強烈な意識を抱えています。そして、それを言葉にすると「そのままのもの」ではなくなってしまう、抽象化して歪めてしまうという感覚があるのではないでしょうか。

こうした感覚が、ひいては「消費する/される」というテーマにも深く繋がっていくのだと思っています。
このあたりはGRADなどで深掘りされていたと思いますので、後記しようと思います。

◇福丸小糸

告白:小糸のWINGがきっかけでシャニマスが好きになりました。本当にありがとうございます。
小糸のWINGを読んで印象的なのは、ノクチルの中でも最も「全体像」の話が出てくるということでしょうか。
シナリオを大まかに振り返ってみましょう。

①どんなアイドルになりたい?(小糸がアイドルに向いている理由)

物語の冒頭でプロデューサーは、「どんなアイドルになりたいか」という課題を小糸に提示します。
そもそも小糸がアイドルを志した理由は、幼なじみがアイドルになったからであり、前向きな理由ではありません。「一人になりたくないから」でした。
ガラスの嘘がばれてしまい、「アイドルを続けたいか?」と問われた際にも、小糸は以下のような心情を吐露しています。

しかし物語のラストで小糸は、「自分なりの目指すアイドル像」をプロデューサーに打ち明けています。

小糸のWINGでアイドルとしての理想像(=全体像)の話が出てくるのは、ある意味小糸の生き様がそうさせるのだと思います。
そもそも彼女は、周りの凄い人=幼なじみ達に追いつきたい、ひとりぼっちになりたくないという考えからスタートしています。
人の背中を追いかけて生きている彼女にとって、「理想」に向かって努力するというのはごく自然な感覚なのかもしれません。

そういう意味で、私は小糸のことを「悲観的な理想家」だと思っています。とあるnoteで小糸を「リアリスト」と表現しているのを見たことがあって、その解釈も素敵でおもしろいと思うのですが、私とは真逆なことを言っているのに驚いた経験がありました。

プロデューサーが語るように、私も「小糸はアイドルに向いている」と思っています。それは、理想のために人知れず努力できる精神力の持ち主だからです。ステージに立つアイドルという存在もまた、そういった側面があると思いますので。
だからこそ、プロデューサーが「プロデューサー」しているシーンがどれもめちゃくちゃ好きなんです。ファンではなくプロデューサーだからこそ、理想通りにはいかない小糸に寄り添うことが出来る。

小糸の決勝前コミュが本当に大好き

理想の姿。そこへ向かってもがく私。
小糸の物語の根底には、そんなテーマがあるのかもしれません。

②どうやってそんなアイドルになる?(手段)

前述したように、小糸には理想があります。一方で、彼女には理想を達成するための「手段」が欠落しているようにも見えます。そしてそれが、今後の小糸のシナリオの重要なピースになっていくのではないかと思っています。

例えば、アイドルになったことを親に告げていなかった事実

頭の良い小糸なら、そんなごまかしがいつまでも通用するはずがないということは理解できるはずです。ところが、彼女は「(幼なじみにおいて行かれないように)アイドルになる」という理想を叶えるために、このような強引な手段に出ました。
小糸は理想のために努力することの出来る強靱な精神力と、そのための手段がすっぽり抜け落ちた未熟さを同居させた人物なのかなと私は思っています。
一言でいうと、「器用ではない」ということでしょうか。

これ、本当に良いセリフ

そして、そんな小糸にとっての「手段」こそが、今後のシナリオの重要な要素になると私は思っています。特にGRADなどで顕著ですね。

◇市川雛菜

やは~♡
WINGに限らず雛菜のシナリオに共通しているのは、「雛菜の考え方と、それを取り巻くもの」だと思っています。
ここであえて「雛菜の哲学」という表現をしないのは、私は彼女を哲学者だとは思っていないからです。雛菜は様々なシナリオを通して、変化し、成長し、新たな一面を見せ続けているキャラクターです。確固たる思想を確立した揺るぎない人物であるかのように語るのは、すこし乱暴ではないかと思っています。
一見すると大人びて、もしくは達観して見える雛菜ですが、彼女も10代の少女であることを忘れたくありません。

①コミュニケーション

これは余談ですが(いきなり?)、オタク向けにバズってた「会話を哲学する」という本を読んだことはありますか?その本の中に出てくる表現で、「コミュニケーション」と「マニュピレーション」というものがあります。子細は割愛しますが、雛菜はもの凄く前者の「コミュニケーション」を重視した会話をするなぁと思っています。

この本で言うコミュニケーションは、会話の中に出てきた前提条件に基づいて行われるやりとりのことです(間違っていたらすみません)。
※シャケを見て「これはマグロですよ」と発言する。すると、コミュニケーション上は「この人はこれをマグロだと考えている」という前提を共有することになる。その人が実際のところ勘違いしているのか、それともギャグで言っているのかについては、また別の話。みたいな感じです。※

雛菜は発言から生じる前提条件に対して、かなり重きを置いて会話をしていると思っています。実例は枚挙にいとまがないと思うのですが、例えばWINGでいえばこのシーン。

プロデューサーの「自主練した方が良いんじゃないか?」というニュアンスの発言に対するリアクションです。ここで肝なのは、Pはあくまでもそれとなく促しているだけという点で、つまりこの会話でそれは「前提条件」にはなっていないのです。
だから、「ダンスレッスンは終わったし、上手って言われるよ」という発言を返して、ニュアンスを無視しようとしているわけです。他にも、

「聞きたくない」のは、プロデューサーが返答した(言葉にした)時点で、それが会話の前提条件になるためだと思います。
一度でも言葉になってしまうと、それを前提とした会話をせざるを得なくなってしまう。そうなると、互いの価値観をぶつけ合わざるを得なくなってしまいます。
衝突をするりと避けていく雛菜は、そうした「前提条件に基づく会話」を避けることで、衝突を避けているのではないでしょうか。彼女なりの処世術です。

こうした、「言葉」を重視するコミュニケーションは、非常に樋口円香さんと通ずるところがあります。他にも樋口円香との共通点は沢山あると思っていて、良ければ皆さんも考えてみてください。

②無常観

雛菜のWINGで最大のキーポイントとなっているのは、彼女が抱える「無常観」ではないかと思います。

このシーンや、

このシーンなどのやりとりから、雛菜の言動は享楽的なように感じるのではないでしょうか
ラッパーとかがよく言うヤツですね、「やりたいことだけやるぜ」みたいな。なので、こうした言説には「現実はそうじゃねえよ」と反感を持ってしまう人もいると思います。

しかし、雛菜のこうした言動の根本にあるのは無常観だと思います。しあわせは常に過ぎゆくもので、この瞬間だけのもの。だからこそ今を目いっぱい楽しもうという姿勢。
素敵な考え方であると同時に、十代の少女としてはあまりに悲観的な物の見方ではないでしょうか。

今この瞬間の幸せは永遠に続くと、信じていたっておかしくありません。だって10代の女の子なわけですから。
しかし雛菜は、大前提として終わってしまうと考えているからこそ、自分を「楽しい担当」だと言っているわけです。

だからプロデューサーは、そんな雛菜に歩み寄ったのでした。

だめだった時のことを考えているあたりが、実は単に享楽的なだけの人物でないことを感じさせます。

ノクチルのイベントシナリオには「喰う/喰われる(消費)」というテーマが出てきます。

刹那的なもの、それこそ花火のようにぱっと咲いてすぐに散ってしまうものに、私たちはどうしようもなく心惹かれてしまいます。アイドルの瞬間の輝きもまた同じですね。
一方で、人はその瞬間を越えた先も生きていかなければなりません人生を刹那的なものの連続だと捉えると、人生は終わりゆくものの連続でもあると見えてしまいます。

強烈な無常観を抱えた雛菜にとって、それはある意味生まれ持った不幸だったのかもしれません。
彼女は、毎日その瞬間を越えた先にある続いてゆくしあわせ、「連続性のあるしあわせ」をつかみ取る必要があったのだと思います。
だからプロデューサーの発言がありました。

終わらない。始まる。

私は市川雛菜を、「楽観的な現実主義者」だと思っています。
楽しいこと、しあわせなことを追求する一方で、10代の少女としては異様なほど無常観に根ざした思想。言動からは分かりづらいですが、樋口円香に勝るとも劣らない実際家だと思っています。

ちなみに市川雛菜さんのシナリオには、特にカードコミュには2つのテーマがよく現れます。それは「2つのアイ」です(急にどうした)。
1つ目は「I(私)」。そしてもう1つは「愛」
雛菜のBIG LOVEっぷりについては、あまり本noteで触れられないと思いますので、各人カードコミュなどをお楽しみください。


先にも触れたように、私はノクチルを「似た者同士」で別けるとすれば、「浅倉・小糸」「樋口・雛菜」だと思っています。
一方で、「浅倉・樋口(先輩組)」「小糸・雛菜(後輩組)」の共通項を無視するわけにもいきませんね。
浅倉・樋口には、「自他の境界線がない」「自己と他者の違いに敏感」という明確な対比があると思います。また、小糸と雛菜には「理想を追いかける」「目の前のしあわせを最大限楽しむ」という、生き方のスタンスに明確な対比が現れているように感じます。

そうした違いをもつ彼女らがどのように影響し合うのか、楽しみですね。

ちなみに私はノクチルを、
浅倉透  「楽観的な理想家」
樋口円香 「悲観的な実際家」
福丸小糸 「悲観的な理想家」
市川雛菜 「楽観的な実際家」

だと思っています。いかがでしょう?

2.天塵

283プロに所属してしばらく
ノクチルのもとに初仕事の話が舞い込む

いつのまにかアイドルとして
走り出してしまった幼なじみたち

行き先も結末も知らないけれど
彼女たちはもう一度彼女たちを始める

『天塵』あらすじより

アイドルとして走り始めた幼なじみたちを描く、ノクチル最初のイベントコミュです。今なおシャニマスイベント史上トップクラスの人気を誇るイベントであり、5thライブ演出でもセリフが引用されるなど、ノクチルにとって大切な1ページとなっております。

①最初のステージ《アンプラグド》

第3話『アンプラグド』までで描かれるノクチルの姿は、「アイドルよりも先に幼なじみ」であるということだと思います。

初めての仕事に向け、レッスンを重ねる面々。ここで目立つのはやはり、「みんなに追いつかなきゃ」と自分を追い詰める小糸の姿でしょうか。
小糸のWING編でも書いたように、彼女の基本スタンスは「みんなに追いつくために努力しよう」というものです。自分が劣っているという感覚もあるのでしょうが、「みんなは凄い」という周囲に対する憧憬も多分にあるでしょう。小糸、君は凄いんだぞ!

そんな小糸に対して、一番気にかけるそぶりを見せるのは樋口です。
「みんなは凄いね」というような発言をするたびに、「小糸もでしょ」と返答していますね。WING編で記したように、樋口には「頑張っている人へのリスペクト」と「言葉にすることへの慎重さ」がある人だと思うので、こうした態度にも納得です。

明確に態度に表しているのは樋口さんですが、幼なじみの結束は固かったようです。出演する番組のディレクターにとげとげしい態度をとられたとき、彼女らは「アイドルではなく幼なじみとして」ステージに向かうことを決するわけです。

アイドルとして活動を始めたノクチルですが、初めてのステージはアイドルとしてではなく、幼なじみメンバーとして立ちました。まだ走り始めたばかりの彼女たちにとって、それが精一杯の戦い方だったのだと思います。

そんな彼女らは、プロデューサーの目にも(そして私の目にも)、眩しく輝いて見えました。

アイドルユニットであるとも、単なる幼なじみグループであるとも言えるノクチルにとって、今後どのようにアイドルと向き合っていくのか?この業界と戦っていくのか?こそが、提示された課題だったのかもしれません。

②第2のステージ《花火大会》

アイドルとしてのスタート地点に立つことがなかった彼女たちは、海辺の花火大会のステージに立つことを決め、クライマックスへと向かってゆきます。これは、「(まだ)アイドルではない彼女らが、どこへ向かうのか」を示唆していておもしろいですね。

天塵は総合すると、「ノクチルのアイドル物語は始まっていない」ということを描いているのかなと思っています。次のイベントシナリオが「海へ出るつもりじゃなかったし」であることからも、「海にまでやってくる=スタート地点に立つ」のが天塵だと分かります。
以下のシーンでも、彼女らが「アイドル未満」であることが分かりますね。

海に向かって走り出したノクチルの中心には、浅倉透がいます。彼女の存在感とカリスマは唯一無二であり、小糸もこう語っていますね。

一方で、樋口円香の終盤のセリフは印象に残っている人も多いのではないでしょうか。

「透にできることで、私にできないことはない」
樋口が抱える浅倉に向いた矢印を感じるセリフです。一見すると、樋口の中には浅倉に対する対抗心が存在しているように見えますが、個人的には少し違う感想を持っています。
これは「自分は浅倉と同格だ」という対抗心というより、「浅倉は特別な存在ではない」という感覚の発露なのかなと思っています。

【ダ・カラ】というサポートSRコミュが5周年間近に実装されましたね。そこで、樋口円香は浅倉透の存在感(美しさ)に打ちのめされた経験がある、という事が示唆されました。そして彼女は、その事実を心の中に封じ込めることで平静を保って生きてきたようです。
そんな彼女にとって、「浅倉透は特別だ」というのは心をかき乱される穏やかならぬ事実でした。【UNTITLED】にて彼女が語った「私は浅倉透を見ない」というのは、「浅倉が特別だと認めて生きるのは辛いから、浅倉を特別扱いしない。見ない」という彼女のスタンスを現しているのだと思います。

こうした彼女の想いは、以後折に触れて描かれていくこととなります。


WING編で書いたように、市川雛菜は「無常観」を抱えすぎた人物だと思っています。そんな彼女が上のような発言をするのは、ちょっと感じるところがありますね。雛菜は、いつだって「本番は終わるもの」「努力はいずれ指向性を失うもの」だと感じているのかもしれません。
ちなみにこのセリフは、『#283をひろげよう』にて回収されることになります。

小糸の強さがよく現れたシーンですね。
WING編で書いたような、彼女の強靱な精神力と不器用っぷりが現れたセリフだと思います。これがここまでの、そしてこの時点での小糸の「走り方」なのかもしれません。

第1のステージで、アイドルとしてのスタートダッシュを切ることが出来なかった彼女たち。そんなノクチルに、プロデューサーは花火大会のステージの仕事を持ってきます。規模も環境もずっと小さくなって、もしかしたら意味のない仕事かもしれない。
だから、プロデューサーはこう問いかけます。

「どうして走るのか?」
その問いに彼女たちは明確な答えを出すことはありませんでした。
けれど、これがノクチルのスタートになりました。

ノクチル最初の戦いはこうして幕を下ろします。
結果は戦いに臨むことすらできなかったと言わざるを得ないでしょう。けれど、そこにどうしようもなく輝きを感じるのがノクチルといった感じでしょうか。
ノクチルの「これから」を感じずにはいられないラストシーンですね!

3.ファン感謝祭

◇ユニット共通

ノクチルのファン感謝祭では、小糸の活躍が印象的ですね。
「ファンへの感謝を伝える」というイベントのテーマに対して、小糸はかなり思い悩む姿を見せます。どうしたら感謝が伝わるだろうか。どうしたら喜んでくれるだろうか。真面目な小糸らしい姿勢ですね。

そんな小糸は、「ファンの皆さんへの手紙を披露する」ことを思いつきます。発想のきっかけは自分宛のファンレターでした。

ファンレターを貰った小糸は、綴られたファンの思いの丈を受け取り、きっと凄く嬉しかったと思います。だからこそ、ファンへの感謝を伝える手段として手紙と思いついたのでしょう。
アイドル活動を通して自分の居場所を見つけ出したからこそ、アイドル活動を通して誰かの居場所をつくりたいと考える小糸らしい発想ではないでしょうか。
やはり、根がアイドル気質ですよね小糸は。

小糸の成長を感じられて、本当にいいシーンです!


ファン感謝祭でもう一つ印象的だったのは、雛菜の言動でした。
ここまでで再三述べているように、市川雛菜は過度な無常観を抱いているところがあって、それがどこか諦観として言動に表れているように私には見えます。
例えばこのシーン。

このシーンで雛菜は、荒唐無稽とも思えるような演出案を口にしています。いかにも「楽しいと思えることだけでいいの!」と言い切れる享楽的な雛菜の言動に見えるかもしれませんが、彼女はどこか「達成は難しいだろう」と悲観的にも捉えていたようです。

雛菜はステージのアイデアをまとめたノートを、浅倉の家に忘れて放置してしまっています。後日自分のアイデアがステージ演出に取り入れられていることを知ったときも、喜ぶと同時に驚いていました。
彼女は「アイデアをノートにまとめる」というその瞬間の喜び、幸せを楽しむ一方で、それを本気で実現させようとは思っていなかった。
その瞬間を楽しむことだけで十分
だったのかもしれません。

「やっぱり」という反応に、彼女の深層心理が現れているように感じます

WINGを経てなお、やはり雛菜にとってしあわせは瞬間瞬間のものでしかないのでしょう。だからこそ、ライブのラストにもこのようなことを発言しています。


他に感謝祭シナリオで印象的だったといえば、ダンス講師とのシーンがあります。

幼なじみグループであり、浅倉透というカリスマによって走り始めたノクチルですが、それぞれに持つ個性はバラバラに輝いています。
この時点でのノクチルにとって、「バラバラの個性を持っている」ということはそれ以上でも以下でもありませんが、いつか「バラバラの個性を持つアイドル」になっていくのかもしれません。

その時、ノクチルは単なる幼なじみグループではなくなるのでしょうか?
どのように描かれていくのか、気になるところですね。

加えて書いておきますと、このシーンにもノクチルのこれからを強く感じさせられました。

「見られてるぶん、見られてたんじゃない」という樋口のセリフは、WING編でも書いた「見る/見られる」に対する意識の強さが滲んでいるようで感じるものがありますね。
また、「見られていたのか」ではなく「見えてたのか」という表現が、舞台上の演者(自分)と客席の境界線があやふやな浅倉らしい言い回しだと思います。

このシーンが印象的なのはやっぱり、天塵のラストを思い出すからですね。

◇浅倉透

感謝祭・浅倉コミュは、WING編でも触れた浅倉透の願い「プロデューサーと共に走っていきたい」が描かれていたように感じます。

このシーンがそういったものの象徴として描かれているとしたら、浅倉の次のセリフも印象が強まります。
「(プロデューサーが走るからそれにつられる。それに)気持ちいいよ、」

ノクチルの次のシナリオイベントが「海へ出るつもりじゃなかったし」であり、風が重要なキーワードだったことを思うと、「いいね!」となりますよね。

◇樋口円香

樋口の感謝祭コミュでは「送り手/受け手」の構図を想起させる内容になっています。コミュが短いこともあって、このコミュだけでは完結していない内容ですが、今後の樋口円香プロデュースシナリオに重要な布石を置くコミュになっていますね。

このあたりの発言も、やはりWING編に記した「ありのままのものを、表現を通して抽象化してしまうこと」「抽象化を通して歪めてしまうこと」、ひいては「消費する」という行為に対して、強烈な自意識を感じます。

◇福丸小糸

小糸の感謝祭コミュは本編です(以上)。
というのもあっさりしすぎですね。小糸がファンレターを受け取るシーンから幕を開けます。

ダンス講師の「完成度がまだまだのパフォーマンスでは、感謝なんて伝えられませんよ」という指摘を受け、彼女は「認められるラインのパフォーマンスに達したら、手紙の演出を提案しよう」と目標を立てて努力を始めました。
こうした努力の重ね方は、福丸小糸らしいかもしれません。ちなみに、【おみくじ結びますか】は読みました(4.5周年セレチケ・使用日2023/03/27)。

あとは、やっぱりこのシーンですね。

このシーン、あまりにもイイ。

◇市川雛菜

このシーンは、あまりにも雛菜で胸がぎゅっとなります。

私は雛菜の抱える無常観に対し、少し悲しいと感じることがあります。
一方で、こうして明るく発言する雛菜を見ていると、余計なお世話だよな…という気持ちにもさせてくれます。雛菜がどうしてこのような考え方をするようになったのかは全く分かりませんが、彼女の底知れなさは、こうしてはっきりと彼女の中に理屈が存在する点にあるのかもしれませんね。

また、この感謝祭コミュでは、雛菜のアイドルスタンスが明確に打ち出されています。これも非常に大切なポイントですね!

4.海へ出るつもりじゃなかったし

ぼんやりとクリスマスが過ぎ
だらだらと正月も終わろうとしている

4人の日々は相変わらずで、
しかしそれまでの相変わらずとは変わっている

間違えて浜に出てしまったゾウのように
時間は戸惑いを含みながらゆっくりと進んでいく

まだ硬く青い心にとってそれは
つまずくほどに遅く感じられるかもしれない

しかし巻き戻るということはない

『海に出るつもりじゃなかったし』あらすじより

本イベントの主人公は浅倉透だと思います。
浅倉透ってホームボイスで「ゾウの時間・ネズミの時間」について言及していましたよね(うろ覚え)。このあらすじにも同様のフレーズが登場し、なにやらただならぬ雰囲気です。
ちなみにご存じの方も多いかもしれませんが、「ゾウの時間~」というのは、大きくて寿命が長い生き物と、小さくて寿命が短い生き物にとっての主観的な時間の長さには、違いがあるのかみたいな話だったと思います。詳しくはググってください。

①年越しまで

本イベント最大のキーポイントは、「ただの幼なじみでもあり、アイドルユニットでもあるノクチル」の姿を描いている点にあると思います。コミュタイトルにも「汽水域(河と海の境界みたいな意味だそうです)」というワードが使われていることから、それを意識的に描いているのは間違いないでしょう。
冒頭から、ノクチルの「一般小市民」っぷりがたっぷりと描かれます。

「暇」がキーワードのシナリオに師走の終わりを持ってくるのも芸が細かいですね。

ノクチルはプロデューサーから持ちかけられた仕事を、最終的には断ってしまいます。「アイドルになりきれていない彼女たち」の姿を描く印象的なシーンですね。

このシーンでは、
「幼なじみグループでもあり、アイドルでもある」彼女たちの姿が、
裏返していえばアイドルとして強烈な動機を持っているわけではない彼女たちの姿が、描かれていますね。
なんとも言えない沈黙が流れる感じとか、断りのメッセージを誰も送りたがらない感じとか、このあたりの空気感は本イベント最大の魅力です。各々の年末の過ごし方が描かれる第1話も良いですよね。


同時にこのシーンでは、「浅倉透の衝動」も描かれていたように思います。

浅倉の内的衝動について考えるときに、キーとなるのがオウムだと私は思っています。
では、オウムってなんだったんでしょう?
私なりに色々考えてみて、「浅倉の深層心理」なのかなと結論を出してみました。

おそらくオウムと浅倉透がイコールで結びつくだろう、というところまでは理解しやすいと思います。浅倉が預かっているし、浅倉っぽいことを言うし、「透ちゃんだね!」と小糸も言ってるし。

このシーンの直後に、「透ちゃんだね!」というシーンも来ますが、あえてここを引用

加えて、サポートSSR【がんばれ!ノロマ号】でこのようなやりとりが出てきます。

オウムが浅倉透の深層心理を写した存在だからこそ、浅倉自身でさえ意識していない記憶の中の言葉を、オウムは口に出来たのだと思います。
他の人が知らないのも当然ですね。

では、オウムは浅倉にとっての「どんな深層心理を現した存在」なんでしょう。
あの鳥が「オキロノロマ!」と口にしていたことから考えて、あれは浅倉を蹴っ飛ばそうと、せかそうとしているような存在だと思います。つまりそれは、「アイドルではない現状」に対して感じている、内なる焦りや闘争本能を背負った存在ということではないでしょうか。

そう考えると、「自室」で、「カゴの中の鳥」から、「オキロノロマ!とせっつかれる」という状況が、いかにも「アイドルとして海へこぎ出す寸前の浅倉の心理状況」を現していそうですね。
自室は「一般市民・浅倉透」にとっての世界そのものです。そして、そんな狭い世界でさらにカゴに囚われた自分の闘争本能が、「さっさと目覚めろ」と焦らせてくる。

そんな彼女にとって、年越しの瞬間とはなんだったのでしょう。

大晦日とは、旧年と新年の入り交じる瞬間です。
これもきっと、一種の汽水域なのでしょう。
だからこそ、浅倉はそこに「今までの自分」「アイドルとしての自分」を重ね合わせて見てしまうのではないでしょうか。
つまり、このシーンで浅倉が語る「(消えてしまう)すべて」と「ほんとの世界」というのは、「アイドルではなかった自分」と「アイドルとして自分」であると私は認識しました。

年が明けて、全てが消えたら、ほんとの世界になる。
浅倉透は内なる衝動に突き動かされ、「ほんとの世界」を求めていたのかもしれません。

ここまで考えてきたように浅倉は、深層心理では闘争本能にせっつかれながら、一方で小市民らしい生活を送っています。
そして彼女は、そんな小市民らしい生活、日常に対して、「暇」だと感じているようです。内なる渇望や焦燥感が埋め合わされることはなく、ただ間延びした時間がずっと続いていくだけ。
「暇」とは、そんな「ゾウが感じるような間延びした時間」を、彼女もまた感じているということの現れでしょう

そしてシナリオ後半では、「風」がふくことになります。

②騎馬戦

番組に出演しなかったノクチルは、思い思いの正月を過ごします。その過ごし方にも個性が出ていて良いですね。浅倉は家で寝正月(?)。樋口は散歩。小糸は勉強。雛菜は家族で温泉旅行。
自分はあまり勉強が好きではないので、小糸を見ていると「何故一年生なのに受験生時代の僕より勉強を?妙だな…」となってしまいます(余談)。

小糸は、番組のことが引っかかっているようですね。

ここで登場するキーワードが「ココア」です。
「またかよ」と思われそうですが、この「ココア」もまた一種の汽水域として用いられていると感じました。以下のシーンが顕著ではないでしょうか。

「わたしたちは、まだ」
その言葉に続くのはおそらく、「まだちゃんとした283プロの一員(アイドル)じゃない」ということでしょう。プロ意識に欠ける「遅刻」をかました浅倉もまた、ココアを飲んでいました。やはりここでも、彼女らは「どっちつかず」の状況だったのだと思います。

きっちり、全員がココアを口にしていますね。

しかし、彼女らは番組への出演を決めました。
プロデューサーからの「条件」を飲んで。
ここで、「飲む」という単語でコミュをまとめるあたりも芸が細かくて良いと思います!

どっちつかず。河と海が混じり合う汽水域に在る彼女たちが、どこへ向かって一歩を踏み出すのか。ある意味「天塵」では叶わなかった「ノクチル最初の戦い」が、幕を開けようとしているのだと思います。

騎馬戦の練習をする浅倉も、それを感じているみたいでした。


どっちつかずな彼女らですが、全く丸腰というわけでもありません。
彼女らは「天塵」を経ています。

誰も見向きもしなかったステージで、仕事もほとんどなくて、自分たちがしていることはアイドルごっこでしかないのかもしれない。
それでも、天塵のラストで「海へ行こう」と確かな一歩を踏み出したときの気持ちは、消えてなくなったわけではありません。「海を知らないわけじゃない」という樋口の発言は、そんなノクチルの現在地を示したものではないでしょうか。

プロデューサーの願いも、彼女たちが秘めるもっと大きな可能性に、彼女たち自身が挑んでいって欲しいと、ただそれだけのことでした。

ここで、「生きる」というワードが登場します。

雛菜WING編でも記したように、ノクチルのシナリオには「喰う/喰われる(消費)」というテーマがあると思っています。
そして、海に飛び込んでしまう衝動的な輝きもまた刹那的なものであって、人はその瞬間を越えた先も生きていかなければなりません。
少女達が向き合っていくものが、そうした刹那的なものではなく、連続的なもの。彼女たちが思っている以上に大きなものであることを知って、そしてそこへ挑んでいって欲しい。
それが、プロデューサーの言う「生きる」ということではないかと思っています。

「優勝すること」を経て、プロデューサーは彼女らに見つけて欲しかったのだと思います。瞬間瞬間の輝きを越えた先にある、長期的に「自分がどうなっていきたいか」ということを。

そしてそのためには、自分がどこに立っているのか、どこを目指しているのかを確認しなければなりません。だから彼は、「優勝してきて欲しい」とノクチルに条件を出したのでしょう。
ノクチル相手にどのように振る舞うべきかを悩んでいる節のあったプロデューサーですが、「プロデューサー」として意識的に振る舞おうとしているのが分かりますね。

このあたりの会話は、後のGRADへも繋がっていきますね。ミジンコは小さいですが「命」の象徴であって、そして上手に描けると言うことはそれをきちんと見つめているということでもある。
この段階の浅倉にはきっと、ミジンコを上手く描くことはできなかったでしょう。

そして、彼女らは戦いに臨みます。


後日。何かを温めようとしているプロデューサーが、一人呟きます。

ここで温めているのもまた、ココアなのかなと自分は感じました。
本来であれば、彼は「優勝することを条件に」と厳しく言い放ったわけですから、その姿勢を貫くべきです。ところが、ジャンプして空中分解してしまったノクチルの姿に、言い知れぬ魅力を感じてしまったのでしょう。
だから、「優勝なんて、いいんだ」とぶれたような発言をしてしまっています。

「プロデューサーとして」と、「個人として」が混じり合ってどちらでもない瞬間。このときばかりは、彼もまたココアを飲んでいて欲しいと私は思います。


今のノクチルでは、「ジャンプしても空中分解」してしまうことが分かりました。奇しくも、これは年明けの瞬間の浅倉に対するアンサーとなっていますね。

年明けの瞬間にジャンプすることを、「ほんとの世界になる」=アイドルとして本当に走り始めることだと感じていた浅倉にとって、アイドルとしての最初の戦いがジャンプで幕を下ろしたことは、奇妙な符合になりました。
結果は、ジャンプしたら空中分解してしまう=完敗に終わりましたが、それは確かに踏み出したアイドルとしての一歩だったようにも思います。

もう、浅倉は家で寝ぼけているだけではないのですね。
自分の深層心理である鳥に対しても、彼女はこんなことを語りかけます。

「海へ出るつもりじゃなかったし」というイベントは以上のように、「スタート地点から一歩前へ踏み出す」というお話だったように感じます。長いお話をまるまる一本かけて、こんなのんびりとしたスタートダッシュを切る感じが非常に愛おしいですね。

だからこそ、ラストシーンは胸に残ります。


◇余談

八宮めぐるのP-SR【小さな夜のトロイメライ】でも、ココアが「二つの物が混じり合う境界線」として用いられていましたね。
このカードコミュでは「子供の世界」と「大人の世界」が混じり合う瞬間の象徴としてココアが描かれていたように感じますが、さすがに関連性はないと思います。ただ、思い出したので。

5.GRAD

◇浅倉透

①自分と他人

GRAD冒頭にて、浅倉はクラス発表のナレーションを委員長から依頼されます。そこで彼女は、「大した仕事じゃないよ」的に謙遜する委員長に対し、こんなことを言います。

まるで歌番組に出るみたいなノリでおもしろおかしいセリフですが、このセリフが浅倉GRADの重要なニュアンスを体現しているような気がしますね。「海へ出るつもりじゃなかったし」を経て、アイドルとして凄く頑張っているとは言いがたい自分の現状に対し、彼女にも思うところがあるようです。その証拠に、SNSでバズった事実に対し、こんなことを呟いています。

また、「アイドルなんてどうやったらなれるの?」と訊ねられたときも、同様に複雑な心境を滲ませています。

息をしているだけで、アイドルとして頑張っているとは言えない。
自分の現状をそんな風に認識しているようです。ここらへんの彼女の感覚は、完全に「海へ出るつもりじゃなかったし」から地続きになっているのが分かりますね。

WING編から繰り返し書いているように、浅倉はそもそも「自分と他人の境界線が曖昧」なところがあると思っています。
ところが「海出」を経て、彼女が言うところの「ほんとの世界(=海)」へこぎ出したことによって、彼女は自分と他人の違いを強く意識するようになりました。
そして、その象徴として出てくるのが「心臓」。命です。

このシナリオにおける心臓、生き物、命、委員長などは全て、「自分とは違う命」の象徴でしょう。つまるところ、これまでの彼女が無意識に自分と一緒くたにしてきた、「他人」そのものでしょうか。
彼女はそうした「他の命」を見つめるようになり、やがて自分に対してこのようなことを語るまでになります。

この、浅倉なりの「もがき」が、本シナリオ最大のキーポイントですね。SNSの「いいね」というハートから始まり、ミジンコの心臓というハートで幕を下ろすのも、お話として綺麗だと思います。

他の命を見つめたとき、彼女も「頑張りたい」と思うようになりました。委員長みたいに頑張れるかな、という浅倉の発言は、とてもけなげで胸を打つものがあると思います。

②見つけた心臓

これまで境目が曖昧だった「自分と他人」の違いを見つめたとき、懸命に生きる他人と、そうではない自分が見えてきました。

だから彼女は、「自分の心臓」を見つけ出そうともがき始めます。
河原コースを100周しようとしたのも、自分の心臓を見つけるためですね。直接のきっかけはダンス講師の発言でしたが、彼女には「懸命に生きる方法」が分かりませんでした。だから、ひとまず目の前の物に食らいついてみたのでしょう。
それに、走っているときは鼓動を強く感じます。

しかし、そう簡単には掴めません。
いつもは飄々とした浅倉ですが、彼女は不安に駆られてしまいます。プロデューサーにも、こんな本音を漏らしていました。

この発言には、これもWING編で書いたような「プロデューサーと一緒に走りたい」という彼女の願いが込められているような気がします。
そしてだからこそ、プロデューサーもその思いに応えようとしていました。彼は浅倉の冗談に乗っかって、彼女を湿地へと誘います。

「息してるだけで、命になる」というのは、委員長も言っていた「命のシンプルさ」でしょうか。
浅倉は懸命に生きたいと思っている一方で、その方法が分かりません。生きているだけで命がけ、息しているだけで生きられる生き物たちと違って。
そんな浅倉にかけるプロデューサーの言葉は、だからこそ胸に染みます。


「海へ出るつもりじゃなかったし」のラストにて、浅倉はこんなモノローグを残しています。

自分は元ネタの児童書?をよく知らないのでそこへの言及は避けますが、「海出」における「海」「ほんとの世界」「アイドルとして生きる世界」の象徴であることはほとんど間違いないでしょう。イベントでは、そこへ第一歩を踏み出すところで幕を閉じました。
そんな「海出」のラストで、ノクチルは「うみを盗んだやつら」と呼称されています。各々が、各々の海へとこぎ出す。
それは、透明なままではいられないほんとの世界へこぎ出すという意味でもあると思います。

浅倉透が盗み出した海にははじめ、音がありませんでした。けれど、河原を走り続け自分の鼓動の音を聞いて、生きたいと懸命にもがく中で音が増えていったわけです。
透の海にはもう、生き物がいるんですね。

「自他の境界線が曖昧」な浅倉透が、他の誰のものでもない「自分の心臓」を見つけ出すまでの物語が、GRADだったように思います。彼女は彼女の心を見つけ出すことが出来ました。
それは、アイドルという世界へ足を踏み入れたが故ですね。

このシーンの直後に、浅倉は次のような所信表明を口にしています。

食物連鎖の世界。いわば「喰う/喰われるの世界」というものを、私は「消費し、消費される」世界だと認識しています。
次のイベントシナリオ「さざなみはいつも凡庸な音がする」にも描かれていますが、そもそも業界人は、「輝かせてやるから、輝いて見せろ」と捕食行為を行う「消費する側」です。一方で、そんな彼らの要求に対して鮮烈な輝きを放つスターもまた、そうした舞台を自分のために消費してしまう捕食者
このような捕食者がうごめく世界が、芸能界なのだと思います。

彼女はそんな世界で、生きていきたいと願うようになりました。

浅倉透の、捕食者としての最初の戦いは、LandingPointで描かれてゆきます。

◇樋口円香

①未熟で未完成

樋口円香GRADには「アイドル」という名前のモブ(という表現が適切でないくらい、私はこの人物が好きです)が登場します。彼女は、出場するGRADで芳しい結果が出なければ、この業界から去ろうと決心しているようでした。

ここでおもしろいのは、樋口は過去に、このアイドルに対して「願いは叶う」と伝えているという事実ですね。これは凄く樋口らしい発言だなあと私は思いました。
彼女は懸命に努力する人へ、純粋なリスペクトを持っている人だと思います。だから、このアイドルに「願いは叶う」と口にしているのは自然なように感じました。
そして同時に、この言葉がラストのコミュタイトルになっていることからも分かるように、重要なテーマに紐付いているとも思っています。

このシーンにはかなりインパクトがありますね!
構図がWINGでのワンシーンとまるっきり同じです。しかし、「安っぽい笑顔で笑っているアイドル」はそこにはいません。また、WINGの頃は「(宣材写真の撮影なんて)笑っていればなんとかなる」と語っていた彼女が、自ら宣材写真の撮り直しを願い出ている。

シニカルで、感情を表面に出したがらない彼女の内側に、はっきりと熱を持ったものがあると気づく、印象的なシーンだと思います。

樋口円香のGRADには、「未熟で、未完成」な存在が3名登場します。
一人目は引退するかもと漏らした「アイドル」。樋口円香が言うように、彼女はアイドルとして花開く前に終わろうとしています。
樋口にはきっと、その事実に対して思うところがあるのでしょう。
一方で、彼女の決心に何も口を挟めませんでした。

なぜなら、他ならぬ樋口円香もまた、「未熟で未完成」だからです。彼女は自身に対して、以下のように述懐しています。

「軽やかというより、軽い」
番組に呼ばれるくらいには評価され、営業にも褒めそやされ、それでも彼女は自分自身を「軽い」と感じている。そんな自分には、彼女へ投げかける言葉なんてないと思っているのでしょう。

ですが、彼女は失敗します。

樋口が「アイドル」のこの発言を看過できなかったのは、WING編でも書いたように、彼女が「言葉にすること」をとても大切にしているからだと思います。たとえ単なるキャラ付けであったとしても、ありのままで眩しいほどに懸命な「アイドル」の存在をないがしろにする発言には、頷けなかったのでしょう。
踏みにじるように「消費」したくはなかったのだと思います。

しかし、それは「アイドル」の掴んだチャンスを潰しかねない発言でした。

「未熟で未完成」な樋口円香の、未熟で未完成が故の失敗ですね。


そして、「未熟で未完成」の3人目は、プロデューサーです。

私は、この樋口円香GRADくらいから、明確に「樋口とプロデューサーはかなり根っこが似た者同士」という描写が増えているような気がします。
このシーンでは、二人とも未熟で青臭いということが分かりますが、以後のプロデュースカードなどでもそうした描写は増えています。
これは、「天檻」のテーマに関わってくることなのかなと私は考えていますので、「天檻」について書くときに忘れてなければ書きます!(覚えておけ)

②「表現」

ファン感謝祭の樋口コミュにて、樋口は「(感動は私の力じゃない。私は)誰かのために歌っていない」というような発言をしています。彼女がそうした発言するのは、やはり自分のことを「軽い」と思っているからでしょう。

再三書いてきたように、樋口は言葉を重視して、滅多なことは口にしません。それは、ありのままの何かを言葉を通して抽象化することで、歪めてしまうと感じているためだと私は予想しています。そして、どうして「歪めてしまう」と考えているかというと、それは彼女が自分のことを「軽い。重みがない」と思っているためでしょう。

樋口は今回の出来事で、明確に失敗してしまいました。一方で、彼女にはそうなることが十分予想できたはずだと思います。
何かを伝えようとする、何かを「表現しようとする」ことには、そうした危険性がつきまとうもの。その事実をよく分かっているからこそ、WINGでは「疑問が先立って。私に何を期待しているのか」、感謝祭では「誰のためにも歌わない」と口にしていたのだと思います。

言葉を尽くしたって想いが伝わるとは限らない。
歌や踊りが何かを表現できているとは限らない。

現実問題、その通りです。
けれど、樋口円香には伝えたい想いがあった。
軽くて薄っぺらい自分の口からでは、言葉の本質を歪めてしまうかもしれないけれど。それでも伝えようとするものがあったのだと思います。

「表現する」という行為について、それだけ責任を持って向き合おうとしている彼女が踏み出した一歩は、とても重たいと思います。


こっちはLandingPointのワンシーン

余談ですが、GRADには「桜えびのパスタ」LandingPointには「エビグラタン」が登場しますね。単純に樋口の好みの食べ物なのだとは思うのですが、個人的にはちょっと深読みしたくなりました。
というのも、エビって種類にはよりますが、基本的に灰色の身体をしていますよね。でも、「熱されることで赤色に色づく」という特徴を有しています。熱されることで赤色に色づくなんて、凄く樋口円香っぽくて、だからわざわざエビを登場させているのかなって思いました。
ちなみにググって知ったのですが、カニやエビは元々から「赤色」を持っているわけではないそうです。赤色の色素を持つ海藻をプランクトンが食べ、そのプランクトンをエビやカニが食べることで体内に蓄積されるのだとか。食物連鎖の中で色づいているというのもちょっと似ていますね!

◇福丸小糸

と、ここまで浅倉、樋口と文章化するのが大変(本当に大変)なシナリオが続きましたが、小糸のGRADに関しては、もはや私がごちゃごちゃいうまでもなく作中内でテーマなどが明言されています。振り返っていきましょう。

①手段のお話

他のノクチルメンバーとは違い、小糸はアイドル活動に苦戦している様子が描かれます。そして、自分が目指すアイドルになるために、『GRAD』出場を決意します。
なんのためでもない練習ではなく、何かのための練習の方が彼女の性格に合っているというのは、WING編でも触れた「理想を追いかける人間」の小糸らしいですね。

一方で、これもWING編からの宿題である、「小糸には手段が欠落している」という問題が表層化します。

これはプロデューサーらしからぬ大ぽかですね。こういったやり方は小糸の望むところではないと、普段の彼ならすぐに気づくと思います。
一方で、小糸が理想に到達するためには結果を残す必要があり、そして結果を残す手段として練習風景を公開するというのはごく自然な発想です。
小糸がノクチルの中で仕事が少ない部類であるということも、プロデューサーの焦燥感を煽ったのかもしれません。

しかし結果として、小糸はブチ切れてしまいます。

②一緒に頑張るお話

GRADを通して、小糸は「どうやってそんなアイドルになる?(手段)」という課題を見つけ出しました。もとより手段が欠けた不器用な人柄ではありましたが、このシナリオを通してそんな自分の現在地を認識するに至ったわけです。
これは、大きな進歩ではないでしょうか。

そして、プロデューサーの存在についても再定義が行われます。
今はまだ不器用なままで、どうやったら目標に近づけるのか分からない小糸ですが、それをプロデューサーと一緒に考えていこうと改めて決意するのです。

そもそも、小糸とプロデューサーは対等な関係性でした。
不器用なのにアイドル気質な小糸は、理想と現実の狭間で苦しんでいるのにそれを表に出すことが出来ない。だからこそ、そんな小糸に寄り添うことができるプロデューサーは特別で、小糸も信頼を置いていたわけです。
ところが今回のシナリオにおいては、プロデューサーは「成功するための手段を考え、それを小糸に与える」というスタンスで臨んでしまいます。
小糸を心配し、小糸に結果を出して貰おうと考えるが故の行動ではありますが、二人の関係性からはずれたものだったといわざるを得ません。
本質は、共に考え、歩んでゆくという点だったのだと思います。

プロデューサーは小糸にとって「1人目のファン」であると同時に、唯一無二の「プロデューサー」でもあります。
いくらプロデューサーがファン目線で小糸の魅力を伝えようとしても、プロデューサー目線が抜け落ちてしまうと、ともに歩んでいくことは難しくなってしまうわけです。
そうしてプロデューサーの立ち位置の再定義が行われたからこそ、次のシーンがありました。

最初の宿題。それに続く、二番目の宿題です。
小さな目標を立て、それに向かって努力し続けるという小糸の性質は、WINGの時からずっと一貫して描かれてきたんですね。

そして物語のラスト、小糸は「自身の前進」を受け入れます。

二人はこれからも、そうやって一緒に頑張っていくんだろうという気持ちにさせてくれますね。

◇市川雛菜

まさかの恋愛リアリティー番組!?!?!!?!??

というわけで、アイドル育成ゲームでまさかリアリティーショーに出演するシナリオが描かれるとは思いませんよね。市川雛菜GRADです。

①ファンについて

海に来たかったから、という理由がいいですね。
このシーンで男性アイドルのトールが言うように、アイドルがこういった番組に出演するのはかなり勇気というかリスクが生じるものだと思いますが、プロデューサーはオファーが来たときどんな反応を示したのでしょう。雛菜はやりたい~と言いそうなので、すんなり出演がきまったのかもしれませんね。


ファン感謝祭にて雛菜は、「雛菜がしあわせでいて、それを見てみんなもしあわせになればいいよね」という彼女なりのアイドルスタンスを打ち出しています。そしてそれは、GRADでも再び語られています。
しかし彼女は、このGARDを通して再び「しあわせ」について考えることになりました。

ポイントになるのは、次のシーンです。

「雛菜にも、いるかもしれない。雛菜が幸せの全部、っていうファンも」というプロデューサーの指摘に、シナリオ後半で彼女は回答を示します。つまりそれだけ、雛菜にとっては重要な指摘だったということです。
彼女は、番組出演とこの言葉をきっかけに、雛菜のファンにとっての幸せ、そして自分の「アイドルとしてのスタンス」を改めて考えることになったのでした。

ここでポイントなのは、WING時点であればきっと「自分のことは自分しか分からないから」と、人にとってのしあわせを考えることはなかったんじゃないかという点です。
そもそも、相手の気持ちを完全に理解することは出来ない、人は自分のことしか分からないという考え方は、とても正しい反面、あまりにも達観しているように感じます。
これは、やはり再三述べてきたような「雛菜的な無常観」の現れではないかと思っています。

ですが、彼女はそうした無常観の先へ、思考を進めようとしています。
「皆はどう感じているだろうか。自分はどうあるべきだろうか」
目立ちませんが、雛菜も着実に人間として変化しているということが分かりますね。

②市川雛菜について

市川雛菜GRAD最大のポイントは、「無常観」からの脱却だと思います。もっと言うと、「無常観の先にある雛菜的な価値観」を、彼女が見つけ出すお話です。

それを象徴するように、こんなやりとりがあります。

このプロデューサーのセリフは、WING編でも引用した「決勝前コミュ」に基づいたものです。
WINGの頃、雛菜は今以上に諸行無常的な価値観を強く持っていました。だからこそ、WING決勝を「終わっちゃうから寂しいね」と口にしています。一方で上記のように、そんな発言を相対化するようなシーンがGRADでは描かれています。

雛菜が、当時の価値観を全く捨ててしまっているとは思いませんが、当時の「瞬間のしあわせが終わってしまう」というもの悲しい価値観から、現在では変化しているということが示唆されていますね。

では、そんな彼女の現在の価値観とはどのようなものでしょうか。

その瞬間で終わってしまう幸せではなく、ずっと続いていくもの。
彼女の出した答えは「市川雛菜」でした。

色々な出来事は始まって、そして終わる。楽しいときもあれば寂しいときもあって、時には大変なこともある。今この瞬間にあるものが、この先もずっとあるとは限らないのが世の常というものでしょう。
それでも雛菜がずっとしあわせでいられるのは、彼女が「市川雛菜」になりつづけるから。
瞬間瞬間を切り取る無常観ではなく、「市川雛菜になる」という進行形の価値観
を、彼女は見いだしたのではないかと思っています。

刹那的なものの美しさやしあわせに囚われない、自由な価値観。
それでいて、彼女らしい、これ以上ない価値観の提示ではないでしょうか。


また雛菜はこのシーンで、プロデューサーからの「雛菜が幸せの全てって人がいるかもしれない」という指摘にアンサーしています。
ここまで考えてきたように、雛菜は刹那的な無常観ではなく、唯一普遍の「自分」に「なりつづける」、「大切なものに自分の名前をつける」という「連続性のある価値観」を見つけ出したと思っています。
そして、そんな彼女の在り方を「みんな(ファン)」に伝えることによって、負けてしまったり失敗してしまったりといった瞬間瞬間の悲しさや寂しさではない、連なってゆく幸せを提示しようとしているのではないでしょうか。

このように雛菜は、自分のことと同じくらい自分を好きな人(ファン)のことを考えておりファンに対しての雛菜なりの誠実さをもって向き合っているということが分かると思います。
だからこそWING編でも述べたように、彼女のカードコミュには「I(私)」と「愛」という、「2つのアイ」がテーマとして用いられているのではないでしょうか。
是非そうした観点でも読んで頂けたら幸いです。

6.さざなみはいつも凡庸な音がする

誰かが言う
砂浜を走って、遠く遠くまで行けと

誰かが言う
ただ、そこに立っているだけで良いと

寄せては返す、波のように
今はまだここで、凡庸な音を繰り返している

果たしてそれは
いつか、変わるのだろうか

『さざなみはいつも凡庸な音がする』あらすじより

「さざなみはいつも凡庸な音がする」では、「求められるもの」というテーマが繰り返し登場します。
その証拠にあらすじにも、「砂浜を走って、遠く遠くまで行け」「ただそこに立っているだけで良い」という「誰かのセリフ(要望)」が強調されていますね。
こうした、ノクチルに向けて口々に向けられる様々な要望を、本シナリオでは「さざなみ」と表現しています。さざなみは細かな波という意味ですので、色々な人が色々なものを要求して、それが全体としては細かな波が立っているように見える、というところから発想しているのでしょうか。

「海へ出るつもりじゃなかったし」でアイドルとしての一歩目を、そしてGRADにてそれぞれに色づき始めた彼女たちは、果たしてそんな「さざなみ」と、どのように向き合っていくのでしょう。

①「さざなみ」その1

番組ディレクターは天塵「アンプラグド」のステージを見て、「ほっほうおもしろいヤツら」と感じたようです。あの一件以降ノクチルは干され気味になってしまいましたが、こうした感想を抱く業界人がいてもおかしくはないですよね。

番組ディレクターが求めたのは、自由奔放で常識に囚われない、破天荒なノクチルの姿でした。それをカメラに押さえることができれば、「おもしろい番組になる」と確信している様子です。

しかし番組収録が進む中で、番組ディレクターは次のようにこぼします。

番組をおもしろくするのが彼の仕事なので、この発言はごく自然なものではありますね。しかし、「ノクチルには破天荒で型破りな存在であってほしい!」と彼女らの在りようを押しつけて、「なんかちゃうねんなぁ」とがっかりするのは、勝手な言い草でもあります。

これが、あらすじでいうところの「砂浜を走って、遠く遠くまで行け」にあたりそうですね。
こうした業界人の視線は、浅倉透GRADの流れを汲んだものだと思っています。本シナリオでは「さざなみ」というフレーズに換言されてはいますが、本質的には「捕食」と同一であることは明らかでしょう。
輝いて見せろという捕食行為。
ノクチルがいるのは、そんな芸能界まっただ中であることが分かります。

②「さざなみ」その2

その1に対し、ノクチルには等身大のノクチルらしさを求める。シナリオ内で直接描写されているわけではありませんが、そんな「声(さざなみ)」も描かれていたように思います。
彼女たちはアイドルを舐めていて、お寺で性根をたたき直された方が良い。けど、そんなところが他にはなくておもしろい(そんな姿こそ求めている)。
「ただそこに立っているだけで良い」という意見は、そんなノクチルに対する要望を現しているような気がします。番組タイトル「成長中(仮)」というのも、そんな世間からの視線が背景にありそうですね。

アイドルを舐めていると言っておきながら、突っ立ってるだけで良いんだなんてある意味勝手な言い草です。しかし、誰かからの要求、「さざなみ」とはえてしてそういうものかもしれません。
さざなみはいつも凡庸な音がするわけですね()。

③傍白

そんな「さざなみたち」に対し、ノクチルはどのように感じているのでしょうか。本シナリオで最もスポットが当たる福丸小糸さんは、かなり真剣に思い悩む姿を何度も見せています。

番組のキーワード「成長」や、ファンの人にどんなことを求められているのかを気にして、小糸は思い悩みます。
再三書いたように、小糸はファンの存在ありきでアイドルとして成長してきた背景がありますので、自分になにが求められているのかを気にするのは、彼女らしい気がしますね。

そんな「自分が求められていること」「番組が求めるおもしろいこと」を気にしている小糸の姿で印象的だったのは、樋口円香と共に浜辺のゴミ拾いをするシーンです。

ここで探している「ゴミ」は、きっとアイドルとしての成果物と重ね合わせて語られているのでしょう。
だからこそ小糸は、「わたしも何か見つけないと」と焦っているのだと思います。番組を通して「ファンが望む姿、成長」をみせたいと考え、精一杯「おもしろい」を考えていた彼女の焦りが、このセリフに集約されている気がしますね。
そして同じシーンで、小糸は「王冠の形をした飲み物のフタ」を見つけます。

この「王冠」が、「かんむり番組」のかんむりとかかっているのは間違いないと思います。小糸が探しているアイドルの成果物の一つとして、まさにかんむり番組は象徴的です。今撮影している番組がそうなわけですから。
一方で、それが本当に成果物なのかどうかは、小糸には分かりません。だからこそ、彼女は「一瞬、光った気がして」と発言したのだと思います。

自分はこの番組をおもしろく出来ているのだろうか。
ファンの人が見たいものを見せられているのだろうか。
そもそも、自分たちに求められているものってなんだろうか。
そんな悩みに答えが出ないからこそ、光った「気がした」にとどまったのだと思います。キラキラと輝く、ノクチルの、あるいは小糸にとっての成果物は見つかるのでしょうか。


ところで本イベントのサポートSSRは、【傍白のあいだ】というタイトルだそうです。私はこのイベントをリアルタイムで経験していませんし、復刻も経験していない上にチケットでの交換にもまだ並んでいないので、このサポートカードについては未読なのですが、タイトルが少し気になりました。
「傍白」って聞き慣れない言葉ですね。新明解国語辞典によると、次のような意味があるそうです。

舞台上の相手には聞こえないことにして、観客にのみ聞かせる形で言うせりふ。

新明解国語辞典第八版

では、このイベントにおける傍白のシーンとは、どこのことなのでしょうか。サポートSSRのコミュを読んだ上で考えた方が良いのは間違いないのですが、一応自分なりに、次のシーンのことなのかなと考えました。
それは、1日目の収録終わり、「消灯後のシーン」です。

消灯後、一人で窓辺に立ってさざなみの音を聞く小糸。
彼女は舞台の下、観客に視線を向けているような状態です。傍白という技法においては、観客に対して語りかける演者ということになるのでしょうか。さざなみを聞いているというのも、「様々な声」を懸命に聞き取ろうとする彼女の立ち位置を現しているように見えますね。

そんな小糸に声をかける浅倉透もまた、アイドルとしての衝動を抱えて走り始めた人物です。
小糸の次にさざなみへの感度は高いのだと思います。一方で、小糸ほど明確に観客を意識してはいません。あくまでも見ているのは小糸であって、傍白が行われるシーンにおいては、語り部でないにしろシーンの中心人物ではあるといったところでしょうか。

それに対して、さざなみを聞こうと思えば聞くことができるが、部屋の中にいた樋口円香は、意識的に「数多の声」から距離をとろうとしているように見えます。大勢からの意見は、全く無視してしまうのも考え物ですが、あまりどれもこれも真に受けてしまうのも、また考え物だったりします。
そんな「見る/見られる」という関係の危うさを、よく理解している彼女らしいスタンスの取り方だと思います。

最後に雛菜は眠っています。
翌日の描写を見るに狸寝入りの可能性もゼロではありませんが、雛菜は意図的にさざなみを聞かない、聞く必要がないスタンスで走り始めた人物なので、唯一さざなみを聞いていないというのは自然に見えますね。
一方で勘違いして欲しくないのは、彼女は人の意見をシャットアウトしたり、どうでも良いと思っているような人ではないと言うことです。GRAD編でも書いたように、彼女はファンのことをとてもよく考えていると思います。ただ、あくまで彼女のスタンスは「自分起点」ですので、こうした態度になるのだと思います。
人の意見を意図的に取捨選択するのが上手い、彼女らしい夜の過ごし方と言えるかもしれませんね。

終盤の台詞にも、そんなイズムが現れている気がします

こうして4人がどのように夜を過ごしているのかを見ると、傍白というワードも意外に突飛でないことが分かります。

こう考えてからイベントイラストを見ると、「小糸だけがカメラ(観客)目線」になっているという点も非常に味わい深く感じられるのではないでしょうか。

鳥が四羽飛んでるのも好き

④雛菜と小糸

ここまで振り返ってきたように、小糸は成長について悩んできました。では、本シナリオではどのような着地が描かれるのでしょうか。
キーパーソンとなったのは雛菜です。


雛菜のアイドルとしてのスタンスは、「雛菜の楽しいを通してファンを楽しませる」というものです。本シナリオにおける小糸の悩み、「求められている姿にどうやったら成長できるか」とは、ある意味正反対であると言えるでしょう。
もとより対照的な考え方を持つ人物として描かれてきた小糸と雛菜ですが、ここでもやはり、対比的に描かれていることが分かると思います。

悩む小糸への、雛菜のアドバイスは、「順番を逆にする」というものでした。「みんなが求めるもの」ということからスタートして変化するのではなく、「自分がこんな風になりたい」からスタートする、というものです。

キーポイントは、このアドバイスが長期視点に立っているということです。

その場で求められたものに応えるというのは、瞬間の輝きですね。小糸はずっと、「この番組をおもしろくする」「今この瞬間求められているものはなんだろう」ということに頭を悩ませてきました。
一方で、自分がこうなっていきたいというのは、同じモノをゴールにしていたとしても、長期的な生き方の問題です。求められるものに対処する瞬間の話ではなく、求められる姿に向かって自分が変化していく。この番組の「次」を見据えるような姿勢です。

雛菜のアドバイスが刹那的なものではなく、長期視点に立っているというのは、それだけで彼女の成長を感じられて感慨深いですね!

このエピソードのラストで小糸は、求められる自分になるための「次」、自分として求められるものになるための「次」を求めます。
この姿勢はとても重要だと思っていて、雛菜WINGでも書いたような「瞬間的な輝きの先も生きていく」という大切なテーマに繋がっている気がするんですよね。

⑤ノクチル、これからの戦い

番組に出演している時点で、ノクチルは輝かなければなりません。それがアイドルというものです。これからアイドルとして活動していく以上、そうした姿勢が求められるのは不可避でしょう。浅倉のGRADでも書いたように、「さあ輝いて見せろ」と捕食(消費)しようとするのは業界の常なのかもしれません。
一方で、どうやって輝くのかは、自分たちで選ぶことができます。
本シナリオが提示したのは、そんな、「これからのノクチルの戦い」なのではないかと私は感じました。

自分たちで選ぶ輝き方。それを象徴するのが「みんなの意見を取り入れた番組」ではないかと思います。
アイドルであると同時に、彼女たちは彼女たち。
凡庸なさざなみの音に歪められてしまうのではなく、彼女たちのまま輝いていくのがシャニマスが是としている「アイドル像」ではないでしょうか。
シーズのシナリオでも同様のテーマが描かれていると思っていて、だからやはり、これはシャニマスの根っこの部分なのかもしれません。


それはそれとして、頑張ったノクチルにはジュースおごり!

ここではプロデューサーから、みんな頑張ったのでジュースおごりです。

ここではみんなから、小糸は凄く頑張っていたので、ジュースおごりです。

そんな、「いつも通りの幼馴染み4人」が廊下を走る。
彼女たちのこれからを期待させるラストではないでしょうか。


7.LandingPoint

◇浅倉透

言語化が大変なシナリオが来てしまいましたね……。
浅倉透LPには様々な要素、キーワードが登場しますが、最終的な結論としては「浅倉透の敗北」を描いていると私は認識しています。とはいえその一言にはまとめられないくらい、沢山のキーポイントが出てきたと思うので、振り返っていきましょう!

①不可逆の変化

本シナリオの重要なテーマの一つとして、「変化」というものがあったと思います。そして、そんな不可逆の変化の象徴として、様々なものが登場しますね。

物語冒頭

「ポップコーンがしなしなになる」「コーラが缶になる」「ベンダー(自販機のことですかね?)が止まる」という、映画館が廃業する前兆が淡々と述べられ、そして「そこからはあっという間」と浅倉は締めくくりました。
物語冒頭なので、ここの時点ではこのシーンがどのような意味を持つのかは分かりませんが、のちにそれが「浅倉にとってのオアシス・映画館」がなくなってしまう、という不可逆の変化を象徴していることが分かります。
どあたまにそんなシーンを持ってきているあたり、やはり「変化」が重要なテーマとして置かれているような気がしますね。

浅倉をイメージタレントとして起用した、ゼネコンのキャッチコピー
「街はつづく、人生みたいに」というフレーズにも、不可逆の変化が織り込まれていることが分かります。クライアント企業が街の開発をてがけることを、変化しながら続いていく人生に例えたフレーズですね。
また、浅倉をモデルとして起用したのも、彼女の姿を通して「未来」を表現したかったから、だそうです。ほうほう。

さらに、大手ゼネコンの看板を背負う仕事というのは、それ自体が不可逆の変化をもたらすほど大きな仕事です。「写真に撮られるだけの仕事でしょ?」と気楽な浅倉とは対照的に、プロデューサーはこの仕事に対して及び腰なところがありました。

プロデューサーがこうした後ろ向きな姿勢になってしまうのは、無理からぬ事ではあります。当然、この仕事がとても大きなチャンスであると同時に、大きなリスクを孕んでもいることから後ろ向きになっている、という側面はあるでしょう。
ですがそれ以上に、プロデューサーは「単なる少女・浅倉透」を知っているというのも大きいのではないでしょうか。

「毎日が仕事になる」のは、「仕事ではない毎日」があるから。つまり、普通の女の子としての毎日があるからです。
口々に「可能性を秘めたタレント・浅倉透」へ期待を向ける業界人と違って、プロデューサーは等身大の彼女を見つめようとしていました。
この仕事を受けることで、等身大の彼女の人生を台無しにしてしまうかもしれない。だからこそ彼は、大きなチャンスを前に及び腰になってしまうのでしょう。

そして、こんな彼の感情は、樋口GRADで述べた「樋口とプロデューサーは似た者同士説」にも関わってきます。

樋口とプロデューサーは年齢も性別も違いますが、どちらも青臭い熱さを持つ真面目な人物であることは、すでにGRAD編で記したとおりです。
また彼らは、浅倉透に「ただの人間」を見ようとしているという点も似ています。上述の通り、浅倉の才能や舞い込んだチャンスが、彼女の人生を台無しにしてしまうことを恐れているプロデューサーと、「浅倉は特別じゃないから、あえて浅倉のことを見ない」と述懐する樋口は、やはりどこか似通って見えますね。
そんな「浅倉に人間を見ようとしている2人」は、しかしよりによって「浅倉透に途方もない才能を感じている」という点も共通しています。LandingPointのプロデューサーなんかは、まさに顕著ではないでしょうか。

では、そんな似た者同士の二人の決定的な違いってなんだろう?ということが、「天檻」では描かれていたと思っています。覚えていたら書きます(だから覚えておけ)。

そんなこんなで、変化を予感させるところから物語は始まりますね。浅倉も変化を予感しているようです。

ただ、浅倉透には規格外の才能と世界観がありました。それゆえに、変化の予兆は本シナリオでは「爆弾」と重ね合わされることになります。

②浅倉透の才能と、その責任

元ネタの映画があるらしいですね。私は見ていないのでそこへの言及は避けますが、「爆弾」は不可逆の変化をもたらすものとして本シナリオで登場します。
業界人が語るように、浅倉透は自身の人生を一変させかねないほどの「デカい案件を引っ張って」きました。そんなことが出来てしまうのは、彼女がもつ無二の才能が故です。
つまり、彼女の才能は一種の「不可逆の変化をもたらすもの」「爆弾」なのだと思います。

一方で、浅倉は「日常」に生きる、単なる女子高生でもあります。そんな日常の象徴として、本シナリオでは「映画館」が登場しますね(メタファー多過ぎだろ!!)。
映画館は、「映画」という芸能界が主導して創り上げた世界を、着席してスクリーン越しに見るという、とても非業界的な場所です。お茶の間のテレビとかと同じで、芸能人とそれを見る人の間に存在する距離を、強く感じる場所でもあります。だから選ばれたのかもしれませんね。

浅倉はアイドルとして、プロの姿勢を求められています。プロデューサーがSNSの投稿の件で説教していたように、それは今後もずっと求められていくでしょう。それがアイドルというものです。
しかし、日常はてきとうでも良い。

鬼適当な映画館

浅倉にとって映画館の居心地が良かったのは、そこが適当でもいいような日常の空間だったためでしょう。
ただ、浅倉透を求める業界も、ファンも、そして彼女の内側に秘めた衝動も、そんな狭い空間に閉じこもっていることを許しません。

日常の浅倉は、自分の才能(=爆弾)を使えば不可逆の変化をもたらすことができてしまいます。心の中では彼女も、そうした変化に飛び込んでいきたいという衝動があるようにも見えます。

一方で彼女には、それに対する恐ろしさのようなものを抱いている様子も見受けられます。それは、「賠償金」というキーワードが登場することからも分かりますね。

「才能に対する責任」で、浅倉は迷っていました。
アイドルという世界の、もっと深奥へ飛び込んでいきたいという衝動。そうしたとき、何か取り返しのつかない変化をもたらしてしまうのではないかという恐れ。そうしたものがない交ぜになった彼女の姿を、プロデューサーは「窮屈そう」だと表現しています。
だからこそ浅倉は、一人貸し切り状態の映画館(=日常の空間)で、暴力的な衝動に身を任せたのだと思います。

映画館で、大声で叫ぶ浅倉透

暴れたいという彼女の欲求と、それが恐ろしいと思う彼女の理性のせめぎ合いが、暴れても責任をとらなくて良いこの行動に集約されているような気がします。

こんな衝動的な行動に走るところからも分かるように、浅倉透はかなり追い詰められているようです。だから彼女は、プロデューサーに問いかけました。

③一緒に走って欲しい

WINGから一貫して描かれてきた、浅倉透の願いです。
ただ今回は、プロデューサーの中にも迷いがあるばかりに、そして浅倉の抱える才能と世界観が彼には理解しきれないばかりに、濁したような口調になってしまいます。だから浅倉の中にも不満が蓄積されて、最終的には「カレシ」発言に行き着いたのでしょう。

彼女の願いに対し、プロデューサーが上手く返答することができないのは、他ならぬ彼自身が浅倉の抱える才能と、一個人の浅倉の願いとの折り合いをつけられるのかどうか。そして、この先どうなってしまうのかを図りかねているからだと思います。

この仕事を引き受けたら、どうなるのか。浅倉が何を望み、どうなっていくのか。プロデューサーは分からないなりに、一つ一つに向き合っていこうと決めました。理解できないとほっぽり出してもおかしくないのに、アイドルと向き合う姿勢がぶれていないのが良いですね。

そして、そんなプロデューサーなりの寄り添い方が、次の台詞に現れています。

GRADを通じて、「喰う/喰われる」というアイドルの世界で生きていきたいと口にした浅倉は、そうやって輝くということがもたらす責任や変化、不自由のようなものを痛感しました。
そんな彼女は、「浅倉の姿を通して未来を描きたい」というクライアントからの要望、つまるところ「いいパフォーマンスをして見せろ」という捕食行為へ向き合えるのでしょうか。

④「敗北」した浅倉の今後

浅倉にとっての日常の象徴「映画館」という場所が燃やされることで、結果的に彼女は「喰う/喰われる」の世界へ飛び込んで行かざるを得なくなりました。
なぜなら、このシーンで「浅倉の帰ってこられる場所(日常)」が燃やされてしまったからです。
その時の気持ちが怒りなのか、悲しみなのかは分かりません。ただ、彼女は自分の才能の責任と向き合っていく覚悟を決めたのではないでしょうか。
そして、「喰う/喰われる」という世界へ挑んでいく覚悟を決めたのではないかと、私は思います。

ここの浅倉のセリフは、覚悟と同時に悲壮感を覚えて胸が締め付けられます。映画館に来ていた人たちを、「いないかも」と口にする浅倉の感覚は、私たちがテレビ越しのアイドルに「存在しないかも」と感じるようなことでしょうか。
感謝祭で浅倉は、客席から見られていたことと、客席を見ていたことが一緒くたになるほど、自他の境界線が曖昧でした。それがここでは、途方もなく取り返しもつかないほどの距離を、感じてしまっています。
このシーンは、胸が締め付けられるような感覚がありますね。

絶えず誰かから何かを要求される世界。喰うこともあれば、喰われることもある世界。芸能界という異様な世界に、浅倉は捕食者として初めて戦いを挑んだのだと思います。
つまりこの仕事は、彼女にとっての「初戦」でした。

そして同時に、映画館という「帰る場所」を燃やされ、浅倉透の初戦は「彼女の敗北」という形で幕を下ろしました。


そんなこんなで、ファーストバトルは浅倉の敗北に終わったと私は思っているわけですが、しかし浅倉透には無限の可能性、たぐいまれなる才能が秘められています。
業界人やファンが求める以上に、浅倉透もまたステージ、アイドルという立ち位置を求めています。

だから浅倉透のアイドル人生は続いていって、捕食して、輝いて、もっと食べて生きていくのでしょう。
本シナリオのラストは、そんな「今後」を意識させるものになっていました。


浅倉透がどうなっていくのか、とても気になりますね。

◇樋口円香

これまた言語化が大変なシナリオですね……頑張って、話の大筋を捉えていきましょう。
樋口円香LPはお話として、2つの軸が1本に収束していくという構造をとっています。1つ目の軸は当然「樋口円香」ですが、もう1つの軸は他ならぬ「プロデューサー」。本シナリオ最大の特徴は、プロデューサーの存在感が強いことでしょう。

①樋口円香

物語冒頭で、樋口円香は「アイドルとは?」と問いかけます。

こんなフレーズを冒頭に持ってきていることからも分かるように、LandingPointでは「樋口円香がアイドルとどう向き合ってきたのか。そして、これからどう向き合っていくのか」を描いているようです。


ノクチルとしての単独ライブとは別に、プロデューサーから「ソロライブ」の企画を持ちかけられた彼女。そのリアクションから分かるのは、樋口が「思想性が表れることを嫌っている」ということでしょうか。あるいは「表現というものを避けようとしている」とも換言できると思います。
樋口にそうした性質があるということは、GRADまでで描かれてきたと思うので、呑み込みやすいと思います。

このシーンでも、「商業として成立するという判断のもと生み出された企画であるなら、私が判断すべきものではない」という趣旨の発言をしています。これは、自身の思想性が現れるのを嫌ったための表現でしょう。
過度に商業的な正しさを強調した言い回しで、彼女の本心をそこから読み取ることは難しいですね。
プロデューサーも後半で、「円香が自分を表現したくないのはわかっている」と、樋口の考え方を指摘しています。

彼女がそうして「思想性が表れる」ということを嫌っているのは、大前提として「自分のことを薄っぺらい」と考えているためです。
GRADでも描かれたように、彼女は自分が才能や容姿に恵まれているという自覚があり、それゆえに自分のやることは薄っぺらくて軽いと認識していました。

このシーンからもその事実が分かります。
これは、満員電車で運良く座れた彼女が、「途中下車なんてするわけない」と内心呟くシーンです。ここで彼女が言う「いい席」とは、自分が持って生まれた才能や容姿のことでしょう。
シーンの内容を要約すれば、「才能を持って生まれた自分が、それを棒に振るような冒険的な生き方をするはずがない、と内心思う」といったところでしょうか。
やはり彼女には、「自分は恵まれている」という自覚があると分かります。そして同時に、「自分が途中下車をしたいと思っているはずがない」と考えているという点も興味深いですね。これは、本シナリオの終盤の展開に繋がっていくと思います。(寄り道先が「海」というのも意味深でおもしろいですね)

そんなわけで樋口は、自分が恵まれていて、それ故に薄っぺらい人間だと思っているようです。
だから彼女は、「自分が何かを表現することは出来ない」「誰かのために歌うことはない」と繰り返し口にしてきたのでしょう。薄っぺらい自分には、誰かへ語りかける言葉などないのだと考えているのだと思います。

そんな樋口が「思想性が表れることを嫌う」のは自然だと思います。
願いが込められた歌を樋口が表現することによって、薄っぺらな自分の人間性と誰かの純粋な想いとが混ざり合ってしまって、想いそのものを台無しにしてしまうと感じているのでしょう。そしてそれは、胸に秘めた自分の想いも同様です。言葉にすることで、恵まれていて重みのない自分と混ざり合い、説得力を失ってしまう。
樋口は自分の想いと、そして他人の想いをとても大切にしている節があります。だからこそ、「己」のようなものが表に出ることによって、自分や他人の想いとそれが混じり合って、本来持っていた想いの美しさや切実さをねじ曲げてしまうことが許せないのだと思います。
それに、ねじ曲がって受け取られた誰かの「想い」は、それが本来持っていた切実さとは全く別種のものとして消費されてしまいかねません。
だから彼女は、言葉の節々に自身の思想性が表れることを嫌っているのではないでしょうか。

また、樋口は「見る/見られる」という構図に対しても、かなり敏感な人物です。

これもまた、自分と他人という概念を強烈に意識している彼女らしい感覚ではないでしょうか。仕事相手、ファン、そしてプロデューサー……見ている自分と見られている自分というものに敏感なのは、それが「消費」というものと表裏一体だからだと思います。

彼女が表現というものに凄く慎重なのは、そうした考えが反映されたがためかもしれません。


WING編で述べたように、樋口のサインがカタカナなのは、そうした「思想性が表現されないようにする彼女なりの工夫」ではないかと、私は思っています。漢字で書くよりも感情がそがれるような印象がありませんか?
また、LandingPoint(と【ピトス・エルピス】)のコミュタイトルが全てローマ字表記になっているのも、そうした「思想性がそぎ落とされて見えるようにする表現」なのかなと思っています。
「夜に待つ」と書くより、「yoru ni」と書く方が、メッセージ性がそがれて見えませんかね?
そして、もとは単に言葉をアルファベットに置き換えていたのが、それぞれの最終話では英単語として意味を帯びてしまうというのが(「color」「gem」)、そこにどうしようもなく思想が現れてしまうということを表現しているような気がして、さすがにエモいと言わざるを得ません。

ところでこのシーンにも、GRADの節で触れたように「エビ」が登場します。私はエビが、熱されることで色づく樋口円香の暗喩のために登場した食材ではないか、と予想しましたが、そんな観点でもってこのシーンを見ると、ちょっとおもしろい符号があります。
プロデューサーは、「どうしてわざわざ樋口のライブに人が来るのか」ということの説明に、「この店のエビグラタンが食べたいってなるよな」というたとえ話を使っています。

つまり、樋口とエビを重ね合わせて語っているわけですね。そうはいってもこじつけっぽい考察ですが、偶然にしては少しおもしろいと思いませんか?

閑話休題、ここまでで考えてきたように、樋口は「自分が表現する」という行為に対して、強いためらいを抱えています。そんな彼女が、アイドルとどのように向き合っていくのか、が本シナリオの最大の肝ということになりますね。

②プロデューサー

さて、本シナリオではプロデューサーも非常に重要です。

GRADでも書きましたが、「樋口円香とプロデューサーは似た者同士」だと私は思っています。言動こそ全く異なる2人ですが、根っこの部分、大切にしているものや価値観には共通したなにかを持っているのではないでしょうか。
そして、プロデューサー自身もそんな風に感じていると私は思っています。いわば、彼は樋口に対してシンパシーを抱いているわけです。だからこそ彼は下記のように、「(樋口円香のことを)掴めそうな気がしていた」と述懐しているのだと思います。

ここで大切なのが、「プロデューサーが樋口のことを把握しようとしている」という点だと思います。本シナリオにおいてそれほど際立てて描かれてはいませんが、物語冒頭の彼の態度は、終盤になって変化しています。つまり、このシナリオを通してプロデューサーは、「樋口円香を掴み、理解しよう」という考えから新たな考えへと移り変わっていると言うことです。

では、彼はどのように変化していったのでしょうか。
それを考えるのにキーとなるのは、次のシーンだと思います。

テレビ局に出向いたプロデューサーは、スタッフ同士の陰口をきいてしまいます。暑苦しくて鬱陶しい、かつ若くて大役を任されているなんて、完全に私たちの知っている「283のプロデューサー」と重なりますが、そのあとのシーンで、これは全く別のプロデューサーに対する陰口だったと分かります。

俺たちのプロデューサーはだらしなくスーツ着たりしない

何気なくさらりと描かれているシーンですが、私はこのシーンがとても大切だと考えています。

プロデューサーと樋口は、根っこの部分で似た者同士なところがあり、それゆえにプロデューサーは樋口と歩み寄れているんじゃないかという実感を掴みかけています。
一方で、樋口円香はもっと自分とは違う存在であるべきではないか、という感覚が彼の中で生まれたのではないでしょうか。

プロデューサーはスタッフが言うように、「ビシッとスーツが決まった折り目正しい人物」です。それは裏を返せば、「誰かの価値観の中で生きているということ」でもあります。彼はいわば、誰の価値観に照らして見ても不快感のない、「正しい人物」だったわけです。
そしてプロデューサーと同様、樋口円香もまた、他人の価値観に添った言動をすることが出来る人間でした。ソロライブの準備をそつなくこなし、スタッフからの評価も高い。何か悩みを抱えている様子の彼女とも、つつがなく仕事が出来てしまっているのが、その証拠でしょう。

プロデューサーはだからこそ、「自分とは違う」樋口円香を求めたのだと思います。他人の価値観の中で生きない、自由な樋口円香を。

③yoru ni

樋口円香のこの問いかけは、まさに「他人の価値の中」であることがはっきりと現れています。樋口円香は商品として価値がある、その事実を喧伝することは世間的な価値、つまり商業においては正しい。だからソロライブを企画したのだろう。そんな問いかけです。
それに対しプロデューサーは、「円香を自由にしたかった」と答えます。他人の価値の中ではなく、自分の価値観の中で生きていて欲しい。それが、樋口円香の輝き方であって欲しいという願いです。

樋口自身の価値観を表現するという行為は、①でも述べたように樋口が避けてきたことです。表現された時点で、それはありのままではいられない。樋口自身を通り、そして受け手を通って受け止められる時点で、混ざり合って本来の色を失ってしまうことは必至なわけです。
在ったはずの本来の自分が、ねじ曲がって受け止められる。それは、樋口円香が消費されるということに他なりません。
だから彼女は、それを拒絶しました。

このシーンでまず気になるのは、プロデューサーの言動です。
彼は本シナリオ冒頭で、「樋口のことを理解できそうな気がした」と口にしていました。しかし彼は上記シーンの手前で、以下のように「掴もうとしてはいけない」と自身を戒めるようなことを呟いています。なるほど、そこまでなら分かりますが、しかし彼はこの直後に「本当は表現したがっている」というような事を樋口に言っているわけです。

つまり、
①樋口のことを理解できそうだ
②樋口に「誰かの価値観」の中で生きて欲しくない
③樋口を掴もうとしてはいけない
④樋口は表現したがっている。彼女を自由にしたい。

という流れになっているわけですが、③から④へ思考が飛ぶのは少し突飛なような気がしませんか?樋口を掴もうとしてはいけないと考えておきながら、「表現したいと思っている」と考えるのは、掴もうとしているように見えなくもありません。
これは、本シナリオの着地点を踏まえると理解しやすいと思っています。

④『ひとりひとり』の歌

本シナリオの着地点は、「ひとりひとりの価値観を尊重する」というものです。と、こんな表現をすると非常に教育的に聞こえますね。


もともとシンパシーを抱いていた樋口に対し、「他人の価値観の中ではなく、自由に輝いて欲しい」と感じるようになったことから、プロデューサーは樋口を「掴もうと(理解しようと)」はしなくなりました。
それは、自分と同一かもしれない存在として樋口を見るのではなく、途轍もない可能性を持った存在として今一度向き直るということです。
では、どうしてそんな彼は「表現したいと思っている」と口に出したのでしょうか。

それは、プロデューサーがプロデューサー自身の想いを尊重することに決めたからです。

これは、シナリオ序盤のプロデューサーの述懐です。
樋口が輝きを増す中で、このステージは本当に樋口が望んだものだったのだろうか?樋口を羽ばたかせることの責任を負うことが出来るのだろうか?
彼女の意思を尊重できているのかどうかということを、彼は常に考えていました。思えば彼は常に、アイドルの願いや想いに寄り添おうと尽力してきましたね。そんな彼らしい悩みでしょう。

ところが「yoru ni」のワンシーンで、彼は樋口円香に「勝手に助ける」と言い放ちます。樋口がたとえ願っていないと口に出したとしても、彼女を絶対に溺れさせることはない。折り目正しく、他人の価値観の中に生きていたプロデューサーとは思えないほど、エゴイスティックな言動です。
彼は、自分の価値観を尊重すると決めたのだと思います。

「勝手に助ける」というのは、そんな彼の決意の表れでした。
このシーンでは、プロデューサーというキャラクターの大きな成長が描かれていると思います。狂気じみたまでにアイドル達の気持ちを尊重し、正しくあろうとする彼が、彼の願いを誰かに押しつける。正しさからは外れますが、これは大きな一歩ではないでしょうか。
そして彼は、続けてこう言います。

「樋口円香が、樋口円香の価値観を尊重する」
「円香のための円香でいる」

他人の価値観の中ではなく、自分の価値観の中で自由に輝く彼女を、プロデューサーは願いました。それを受け、樋口はこう締めくくります。


そんな樋口円香もまた、「それぞれの価値観を尊重する」という場所に着地することになります。
まず彼女は「自分自身の衝動」を肯定しました。表現するということを厭い、商品然として振る舞おうとした彼女が、自分の心の中にある「歌いたい」という衝動を肯定したのです。これはプロデューサー同様、とても大きな一歩ではないでしょうか。

そして同時に、彼女は「表現を受け取るそれぞれの価値観」を肯定しました。
樋口円香が歌ったものは受け手ひとりひとりの心を通して響く。当初の彼女は、それを経ることでねじ曲げられ、消費されてしまうことを恐れていました。しかしだからこそ、それは樋口円香の歌ではなく「あなたの歌」なのだと、彼女は言います。
樋口円香が出した「表現」に対する一つの結論は、驚くほど彼女らしいものでした。

樋口の着地点となるこのメッセージは、終盤のスタッフのセリフからも感じることが出来ます。
そもそも樋口は、「色は、混ざれば濁る」とこぼしています。
これは、ここまで述べてきた樋口の考え方を端的に示していますね。表現が誰かによって受け止められ、受け手の価値観と混ざり合ってしまうことによって、ありのままの姿は消え失せる。好き勝手に消費されてしまう。濁った色になってしまうということでしょう。

しかし樋口は、本シナリオラストで他者の存在を肯定しましたね。
自分自身が受け手それぞれによってねじ曲げられるのではなく、自分は自分で他人は他人、それぞれの価値観を通して響く「あなたの歌」を、彼女は歌うことに決めました。自分自身が抱える、歌いたいという衝動を肯定すると共に。
他者の存在を肯定し、それぞれの価値観と混ざり合うことを受け入れる。
それが、「光が混ざる」という言葉に集約されている
ような気がします。
本シナリオで彼女が掴んだものは、混ざり合っても濁らない、樋口円香の持つ本物の輝きだったのかもしれません。

物語は、樋口がこう語って締めくくられます。

これに続く言葉が何かは分かりません。ですが、「それを聞きたいと集まった人がいることを、私は受け入れた」というような意味のセリフではないかと、私には思えます。
「アイドルとはなにか?」
そんな問いかけから始まった物語でしたが、樋口円香が示した彼女自身の姿に心動かされる。そんなシナリオだったと思います。


「自他の境界線が曖昧」なあまり自我が薄かった浅倉透と、
「自他の境界を強烈に意識する」あまり自分自身を見つめようとしなかった樋口円香
全く対照的な二人が、共通して「自分」というものを見つけ出すさまを描いているシナリオでしたね。二人のLPは対になっているのかもしれません。

◇福丸小糸

と、ここまで冗談みたいに言語化が大変だった浅倉、樋口のLandingPointでしたが、続きましては福丸小糸のLandingPointです。センセーショナルさは前二人に譲りますが、こちらも染みる良いシナリオになっています。

本シナリオで描かれたものは、「理想家・福丸小糸の着地点」でした。まさにLandingPoint(着地点)といったところでしょうか。

①小糸の理想

WINGから一貫して、福丸小糸は理想家であるということが描かれてきました。そして同時に、抱いた理想が大きすぎて達成する手段が分からず、悩む姿も。
そんな彼女は物語冒頭に、母親に嘘をつきます。

三者面談が終わったあと、小糸は「事務所に行かなきゃいけないから」と母親に告げて一人帰路を急ぎます。しかし、事務所にいたプロデューサーは、どうして事務所に立ち寄ったのかと首をひねりました。小糸はわざわざ、嘘をついて母親との帰宅を避けたわけです。
どうしてそんなことをしたのか、それは直後に語られます。

「求められている通りでいないと、ここに居ちゃいけない気がする」

母親に嘘をついた理由は、おそらくこれです。
小糸は、アイドル活動をしているという事実に対して後ろめたさを感じているのだと思います。ただでさえ親に嘘をついてはじめたアイドル活動ですし、そういった活動を認めてくれるような親ではないのでしょう。親心を思えばそれも当然ですが、そこに小糸の居心地の悪さが生まれてしまいました。

三者面談で進路選択の話が出てきたことによって、「今の自分は母親が求めるいい子ではないんじゃないか」という気持ちが膨らんだのだと思います。いい大学に入るために勉強に専念すべきで、そうするのが「いい子」なのに、自分はアイドル活動にかまけている。そう思われているのではないかと考えてしまったのでしょう。
だから、「求められている通りでないから、ここに居ちゃいけない気がした」のだと思います。
次のシーンでも、同様の事が描かれています。

小糸の妹、登場!

「家で全然そういう話しない」のも、アイドル活動が後ろめたいからでしょう。妹があっけらかんとしている一方で、小糸母は小糸同様に黙するタイプのような印象があるので、小糸はお母さん似なんでしょうね。

こうした、「求められている通りでいないと、ここに居ちゃいけない気がする」という小糸の気持ちは、アイドル活動自体にも表れています。
ワンマンライブに向けてレッスンを重ねる小糸も、自分を奮い立たせるようにこう言っています。

「みんなの期待に応える」ことを目指して努力する、根っからの理想家だと思います

イベント「さざなみ~」でも描かれたように、小糸は「求められるものを提供しなければいけない」という強迫観念じみた感覚を持っているようです。
同イベントでは「求められるものを提供するにはどうすればいいのか」という瞬間瞬間の問題を、「みんなが求める小糸になりたいと、自分が思うようになればいい」という姿勢の問題に転換することで、小糸が「みんなが求める小糸になるための次」を求めるようになりました。
これは小糸にとっての大きな一歩ではありますが、しかし小糸のアイドルとしてのスタンスはまだ着地を見ていません。彼女は「次」を目指すようになりましたが、彼女の悩み自体がなくなったわけではありませんね。

そんなわけで小糸は、「求められる姿で居る」という理想を掲げているようです。そして、そうでなければここに居てはいけない気がするとまで語っています。
悲観的な理想家っぷりが、こうしたところにも現れていますね。

②どうしてそうするのか

ライブの準備でアルバムをめくることになった小糸。自然と小さかった頃のことを思い出します。
そこで彼女は、「どうしてお母さんにとってのいい子でいようと思ったのか」ということを思い出しました。それはすなわち、彼女のアイドルとしての基本姿勢が「理想や求めに応えないといけない」というものになった、直接のきっかけということでもあります。

ここで着眼すべきポイントは、「褒めてもらいたかっただけなのかも」という小糸の発言だと思います。
この発言の重要ポイントは、福丸小糸がここにきて初めて、「純粋な自分の欲求」と向き合っているという点です。

WINGや感謝祭などでは、「ファンのみんなに居場所をつくってあげられるようなアイドルになりたい」という理想を抱き、自分なりにファンと向き合う姿が描かれてきました。
一方GRADでは、「どうやったらそんなアイドルになれるんだ?」という、手段の問題に直面することになります。
だからこそ小糸は「さざなみはいつも凡庸な音がする」にて、手段が分からないなりに要求される「おもしろい」を形にしようともがいていました。
雛菜の指摘から、そこに「“自分”が求められるものになってゆく」という視点が欠けていることに気づき、「求められているものになるために、次に向かって"自分”が成長する」という姿勢へ転換するところでイベントは終わっていました。

ここまでの物語に、「小糸の純粋な欲求」はあまり描かれてきませんでした。
「お母さんにとってのいい子でいなければ」という小糸のオリジンは、幼い頃の話とはいえ今でもアイドル活動の根っこに繋がっています。①でも考えてきたとおり、だからこそ小糸は母親に対して後ろめたさを感じているわけですし、アイドルとして求められる姿でいたいと考えているわけですね。
しかし、さらにその根っこには、「褒められたかっただけ」という純粋な欲求が秘められていました。

「理想の姿にどうやったらなれるのか?」ではなく、「自分を、理想の姿にするにはどうすればいいのか?」というさざなみで描かれたことが、福丸小糸の着地点として再び提示されることになります。
とても大きな理想に対し、現実とのギャップで苦しんできた小糸ですが、ここで遂に、小糸の願い、小糸の欲求がスタート地点にあるのだということを受け入れたのではないでしょうか。

それが、アイドルであり理想家でもある福丸小糸の、着地点です。

私は、シーズのシナリオに登場するテーマと同様のものを、小糸のシナリオにも感じることがあります(テイストこそ全く違いますが)。
それは、「パフォーマンスのために極限まで自分をそぎ落として、創り上げたアイドル(としての自分)」ではなく、「ステージが終わったあとも生きていく、連続性のある存在としての自分」を掴むまでのお話である、という点です。
美琴が当初「死んだっていいの」と言っていたのは、彼女には創り上げたアイドルとしての自分しかなく、一方で「ここで生きていくために」と連続性を受け入れたGRADのシナリオがあったからこそ、「セヴン#ス」の結末が導き出されたと思っています。

急にシーズの話をしてすみません。
小糸も少しだけ似たような欠落を抱えていると思っていて、求められる理想の自分であろうとするあまり、努力する姿を人には見せたがらず、虚勢を張ろうとする小糸は、上記の美琴と重なるところがあると思います。
つまり、理想(美琴が言うところのステージ、一瞬の輝き)の中に生きようとしているわけです。
一方で、ステージのような瞬間の輝きではなく、続いていく命の尊さをシャニマスは描こうとしているんじゃないかと感じることがあって、本シナリオの小糸は自身の欲求を肯定することを通して、自分自身を肯定することが出来ました。

今の自分を受け入れることは、最初期の彼女では難しかったかもしれません。

プロデューサーのセリフもとても好きです。

GRADで述べたことの繰り返しになってしまいますが、やはりプロデューサーは、福丸小糸の世界観において少しだけ特別な人物だと思っています。
彼はファン第1号であると同時に、無二のプロデューサーでもある。対等に歩んでゆく相棒なわけです。GRADではそうした、同じ目線に立った人物であるという事実をプロデューサーがすっかり忘れてしまっていたせいで、ディスコミュニケーションが発生してしまいました。
そんな彼が「プロデューサー特権」と口にするのは、だからこそ意味があると思います。

また、福丸小糸LandingPointはラストシーンの美しさが随一です。
ここまで述べてきたような、自分自身を肯定して、連続性のあるこれからへと進んでゆく物語を、華麗に総括してくれます。

まさにLandingPoint(着地点)

ありがとう、小糸。

◇市川雛菜

雛菜LandingPointです。本シナリオも小糸と同様、市川雛菜の着地点を描いた名シナリオとなっています。彼女がどのような着地を見せてくれるのか、非常に楽しみですね!

まずは、ここまでの雛菜を振り返ってみましょう。
WINGや感謝祭では、彼女の抱えた「無常観」が描かれていました。楽しいことは終わってしまう。だから目いっぱい楽しむ。そんな彼女の世界観は素敵である一方で、万事終わっていくものの連続という切ない考え方でもある。ここまでのnoteではそんな風に考えてきました。
続くGRADや「さざなみはいつも凡庸な音がする」では、そうした刹那のお話ではなく、連続性のある価値観「市川雛菜であり続ける」ということが提示されましたね。
そして、そんな彼女の価値観をファンのみんなに伝えようという、雛菜のアイドルスタンスも示されました。

つまり雛菜はこれまでの物語を経て、
そもそも持っていた「無常観」と、
変化していく中で掴んだ「連続性のある価値観」の両方を持っている、
ということが分かります。
そんな雛菜の「成長の集大成」となるのが、LandingPointだと思います。

①過去を振り返る

言い回しが雛菜っぽいですね

GRADシナリオにも登場した男性アイドル「トール」が、アイドルを卒業して新たなステージへ活躍の場を広げる、というニュースが舞い込んできました。それをきっかけに、雛菜は一つの疑問を抱きます。
それは、「アイドルは辞めたら、何になるんだろう?」ということです。
本シナリオは、雛菜がこれに対する答えを出すまでが描かれます(この構図、GRADでも見たな?)。

それに対し、プロデューサーはこう訊ね返します。
「雛菜は何になりたいんだ?」

それでは、雛菜はこの「アイドルでなくなったら何になるんだろう」「雛菜は一体何になりたいんだ?」という2つの問いかけに対し、どのような答えを示すのでしょうか。


本シナリオのキーポイントは、「過去を振り返る」という行為だと思っています。

小糸LPで出てきた「幼少期の写真を用いる」というライブ演出が、雛菜発案であったことが明かされました。言うまでもなくこれは、小糸LPでも「過去を振り返る行為の象徴」として扱われているように、雛菜LPでも同様の象徴として登場します。
他にも本シナリオでは、「過去の資料から何かを得ようとする」という描写が何度か登場していますね。

事務所の資料からライブ演出のヒントを得ようとする
知りたいことをネット(アーカイブ)から探そうとする
「プロデューサーの経験」からも学ぼうとしている

このような過去の記録を参考にするという行為も、「過去を振り返る」というキーワードに収斂します。
そもそも雛菜のこういった行動は、感謝祭シナリオの「しあわせなものはとっておけないから、写真に撮っておくの」という発言や、GRADでインタビューを見返そうと発言するシーンなどにすでに現れています。こうした行動は、彼女の通常運転なのでしょう。

それではなぜ、本シナリオで「過去を振り返る」という行為が特別な意味を持っていたのでしょうか。

その理由を私は、本シナリオが「終わり」に対する雛菜なりの価値観を示す物語だったからだと思っています。
「アイドルでなくなったら何になるんだろう?」という冒頭の問いがまさに「(アイドルの)終わり」について考えるものですし、そもそも雛菜の持つ無常観は物事の終わりと、切っても切り離せないものです。

雛菜はGRADの中で、大切なものの名前には「夢」や「アイドル」といった「いつか終わってしまうもの」の名前ではなく、ずっと続いていく「市川雛菜」という名前をつけたいと語りました。
まさに、雛菜が示して見せた「連続性のある価値観」(妙な造語を連発してすみません)を体現するセリフだったと思います。

一方で、「市川雛菜」は何も終わらずにずっと続いていくのか?というと、そうではありませんね。「市川雛菜」という存在はすでに、小学生でなくなったり中学生でなくなったりといった、終わりを経験しています。
これから先も彼女は、いつか高校生でなくなり、いつかノクチルでもなくなる。
いくつもの「終わり」が、「市川雛菜」という存在に内包されている
わけです。

「過去を振り返る」という行為を通して、雛菜はそうした「これまでに終わってきたものと、自分がその時どう感じてきたか」ということについて、改めて考えることになったのではないでしょうか。
そして、自分の在り方を再認識するに至ったのだと思います。

人は自分の中の様々な価値観を、それぞれ独立して持っているということはあまりないですよね。正反対だったり、無関係のように見えていても、実はそれぞれが影響し合っていることがほとんどだと思います。
そうして、人は複雑な価値観を形成しています。

それは当然、市川雛菜とて同じだと私は思います。
彼女が持っていた「無常観」と、アイドル活動を通して示すようになった「連続性のある価値観」。全く別々のように見えるそれぞれの価値観が影響し合うことで、本シナリオではより雛菜らしい着地点を示すことになりました。
そして同時に、「アイドルでなくなったら」「雛菜はなにになりたいのか」という2つの問いに対するアンサーにもなります。

②無常観の先

「雛菜は、何になりたいんだ?」
というプロデューサーの問いかけに対し、雛菜はまずこんな風に答えています。「やりたいことは今やれば良いから、将来やりたいことってあんまりないかも」。こうした言い回しは、無常観を強く抱いていた頃の彼女を強く連想させますね。
ところが、こう続きます。

「何からやるかを考える」

このセリフは、(ここまで画像引用していませんでしたが)本シナリオで度々登場する「やりたいことならありすぎるほどある!」というパンチラインに紐付いたものです。
「何からやるかを考える」というセリフの意味を理解するにあたって、この「やりたいことなら~」というセリフは極めて重要な位置づけにあると思います。

こことか、ラストでも言ってますね

やりたいことは今やればいいから、将来なりたいものはない。
雛菜はそう口にしています。
一方で、今この瞬間ではとても消化しきれないほど、彼女にはやりたいことが山積みでした。
ノクチルでしかできないことは、ノクチルでいられるうちに。
高校生でしかできないことは、高校生でいられるうちに。
そうやって、「何からやるかを考える」必要があるくらいに。

つまり雛菜は、「なりたいものはない」と口にしている一方で、ずっとずっと先のことを見つめてもいるのです。
今やりたいと思っていること。
これから知ったり思いついたりすること。
有限の時間を目いっぱい使っても足りないくらい、彼女の世界にはやりたくて楽しくてしあわせなことが、満ちあふれています。
「将来なりたいもの」はなくとも、「将来に渡ってずっとやりたいこと」なら、彼女には「ありすぎるほどある」のです。

「ステージに立つこと。演出を考えること。今やっているし、これからもやりたいでしょ?」に続くセリフです。雛菜には無限の「やりたいこと」が待っていると分かるセリフですね。

「アイドルでなくなったら何になる?」
「いつか高校生でも、アイドルでもない雛菜になる。そしたら雛菜は、なにになりたい?」
そんな、「いつかやってくる終わりの瞬間」に対し、雛菜は次のような結論を出しています。

WINGのラストで雛菜が語っていたように、彼女の無常観と、それに端を発する享楽的な振る舞いというのは変わりませんでした。
きっと彼女はこれからも、終わりを見つめるが故に「瞬間のしあわせ」を楽しむのだと思います。

一方で、終わりの瞬間まで「楽しかったな~」と振り返る暇もないくらい、彼女にはやりたいことがみつかりました。とても消化しきれないほど膨大なやりたいこと。
そこには当然、アイドルになったからこそ見つかったやりたいことも沢山含まれています。

市川雛菜はいつかは高校生でなくなって、そしてアイドルでもなくなります。それはまさに「終わり」にほかなりません。
けれど、それは単に終わるという事実にはとどまらないと思います。
彼女が抱える膨大な好きなもの、やりたいこと。アイドルになったから知ったこともあれば、未来の雛菜が見つけ出す未知のやりたいことだって、きっとまだまだ待ち受けている。
終わってしまうとしても、続いていきます。

いくつもの「終わり」を内包した市川雛菜が、「市川雛菜」であり続けるというのはどういうことなのか。
このシーンで彼女が示したのは、好きなもの、やりたいことを増やしていきながら、何もかも全てが終わってしまうその瞬間まで楽しくしあわせで居続けるということでした。それが、「市川雛菜」であり続けるということなのでしょう。

感謝祭時点では懐かしむために写真を撮っていた彼女が、LPでは「ステージを良くするヒントを探すために」、つまり「次のために」過去を振り返っていたのがまさに象徴的です。

これが、市川雛菜が示した着地点でした。

WING、GRADでも登場した「もうちょっとで本番」というセリフが、ここで再び登場することからも、「雛菜のこれまでとこれから」を強く予感させますね!

雛菜とプロデューサーが提示した「これから」

終わってしまうことは、残念なことではありません。
これから先も、ありすぎるくらいに彼女たちにはやりたいことがあります。ノクチルでいるうちにだってまだまだやりたいことはあって、だからこの先何度もステージに立つことになるでしょう。

だから、寂しい物語ではありません。
しあわせな物語なのだと思います。

GRADで雛菜が語っていたように、ファンの中には雛菜のオーディションの結果ひとつに一喜一憂する人、「雛菜がしあわせの全部」というような人がいるかもしれません。
そんな人にとって、「市川雛菜がノクチルでなくなったら」という想像は、それだけで胸が締め付けられるような寂しい想像です。そう、今の私がとても寂しい気持ちになっているのと同じように。
けれど、雛菜はアイドルとして、雛菜のしあわせを伝えてくれます。
だから私も、この雛菜LandingPointをしあわせな物語だと受け止め、しあわせでいられます。

ノクチルでなくなった雛菜を見て、ノクチルだった頃の雛菜を思い出すなんて暇がないくらい、彼女はこれからも進み続けるのでしょう。

そんな彼女が眩しいと、心の底から思います。


ありがとう、雛菜。

8.#283をひろげよう

新年を迎えるにあたり、
気持ちも新たにさらなる飛躍を目指す
283プロダクションの一同

『アイドルたちの輝きを
もっと多くの人に届け、広めたい』

そんな想いから、
ひとつのプロジェクトが始動する――

『#283をひろげよう』あらすじより

『#283をひろげよう』はノクチルのイベントシナリオではなく、ユニット越境イベントとなっております。
ノクチルが登場する越境イベントといえば、『アジェンダ283』『明るい部屋』『#283をひろげよう』『線たちの12月』などがありますが、その中でも『#283』と『線たち』は分割越境であり、ノクチルメンバーの活躍が非常に重要となっております。
『線たちの12月』についてはすでに一本、別のnoteを書いておりますので、よければご参照ください。

そんなわけで、特に雛菜が物語の主軸となる『#283をひろげよう』について、簡単にではありますが考えていきましょう。


283プロでは、アンティーカが頭一つ抜けて売れっ子みたいですね。
シナリオ冒頭では街頭看板を、後半ではシール付きチョコ菓子が販売されているのを、雛菜は見つけています。
樹里と千雪の会話でもアンティーカの多忙っぷりが滲んでいました。

一方で、雛菜は自分たちのレッスンを「なんの為でもないレッスン」だと表現しました。音楽番組に向けて練習時間を捻出したいストレイライトに、レッスン場を譲って欲しいとプロデューサーに持ちかけられた彼女は、こんな風に口にしています。

彼女がこんな風に考えるのは、他人を見て羨ましがったり悔しがったりというような感情が、あまりないからでしょう。
P-SSR【TRICK☆☆☆】の1コミュ目でも触れられていましたが、雛菜には「誰かのようになりたい」という感覚があまりありません。人は人、自分は自分と割り切った考え方をしているためでしょう。
実際、LandingPointでは「自分が」楽しくしあわせでいること、「ファンが自ら」楽しくしあわせでいることを提示していますね。そこに、「誰か」の存在はあまり想定されていません。

本シナリオでは、そんな市川雛菜の「誰かを羨ましがる」という感情に対する気づきが描かれていたように思います。

そのきっかけとなるのは、『#283をひろげよう』プロジェクトのもう一人の中心メンバー・八宮めぐるです。
雛菜はめぐると行動を共にする中で、めぐるの考え方に驚かされることになります。まずは、上のシーンに続くめぐるの反応。

他にも、音楽番組の見学に参加した際のやりとりが象徴的ですね。
番組で輝いているストレイライトを見て、めぐるは思わず「いいなぁ…!」と漏らします。雛菜はそんな彼女に対し、「イルミネだってこういう音楽番組出たことあるんじゃないですか?」と意外そうに問いかけました。
めぐるはこう返します。

このあとのシーンでも、千雪が同様に「悔しい」と口にしますね

ここで重要なのは、これが八宮めぐるの発言という点だと思います。

私は市川雛菜と八宮めぐるには似ているところがある思っていまして、というのもこの2人は、「自分と他人の違いに意識的である」という点が共通しています。
雛菜は、WINGから通じて「雛菜は雛菜だよ(他の人のことは分からない)」という旨の発言をしていることから、自他の違いに意識的であることは分かりやすいと思います。
自分と他人の違いにかなり自覚的であり、だからこそ「他人を羨ましがる」という感覚も持ち合わせていないのでしょう。
対するめぐるも、自他の違いに敏感です。超人気カード【チエルアルコは流星の】やLandingPointシナリオなどを筆頭に、「自分と他人は違う存在」であること、そして「どこまで近づいてもいいのか」という彼女の悩みが描かれてきました。

そんな「自他の違いに意識的」な2人であるにも関わらず、めぐるはまるで他人を羨むような発言をしています。だからこそ、雛菜はこれが意外だったのでしょう。

しかし、めぐるが「(ステージに立っている)ストレイライトになりたい」と考えているわけでないことは、明白でした。
誰かを羨ましいと感じ、自分がそうでないことに悔しい気持ちになる。そんな感情の根っこに「誰かになりたい」という想い以外のものがあるということを、雛菜は気づきます。

看板やシールになっている「アンティーカ」そのものになりたいわけではありません。
そうではなく、同じような舞台に立ち、同じようなチャンスが舞い込んだときに、他ならぬ自分だったらどうなるだろう?自分たちだったらどうするだろう?という、自分始点の話をめぐるはしていました。

他人を羨ましがることがあまりない雛菜でしたが、上記シーンではめぐると似た気持ちになっていることが分かります。
「看板になるのが雛菜だったら、きっとすごくかわいいよね」

だからこそ、ラストシーンの雛菜のセリフにもぐっとくるものがありますね。
他人を羨むわけでもなく、他人になりたいと思うわけでもなく、沢山の「自分だったら」を具体化するために、彼女はレッスンに臨む決意を固めたのでした。

「なんの為でもない練習」と発言した天塵の時から、雛菜の変化を如実に感じられるシーンですね!

9.天檻

どうです、あの獣は捕らえられましたか
――――おお、手に傷が……噛まれたので?
なるほど網を破り、得手勝手に潜航し、大波をたてる……
それじゃ心も休まりますまい
……しかしあなた、もし首尾よく檻に収めたとして
いったいあれらが生きていけますかね

それぞれにソロの仕事も活発化しはじめたノクチル
少女たちにとって、この時間は早く来すぎてしまった将来なのだろうか
それとも遠い先から打ち寄せる、小さな波にすぎないのだろうか

『天檻』あらすじより

そんなわけで、ノクチルのシナリオイベント『天檻』です。
本シナリオには様々な要素が登場し非常に複雑な様相を呈しておりますので、時系列を3つに別けて、どのようなことが描かれているのかを考えていきましょう。

(1)ステージ前

①消費されるノクチル

物語冒頭、ノクチルは業界人が集うパーティーに参加していました。
そんな彼女らはパーティー客から、アイドルとしての戦略の必要性を説かれてしまいます。
見ず知らずの人にされる説教ほど面倒なものはありませんね。
以下のシーンです。

対して他のパーティー参加者は、「いやいやそこがノクチルらしさっしょ」と説教の主をたしなめます。
アイドルとしての戦略性とは無縁の、ただの幼馴染み。ずっと一緒のエモさ。それが「ノクチルらしさ」だと彼らは語るのです。
さらに、ノクチルがプールへ飛び込んでしまう姿を見て、同様の「らしさ」を感じる様子が描かれました。

このシーンで示されているのは、「ノクチルが消費されている」ということだと思います。

パーティー参加者が見ているものは「ノクチルそのもの」ではなく、「俺たちがエモいと思うノクチル」であり、こうあってほしいという願望です。「さざなみはいつも凡庸な音がする」では「さざなみ」と表現されていたものであり、ノクチルを「捕食しようとする側」の姿でもあります。
芸能界のただ中にある彼女らは、こうした「捕食(消費)行為」に絶えず晒されることになります。

また、コミュタイトル「やつらのゲーム」(オープニング)にもそれが現れています。

プールに飛び込むことですっかり場の空気を変えてしまったノクチル。そんな彼女らの姿を見て、「すっかり彼女たちのゲーム」だとパーティー主催者は語りました。
ポイントは、「勝手に勝ち負けのゲームにノクチルを引きずり込んでいる」という点だと思っています。

このシーンも同様の意味を持ちます

さあ輝いてみせろと舞台をセッティングする捕食者と、それを呑み込んでしまうほどの輝きを見せることで逆に舞台を消費する捕食者。
そうした存在が絶えず互いを食い合うのが芸能界だとしたら、そんな世界で「ゲームを主導している」「勝っているやつ」とはつまり、食物連鎖の上位に立つということです。
上のシーンでは、ノクチルを「強者側」だと褒めてくれているのが分かります。

一方で、その根っこには自分たちが持つ「勝ち負けの世界の価値観」を平然と押しつける捕食者の態度がちらついていますね。
そして、「勝ってるやつのにおいがする」から群がる彼らは、ノクチルを強者側だと語りながらノクチルを消費しようともしている。
徹底的に、彼ら業界人は捕食者であり消費者であるということが描かれているように感じます。

それに対して、明確に不快感を示しているのが樋口円香です。
彼女はWINGからLandingPointに至るまで、常に「自他の違い」、「見る/見られる」の関係、そして「消費する/される」について考えてきました。
「ノクチルってやっぱこうじゃなきゃ」という消費行為に対して、彼女に思うところがあるのは当然でしょう。

このシーンでも、「いいよね、ノクチルって」という漠然とした他者からの消費行為に対して、反駁しそうになる姿が描かれています。
さらに、授業の描写にもそれが現れていました。

DNAって、目で見ただけじゃそれと分からないですよね(素人には)。けれど、教師はこれを「DNAだ」と口にします。果たして目に見えているものが、本当にDNAなのか。そう見えているだけで、そう見ようとしているだけなのではないか。
転じて、樋口はこんな風に感じているのではないでしょうか。
「規格外の存在」「幼なじみのエモいノクチル」だと決めつけ、一方的に消費しようとしているだけではないのか。捕食者たちが言うような「本当の姿」などというものは、本当にあるのだろうか。

「DNA発言」は、そうした樋口のもやもやが現れたセリフだと思っています。
後半のシーンでも同様のセリフが確認できますね。

「捕食する/される」というモチーフと、ノクチルらしさというものは、これまでのシナリオでも度々触れられてきました。天檻では遂に、そのテーマに深く切り込んでいくことかが冒頭から分かります。

②学校、サッカー、スカウト

次に印象的なのは、「学校にサッカーのスカウトが来ている」というエピソードです。本筋には絡んでこないわりに、モチーフとして何度も登場しているので、何か意味がありそうですね。
そこで私は、サッカー部周りの描写はノクチルの現在地点を描こうとしているのではないかと考えました。

まず小糸のリアクションから振り返ってみましょう。
彼女はサッカー部の先輩に視線を送ったあと、浅倉がアイドルにスカウトされたあとのことを思い出していました。

スカウトされているサッカーの先輩が、浅倉透と重ねて語られているのだとしたら、このあたりの描写は少し呑み込みやすくなります。

「あの先輩、プロになるのかな」という小糸のセリフのあと、浅倉がスカウトされた時のことを思い出すシーンが挿入されています。きっとそのときの彼女は、浅倉において行かれそうでとても心細かったでしょう。嘘をついてまでアイドルのオーディションを受けに行くくらいですからね。

サッカー部の先輩の姿を見て、小糸は当時のことを思い出します。

置いて行かれないためにアイドルなった小糸でしたが、ここで改めて当時の寄る辺なさを思い出しているようです。
このあとにも触れますが、小糸の中には「プロとして活躍している透ちゃんと、そうではない自分」という構図が存在していて、アイドルにはなったけれどやっぱり置いて行かれそうだ、という心細さを感じているのではないでしょうか。

同時刻。雛菜は体育を受けていました。
サッカー部の先輩(浅倉)に一番近い場所にいるというのが、まずポイントでしょうか。ノクチルメンバーでは消極的な理由でアイドルになった樋口、小糸に対し、浅倉と雛菜は積極的な理由でアイドルになっています。プレイヤーとしての素質も高いですね。だからグラウンドにいるのかもしれません。

それに加えて、「サッカー見たいなら見ればいいのに」とクラスメイトに言い放っています。これは、浅倉と一緒にいたいならいればいい、自分がアイドルになればいいという至極シンプルな動機でアイドルになった、雛菜らしさの滲む描写ではないでしょうか。

一方、樋口円香は授業中です。先述した「DNA発言」のシーンですね。
彼女は、サッカー部の先輩(浅倉)に対する歓声がうるさいほどに聞こえる教室で、「消費」について一人想いをめぐらせていました。
次のシーンから、彼女が現状についてどのような感情を抱いているのかの一片が垣間見えるような気がします。

物語冒頭時点での浅倉は、すでに業界人から注目の的となっています。彼女はそのカリスマを求められ、彼女も自身の才能でそれに応える。
いわば、サッカー部の先輩と同じ「歓声を浴びる存在」なワケです。

一方でそれは、先に述べたように「消費される」ことと表裏一体
浅倉本人は大きく振る舞いを変えたわけではないのに、誰もがこぞって浅倉のカリスマ性を褒めそやしています。みんなが浅倉本人を見ているわけではなく、騒がれているから注目されているにすぎないのかもしれません。
①に紐付けて言うなれば、「浅倉は勝っているやつのにおいがするから」業界人達は騒いでいるのであって、結局はそれも彼ら流の「消費行為」に他ならないでしょう。

だから樋口円香の目には、「サッカー部の先輩」が「騒がれているから騒がれる」という状況に置かれている姿が浅倉透と重なって、感じるところがあったのではないでしょうか。
こうした感情は、先の「DNA発言」にも現れています。
「どうしてお前達が浅倉だと思うものが、そこに存在すると思うのか」
そんな批判めいたニュアンスが滲んだのは、そのためではないでしょうか。

ちなみに浅倉透はこのとき、屋上でサッカーの試合を眺めていました。


学校は、ノクチルにとって日常を象徴する場所です。
本シナリオでは、仕事が忙しい人は学校に来られていない、という描写が何度も登場することから、翻って学校にいる間は「日常の時間」である示されているように感じています。

そうなると、学校にスカウトがやってきているというのも、少し意味合いが強まって見えてきますね。
学校という、日常を象徴するクローズドな空間に、偉い人が品定めに来ている。学校といえど、そこでプレーするのは「まるでオーディションのようだ」と、小糸は語っています。

クローズドで、仕事ではない空間。そこで品定めされる。
これは、ラストのパーティーと同様の構図を持っていることが分かります。ノクチルが呼ばれた、仕事ではないクローズドな場所だけれど、チャンスを掴むことも出来るワイン坊やのパーティー。
どんなステージを見せてくれるんだ浅倉透?という、厳しい消費の目にさらされる空間。

こうした構図の相似からも、サッカー部の先輩が浅倉と重ね合わせて語られているのはあり得なくはないかなと思っています。

そうした、「消費する/される」の世界ですでに戦いを始めている浅倉透に対し、小糸はすごいと語ります。
プロのサッカー選手になる(なろうとしている)先輩と、プロのアイドルとして活躍している浅倉の姿が重なり、それに比べて自分は…と考えているのでしょう。また自分は置いて行かれてしまうのではないか、と不安に駆られているのかもしれません。

ですが浅倉もまた、戦い方を完全に掴んでいるわけではありませんでした。

このセリフから、自分が今どこに立っているのかをはかりかねているのが伝わってくるような気がします。

③天気

中盤あたりの印象的なシーンとして、小糸が昼ご飯を一人で食べるシーンがあります。浅倉と樋口は仕事へ、雛菜は教室で寝ていて、小糸は仕方なく一人でご飯を食べることにしました。
いつもみんなが集まる屋上も雨が降っていて、小糸はみんなへのメッセージを送るべきか逡巡した末、送らないことにします。なんとも心が痛むシーンですね。そういうのはできるだけ遠慮して欲しいね?

このシーンにおいても、「学校が日常の空間」というキーワードが、「天気」というモチーフと共に描かれていると思います。

いつもの屋上が雨でつかえない、というのは、ノクチルのメンバーが今まで通りの日常を送れない状況にあることが示唆されていると思います。少しずつ変化していく彼女たち。その過渡期ともいえる瞬間を切り抜いたシーンですね。

このシーンでは、時間の過ごし方にそれぞれのスタンスが現れているような気がしておもしろいです。特に、仕事先でメイクを受けながら教科書に目を通していた樋口円香が印象的で、仕事をしながらも心のどこかは日常に残しているように見えて、なるほど…となります。

そして、雨が上がるタイミングで、二つの知らせが飛び込んできました。

雨が降りしきる中、未だ「学校」という日常のただ中にいる小糸の元に、オープンキャンパスの仕事がやってきます。事務所ではなく学校に直接届くというのが、小糸の現在地にやってきた変化の機会といった印象を受けますね。
そして同時に、ノクチルの地上波出演のオファーもやってきます。

雨がやむと同時に、小糸にとっての転機が訪れました。こっそり「天気」と「転機」がかかってますがそれは横におくとして、雨がやむというのが変化を象徴しているのは間違いないと思います。
ポイントとなるのは次のシーン。

全国的に晴れになる、との予報を伝えたあとの会話です

「晴れたら、ノクチルのみんなはどこに行きますか?」アナウンサーが雛菜にそう問いかけたときの、彼女の返答です。
「みんな、自分のすきなところへ行く」
雨が上がり、変化が始まり、そしてノクチルはすきなところへと歩き始めます。それぞれに色づきはじめた彼女たちが向かう先は、バラバラな方向なのかもしれません。

では、雨が上がったら小糸はどこへ行くのでしょうか。

あらすじで言うところの「少女たちにとって、この時は早く来すぎてしまった将来なのだろうか」は、こういったシーンで表現されていると私は考えています。

④鎖状時間

ノクチルとしての地上波への出演と、自分個人に来た仕事の依頼。日程が被ってしまっていた2つの仕事を前に、福丸小糸は悩むことになります。
プロデューサーは、小糸が1人のアイドルとして前に進むための機会として、オープンキャンパスの仕事をとても重要なものだと感じている様子です。
しかし小糸は、次のような台詞と共に、オープンキャンパスの仕事を「なかったことに」しようとしました。

小糸は、「みんなで」在ることにこだわりました。
他のみんなは、すでに別々の道を歩もうとしている。だから、ノクチルとしての仕事は「どっちでもいい」と思うんじゃないか。小糸はそんな風に考えているのでしょう。
一方で、小糸の中には「みんなでの仕事」にこだわる気持ちがありました。天塵のラストでも、みんなで行きたいな!と口にしていますし、それが彼女の出発地点だからなおのことでしょう。

小糸はある意味、そうした価値観に囚われている状態となっています。

キーワードになってくるのは、コミュタイトルにもなっている「鎖状時間」(第1話)だと思います。(この小糸のシーンは全然第1話ではありませんけどね…)

「鎖状時間」は、第1話にて登場する「DNA」のことであるのは間違いないでしょう。あまり詳しくは知りませんけど、DNAは鎖状構造だとかなんとか。
ですが意味はそれだけではなく、上記の小糸の感情もまた「鎖状時間」で説明できそうです。バラバラに進んでいく未来ではなく、みんなと繋がった今現在に囚われてしまっている。
鎖はわっか状のものが沢山繋がったもののことを指すので、「何かに囚われている」という状況を表現するためのフレーズが、この「鎖状時間」ではないでしょうか。
すなわち、このシーンの小糸が取り残されている場所が、「鎖状時間」だと思っています。

⑤歌

ワインセラーのオーナーが主催するパーティーで、浅倉透は歌を披露することになりました。彼女は歌の音程を確認するため、樋口にお手本をお願いします。
ここでのやりとりは、ラストシーンの前振りとなっているので、印象に残っている方も多いでしょう。

そんな浅倉透も、本シナリオでは悩む姿が描かれていたように思います。彼女はプロデューサーとの帰路の中、「自分は何を求められているんだろうか」というようなことを口にしました。

出演が控えるクローズドなパーティーには、明確に求められるものがありません。鮮烈な被写体、歌声やダンス、おもしろいトーク。どれを求められるわけでもなく、ただ舞台を用意されるだけです。
「舞台を用意してやるから、さあ輝いて見せろ」という、傲慢な捕食行為。戦いの場所として、これほどの不利局面はありません。
あまりにもふわっとしすぎた大喜利のお題みたいなものでしょうか。

プロデューサーは、「透が感じるものに、透に見えてる世界に興味があるんじゃないか」と応えます。
それでもパーティー主催者側が求めているもののハードルは高いままですが、こうして浅倉に求められた答えを言語化できるのはさすがプロデューサーですね。

しかし、浅倉透にはプロデューサーに対して思うところがあります。

プロデューサーと一緒に走って欲しい。
これは、ずっとはじめから描かれ続けてきたことですね。

芸能界、捕食するされるの世界、あらゆる業界人達は、「浅倉透」に対して様々なことを要求してきます。ともすれば、彼女自身が消費し尽くされてしまいかねないほどに。
それでも浅倉は、「そんな世界で生きていきたい」と決めました。彼女はあらゆるステージ、向けられるカメラの中で、懸命に生きようと頑張っています。

そんな中で、プロデューサーは浅倉透を求めません。
だから彼女は、「出てくれって、言ってよ」と口にしたのではないかと思います。プロデューサーと共に走り、「もっと輝いてくれ透」と求められることを願っていたのかもしれませんね。

⑥枝状未来

雛菜についても触れておこうと思います。
本シナリオでは、かなり目立ちづらいですが雛菜の明確な変化が描かれていました。
例えばこのシーン。

写真を撮るという行為が市川雛菜にとって重要な所作であることは、感謝祭から様々なコミュを通じて、丹念に描かれてきたです。

元々の彼女であれば、写真を撮る理由は「楽しい時間は過ぎ去って、とっておくことができないから」「だから、写真に残し、振り返ることができるように」というものだったように思います。
一方、LandingPointまでの物語を経て、雛菜の中にも変化が生じました。彼女が写真を撮る理由は、懐かしむためではなくなったのです。
終わりの瞬間までが、ずっと楽しいものであるように。
終わりゆくものの為にではなく、続いてゆくものの為に彼女は写真を撮ります。「ツイスタに投稿するためではない」というところから、そんな彼女の現在地を感じられるのではないでしょうか。

また、雛菜の変化がより顕著なのが次のシーン。

これは、「天塵」終盤の台詞をセルフオマージュしたものです。
小糸が浅倉に取り残されるのではないかと不安をこぼしたことに対し「(浅倉は)どんどん行っちゃう」「だから雛菜も行く」と表現していました。浅倉を追いかけてアイドルになった、雛菜らしいセリフだったと思います。

では、なぜ「天檻」では「雛菜もどんどん行くよ」から、「だからすき」という表現に変化しているのでしょうか。

私は、雛菜が「枝状未来」へ歩みを進めているからだと思っています。

ここまで考えてきたように、ノクチルはそれぞれに別々の道を歩み始めようとしています。そんな事実に苦悩していたのは小糸ですが、市川雛菜はそんな現状を理解していたのではないかと思っています。

「天塵」の頃の雛菜は、浅倉透が進んでいく方向へ、自分もどんどん進んでいこうと考えていました。
それが、様々なシナリオや経験を経てそれぞれに色づきはじめ、彼女らの前に交差点が出現します。それぞれが歩んでゆく、枝状に別れた未来。コミュタイトルにも用いられている「枝状未来」(第5話)ですね。
「天檻」での雛菜は、そうした別々の道を進んでゆくノクチルを自覚していた
のではないでしょうか。だから、雛菜と同じ道を行くのではなく、浅倉自身の道を突き進む浅倉透を「すき」だと表現したのだと思っています。

「だからすき」という雛菜のセリフには、彼女の現在時点に対する認識と、覚悟のようなものを感じることが出来ますね。

(2)ステージ

①用意されたステージ

そんなわけで、(1)ではモチーフごとに絞って、ノクチル各メンバーの現在地点を確認してきました。そんな彼女らは、遂にクローズドなパーティーへと参加することになります。
ここでも、樋口円香は「消費」に対する懸念を表していました。

事実、「ワインセラーのオーナー(通称:ワイン坊や)」は、徹底的に消費する側の人間として描かれています。彼(?)はまず、浅倉に食べ物を与えようとしていますね。
LP以後『#283をひろげよう』に至るまで、「空腹」がアイドルとしての渇望と重ねて描かれる場面は多々ありました。浅倉に食べ物を与えようとするのは、彼が浅倉にステージを用意したのと、本質的には全く同じことと言えるかもしれません。

輝いて魅せてよ、という捕食行為に見えますね。

また、ワインを3千本以上保有しているというのは、彼が生粋の捕食者であることを現している気がします。
ワインを卸す事業を行っているとのことなので、全てが自分のコレクションではないのかもしれませんが、沢山のワインを集めて、栓を開ける瞬間を楽しむなんてまさに、消費行為の極致と言えるでしょう。

彼はワインを消費していますが、浅倉に対する態度もまた、ワインとそう大差はありません。人を消費しようとする、根っからの消費者であり捕食者なのだろうと思います。

そんなワイン坊やの捕食行為に対し、浅倉はどのように向き合っていくのでしょうか。

②ノクチルの戦い方

透が感じるものに、透に見えてる世界に興味があるんじゃないか」
浅倉透に求められているものを、プロデューサーはそう表現しました。
だから浅倉はステージに、「自分が見ている世界」をぶつけることにします。そして、それが「歌」でした。

「浅倉透が見ている世界」には、ノクチルが、樋口円香がいました。
最後のステージを樋口円香に託したのは、当然の帰結だったのかもしれません。「自分が見ている世界」を表現する方法として、これ以上もこれ以下もきっとないのだと思います。

同時に、これが浅倉透にとっての「転換点」となります。

LandingPoint時点で、浅倉透には戦い方がありませんでした。
ゼネコンの人間を筆頭に、様々な人間が浅倉透を捕食しようとしましたが、彼女はそうした「彼らのゲーム」から逃れることができませんでした。結果として自分の帰る場所、日常を焼かれてしまいます。
もしも自分が好き放題に暴れたら、「爆弾(賠償金)」で取り返しのつかない出来事をもたらしてしまうかもしれないという予感が、彼女の敗北の一因となったのではないでしょうか。

一方で、「天檻」においてはノクチル、そして樋口円香がいました。
浅倉透が「さあ良いステージを見せてみろ」と捕食されかけた時に、そのステージを樋口に託すことで相手を喰って返してみせた。「浅倉透っておもしろいんでしょ?」という消費に対し、その想像を裏切ってみせることで捕食行為をはねのけました。
戦い方が「転換(天檻)」したのが、本シナリオのラストだったように感じています。


では、樋口円香はどう考えていたのでしょう。
浅倉に「歌って欲しい」と言われたあとの会話です。

彼女にはずっと、「消費されること」に対して想うところがありました。だからこそ、それを吹き飛ばしてやりたいという思いが彼女の中にもあったのだと思います。
加えて言うなら、樋口円香には「歌いたい」という衝動がありますね

P-SSR【バグ・ル】にて、「樋口円香は歌を歌う前、水を飲む」という癖があることが明言化されました。それを踏まえて考えると、浅倉から舞台を託されるよりも前のシーンでミネラルウォーターを注文していることに、少し意味が出てくると思います。

浅倉から舞台を託されることを、予想していたとは考えづらいでしょう。
一方で、窮屈なパーティーや消費の視線に晒されていた樋口円香の中に「歌いたい」という情動が渦巻いていたということは、十分考えられると思います。
消費しようとしてくる連中、窮屈なパーティー。
それらを吹き飛ばして、思い切り歌を歌いたいという感情が。

だから、樋口はカマしました。

このシーンでは、
LandingPointで戦う手段がなかった浅倉透が樋口円香を見いだすと同時に、
LandingPointで受け入れたばかりの「歌いたい」という衝動で、消費しようとする捕食者を退ける樋口円香という、
LandingPointシナリオ2つの帰着が描かれていると思っています。

(3)その後

①ノクチル、最高

そうしてノクチルの4人は、パーティー会場の空気を一気に持って行ってしまいました。
クローズドでプライベートなパーティー会場から飛び出していった彼女たちは、「檻には捉えられない巨大なクジラ」のようですね。
彼女たちを、学校やプライベートパーティーなんて狭い檻には捕らえていられないのかもしれません。

満足げなワイン坊や

浅倉透が魅せたステージは、幼なじみグループ、特に浅倉と樋口の積み重ねてきた時間が花開いたものでした。これは、時を積み重ねてきたワインが空気に触れた瞬間花開くという構図と、同様のものとなっています。
一方で、浅倉と樋口の重ねてきた時間は、ワインの50年などと比べるととても浅くて、成熟しきっていない。
だから彼女らが魅せたステージは、「まるで寝かせていない味」なのだと思います。

②ノクチルの歩み

会場から飛び出したあとのノクチルの姿は、これまでと、そしてこれからの歩みを強く感じさせるものとなっています。
彼女たちはどこを目指して歩くのかも分からず、川が流れていく方向へ、海の方向へ歩いて行きます。

そして彼女らは、「風」を感じます。
言うまでもなく「風」はノクチルにとって重要なモチーフであり、新たな道を歩き始めた彼女たちに吹く、追い風だったのではないかと私は思っています。

風を感じるノクチル

③「陸」

さて、ここまでプロデューサーについて全く触れてこなかったので、最後にまとめて彼について書いていくとしましょう。
彼は冒頭に、こんな悩みを吐露しています。

彼は、アイドル達に窮屈な思いをさせたくないと考えています。一方で、ノクチルの面々が持つ可能性を事務所という「檻」に閉じ込めてしまうことは、矛盾なのではないか…そんな風に感じているみたいですね。

そんな彼が、本シナリオでどのような結論を出したのでしょうか。


「私に海は用意できない」

プロデューサーはこれまで、浅倉透の「一緒に走って欲しい」という願いに対し、彼女の才能を持て余すがあまり応えることができませんでした。
そして彼は「私に海は用意できない」、ノクチル達と並走していくことは出来ないと宣言するに至ります。

ここで遂に、「樋口円香とプロデューサーは似た者同士」という私の妄言を思い出していただくときがきました。
樋口GRADやLP、浅倉LPでも書いてきたように、樋口とプロデューサーは似ているところがあると思っていて、特に「浅倉に才能と人間を見ているところが似ている」と書きました。

では、そんな2人の最大の違いはなんでしょうか?

それが上シーンで示された、「浅倉透と共に戦いに臨むことが出来る存在だろうか」ということです。

プロデューサーは決して、「もうノクチルは俺の手におえねーや」とほっぽり出してしまったわけではありません。しかし、浅倉透と共に並み居る捕食者達をなぎ倒すだけの力は、彼にはありませんでした。
一方で、本作の樋口円香は浅倉と共に、捕食者による消費行為を喰って返して見せましたね。彼女には、浅倉透と共に戦っていくだけの力と、歌いたいという衝動があります。
これが、2人の最大の違いとして示されました。

では、プロデューサーは自分の存在をどう定義し直すのでしょう。それが、次のシーンです。

ノクチルが輝く場所である「海」。
プロデューサーには用意できない「海」へ彼女たちを見送ったあと、「彼女たちにとって帰ってくる場所」に、自分はなる。
そんな宣言です。

絶えず捕食が行われる世界。絶えず消費が行われる世界。
そんな世界で彼女たちが好きに暴れたあと、戻って羽を休めるための場所でありたい。閉じ込めるための「檻」ではなく、戻ってくるための「陸」でありたい。
彼はそう決意しました。
だから彼は、ノクチル達にこう訊ねます。


浅倉透がステージで歌うことに決めた曲は、ノクチルの面々が幼少期に観ていた教育番組のエンディングテーマでした。どうしてこの曲を歌うことにしたのか、小糸は訊ねます。

どうして浅倉がその曲をチョイスしたのかは分かりませんが、本シナリオのテーマが「枝状未来」であること、そして「陸」というキーワードが出てきたことを考えると、理解しやすいと思います。

このシナリオを経て、ノクチルはそれぞれの未来へと歩み始めました。枝状に別れるそれぞれの未来です。それは、一見するとお別れのように見えてしまうかもしれませんが、本シナリオで語ったのはそういうことではありませんでした。

ノクチルは海に出たあとも、陸に帰ってくることが出来ます。

帰ってもまた遊べる。
また、戻ってこられるのです。

枝状に別れる未来に、それぞれが歩き出したこと。
そして、彼女たちは戻ってこられるということ。

本シナリオが提示したのは、そんなノクチルの未来でした。
だから、浅倉が教育番組のエンディングテーマを歌ったのも、未来に向かうことと、原風景に帰ってくることの2つの意味が込められているように、私には感じられます。

だからこそ、小糸は一歩を踏み出しました。
また、この場所に帰ってこられると信じられるから。


浅倉透が、ステージに立つ樋口円香に対して「まどかー!」と呼びかけたのもまた、同様の理由でしょう。

彼女たちはただの幼なじみではなく、アイドルグループ「ノクチル」になりました。そして、アイドルとしてそれぞれの未来へ歩みを進めはじめています。それはともすれば、「早く来すぎたお別れの未来」のように見えるかもしれません。
けれどプロデューサーが示した「陸」は帰ってくる場所であり、教育番組のエンディングテーマも「帰ってもまた遊べる」ことを現している。つまり、彼女たちは帰ってくることができます。
ここまで、私は「天檻」をそんな話だと書いてきました。

そうしたテーマから考えたとき、「樋口」のことを「まどか」と呼んでいたのも、当たり前のようにそうしていた時間に帰ってくることができる、ということを示しているのではないかと私は思ったのです。

浅倉はLandingPointシナリオの中で、「戻ってくる場所」を失うという苦い敗戦を経験しています。
しかし「天檻」を通して彼女は、プロデューサーやノクチルという戻って来られる場所を見いだすことになりました。

そんな彼女が「まどかー!」と叫んだことは、LandingPointからの万感の思いがこもっているように思えてなりません。

衝動的に海やプールへ飛び込んでしまったあと、「陸」へと戻っていく。
「天檻」は、「衝動的で瞬間的な輝き」の先に待っているはずの、ノクチルの未来を見ようというお話でしたね。そして、このシナリオではそんな未来に「帰ってくる場所」という幼なじみらしいキーワードが出てくる、意外な着地を見せるお話でもありました。
私がたびたび持ち出している妙ちきりんな造語「連続性のある価値観」にも、繋がるテーマではないかと思っています。

10.さいごに


分量、頭おかしいのか??????

というわけで、ノクチル4名のWINGから『天檻』までのシナリオを振り返っていきました。新イベント『ワールプールフールガールズ』の実装に間に合うように執筆し始めた時点では、一週間くらいで書き上がる想定だったんですが、3週間以上かかりました。
自分がノクチルイベントを振り返るがてら、ついでに要点をまとめたnoteでも書くか、ぐらいの軽いノリだったのですが、文字数は60,000字をゆうに超え、はっきり言って正気の沙汰でないことになってしまいましたね。
結局、新イベントに間に合うどころか、ルカのP-SSRにすら間に合わない有様。
(推敲するの面倒だったので、誤字脱字やねじ曲がった文法については目をつぶって頂ければ)

これ、読んでる人いますかっていねーか、はは…

62,000字近くもあるこのnoteを全て読み切った人がいたら、あなたは書いた私と同じくらい狂っています。誇ってください。
そして、なぜこのnoteを読み切ったのか教えてください。友達になりましょう。

ちなみになのですが、私のノクチルカード未読状況はこんな感じとなっています。
浅倉…【つづく、】【夜はなにいろ】【かっとばし党の長い夏】【裏声であいつら】
樋口…【ギンコ・ビローバ】【洒落】【Feb】
小糸…【セピア色の孤独】【傍白の間に】
雛菜…【DIVEIN!】【THE W♡RLD】
ノクチル…「ワールプールフールガールズ」
このあたりのシナリオについては知識がないので、もしかしたら的外れなことを書いてしまっているかもしれません。

こうしてノクチルのシナリオを一連の流れとして振り返ったとき、テーマが絞られている感じがして非常におもしろく感じました。一気読みして輝くのは、もしかしたらノクチルシナリオかもしれません。
特に「天檻」は読み解きがいのある話で、ああだこうだと考えていると読み味に深みが増して、楽しかったです。

私は、「天塵」のサポコミュ「遊漁」のワンシーン「(海に飛び込んだあとのノクチルが)衣装を乾かそうと四苦八苦するシーン」が非常に大切だと常々感じていました。
それは、「衝動的な、あるいは瞬間的な輝きの代償を清算させられている話」だからです。
ノクチルの刹那的な輝きは、海やプールに飛び込んでしまう姿から嫌というほど分かると思います。
ただ一方で、そうした瞬間の輝きの先にも人は生きていかなければなりません。プールに飛び込むシーンから始まり、「帰ってくる場所」が示されるシーンで終わる「天檻」なんかは、まさにそうした「刹那の輝き」の先へ彼女たちが進んだことを示唆していると思います。
プールに飛び込むことは衝動的かつ瞬間的で、しかも容易く消費されてしまいますが、天檻ラストのノクチルはそうした消費をはねのけましたね。ある意味、天塵のラストシーンを相対化してもいると思っています。
「遊漁」のワンシーンでも同様に、天塵ラストの海に飛び込むという行為を相対化し、その瞬間だけを「エモい」と消費する態度から距離をとろうとしていることが分かります。
瞬間の輝きではなく、続いていく未来を見るシャニマスの姿勢がこんなところにも現れているような気がして私は好きです。

イルミネの時は書かなかったプロデュースシナリオについても、今回は考えてきました。やはりキャラやテーマを理解しようと思ったら、プロデュースシナリオも大切ですよね。イルミネについても、共通コミュの内容を併せて振り返ればもっと良いnoteにできたのかもなぁ、なんて思いました。
リメイクしようかな(狂気)。

ともあれ、万が一ここまで記事を読んでいる酔狂な方がいらっしゃれば、おつかれさまでした。お気軽にコメントなどお待ちしております。次は何について書こうかなぁ。

他にもnoteの記事書いてますので、良ければ是非。

あと、最近シャニマス交流用のDiscordサーバーに入りました。こういったコミュの感想を共有する一つの手だと思いますので、よろしければ。自分も頑張って交流しようと思います!



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