『天檻』を語ろうとする不可能性と暴力性にどう向き合うか
天檻ほど語るのが難しいものはない。今まで(「天塵」「さざなみ~」)は一本のシナリオとして筋道立ったストーリーラインが用意されていたが、今回はそんなもの存在しない。各々のもつ漠然とした想いが枝分かれするように伸びていき、時にこすれあい。最後にどういうわけか一本の幹に収束する。
それはまさに『天檻』というタイトルが示すものなのだが、そればかりを追求するとノクチル各個人の物語を蔑ろにしてしまうことになる。
一方で個人の物語ばかりを追求してひとつのnoteとして語ろうとすると今度は収拾がつかなくなり、まるで指の隙間から水が漏れるようにとっ散らかったものとなってしまうだろう。
もうお気づきだろうが『天檻』は物語の形がノクチルの形をしている。
だからこそこれを一つのnoteにまとめるなんて不可能だし、それを可能とするのはノクチルのシナリオライターしかいない。
じゃあこのnoteではなにを語るのかと言うと、最も個人的な感情の話であり、つまるところお気持ちだ。
過去記事
パーティー客13
そもそも、自分はいま矛盾した行為をしている。
それは『天檻』を一方的かつ断定的にnoteで語ろうとすることだ。
『天檻』をインターネット上で語ることほど愚かな行いはない。何故なら『天檻』では他者がノクチルを一方的に語ることの暴力性が手短に、されど克明に描かれているからだ。
そしてそれこそ『天檻』で言及される多くのものの中で、特にユーザーの視線を意識したものだろう。
『天檻』のオープニングには、ノクチルのことをわかったふうに言うパーティーの客が出てくる。
そう、パーティー客13だ。こいつには眉を顰めた人は多いだろう。
これは俺である。そしてお前だ。
我々がノクチルのイベントシナリオやコミュを読んだ感想や印象をインターネット上で語るように、パーティー客13はテレビや雑誌などで目にしたノクチルをわかったような面をして語る。
我々はプレイヤーとしてノクチルの物語を俯瞰して彼女らのことを多少は知っていようがそれは誤差の範囲に過ぎない。
雛菜が雛菜のことしかわからないように、我々は自分以外の他者を完全に理解する術を持たない。
さらに言えばシャニPを自認しない自分はノクチルにとって部外者であり、そのこともあって自分とパーティー客13との違いはほとんど存在しない。
もちろんシャニP=自分であり、パーティー客13とは違うという認識のプレイヤーもいるだろう。そんなプレイヤーにもきっちり釘を刺しにいくのは流石のザ・シャニマスだ。性格が悪い。
閑話休題
今回のシナリオイベントはノクチルの形をしており、(シャニP含め)キャラクターによって抱えている主題は違う。
この「ノクチルを一方的に語ることの暴力性」を提示しているのは、他でもない樋口円香だ。
自分がシャニマスで最も狂わされ、noteでさんざんわかったふうな面をして語ってきた樋口円香なのだ。パーティー客13の発言内容に眉を顰め、執拗にリフレインし、あまつさえ理科の実験中にも関わらず迂遠でわかりやすく主題に迫るセリフを独りごちる樋口円香なのだ。
実のところ、樋口円香をわかったような気になっていることへの警鐘は、既にP-SR【カラメル】樋口円香で行われていたりする。
あの煙に巻くようなコミュはまさにシナリオライターが「お前は本当に樋口円香のことわかっているのか? わかってないだろ」と直接ユーザーを挑発するようなコミュで、公式側からアイドルとの断絶を生み出す実のところめちゃくちゃヤバいコミュなのだが、そこで提示したものが今回の『天檻』に繋がっているわけだ。
もちろん、今までnoteを書いていく中で一方的に断定し語ることへの暴力性について考えたことが無かったわけではない。むしろ樋口円香を語る上で(一方的に断定し語ることへの暴力性に)自覚的にならないことなどありえない。しかし自覚的であるからといって免罪符にはならず、今回のシナリオイベントで改めて樋口円香から真正面から突き付けられた形となる。
だからこそ、自分は今回そのことを書かなければいけない。矛盾しているかもしれないが、そうしなければいけないのだ。
物語化を否定した後のノクチル
前回のシナリオイベント『さざなみはいつも凡庸な音がする』では、ノクチルの物語化を否定してみせた(参照:『さざなみはいつも凡庸な音がする』パッケージングされたノクチルと物を語らず人を語るということ)。
だからこそ、その後のシナリオイベントであるところの『天檻』をどのような物語にするのか気になっていた。「さざなみ~」で明確にノクチルを物語化を否定してみせたのだから、『天檻』でノクチルが物語化するようなことなどあってはならないわけだ。
だが、ノクチルのシナリオライターは自分でぶち上げたハードル(物語化の否定)を、物語の形をノクチルの形にすることで乗り越えてみせた。
これはまず先にノクチル(キャラクター)があり、その後に物語があるということだ。
例えば、『天檻』ではそれぞれのキャラクターが抱える主題に一貫性がない。これが『天檻』を語ることを難しくさせている原因のひとつなのだが、果たして実際に幼馴染四人組を集めて抱える主題に一貫性があるグループがどれだけいるだろうか。
これが先にキャラクターがあるということだ。
それぞれの抱えるもの色は全く違い、しかしてそれが一つになった時の色合いがノクチルであり『天檻』なのだ。
だから物語の形がノクチルの形をしているのは必然的であり同時に意図的である。
ノクチルが先か
先程からノクチルノクチルと言っているが、実のところノクチルは本質的にノクチルではない。四人の幼なじみに後からノクチルという記号を当てはめただけに過ぎず、実際には四つの一個人がそこに寄り添っているだけである。
さざなみのように境界線が曖昧な枠が彼女らであり、それを我々の世界に飲み込みやすく解像度を落として記号化したのが「ノクチル」である(境界線が曖昧なことは彼女らの特殊性ではないことは留意したい)。
そのことが『天檻』でより色濃く感じられた。
アイドルだってそうだ。別に彼女らはアイドルであること自体にアイデンティティを置いておらず、アイドルという属性は彼女たちの多様な人間性を彩る一欠片に過ぎない。
だからこそ、彼女たちは283プロ所属ノクチルという枠に収まることはないし、その記号自体に意味は持たない。
そして物語以前にノクチルがあるように、ノクチル以前に彼女ら個人があるのだ。
シャニPだって悩んでいる
シャニPはいつも繊細なガラス細工に触れるようにノクチルの接している。常に彼女らの意思を尊重し、それ故に踏み込むことはない。
一方、浅倉透はむしろシャニPに主体的に関わってくることを求めている。「しろ」とは言わないが「するな」とは言う。そんなシャニPにもどかしいものを感じているきらいがある。
今までシャニPが己に課した「アイドル個人の意思を尊重する」を破って踏み込んだのは、自分が知る中では樋口円香LPしかない。
それにしても主体的に関わってきて欲しいと望む浅倉透ではなく、ずっと否定してきた樋口円香に対して先に踏み込んだのは、なんとも皮肉な話だ。
閑話休題
浅倉透は生まれ持った感性が他者と著しく乖離している。今まではそれを無意識的に行ってきた普通エミュによって誤魔化してきたのだが、それ故に己の感性を言語化することを怠り、感じたことを話す時は必ず飛躍した比喩になる。
これは『さざなみはいつも凡庸な音がする』で提示した「ノクチルは普通の女の子」に矛盾しているように思えるが、生まれ持った感性が他者と著しく乖離しているのは別に特別なことではない。
P-SR【おかえり、ギター】浅倉透のコミュでも浅倉透と同じように、他者と感性が乖離しているスポンサーのおじさんが出てくる。
このコミュでは誰も理解できないスポンサーのおじさんの言葉を浅倉透だけが理解、あるいは自分のフィールドに持ち込んでかみ砕いている。
実のところW.I.N.G.のころシャニPに求めていた「自分のことが伝わって欲しい」というのは、スポンサーのおじさんが実現しているのだ。
それにしたってかなり一方的なものであり、相互理解とは言えない。スポンサーのおじさんですらそうなのだから、シャニPが浅倉透を完全に理解できることはないだろう。(それでも一歩ずつ理解しようと彼女の言葉をかみ砕き、時に浅倉透の心に触れるシャニPがなんともいじらしい)
そしてシャニPにできぬのなら、我々ができる道理はない。
天檻を語ることの不可能性
ここで簡易的に今まで書いたことをまとめてみようと思う。
・ノクチルは集団ではなく四つの個があるだけであり、揺らぎのある枠のようなものがノクチル(記号)である。
・天檻も独立した個々の主題があり、それを重ね合わせ包みこんだものがイベントシナリオ『天檻』である。
・ノクチルは現実問題として完全理解は不可能である。
・そして、完全理解できぬものを理解したように語る暴力性をシナリオ(と樋口円香という個)が提示している。
・それによって天檻を語ろうとする行為自体が矛盾となる。
・また、天檻を語ることはノクチルを語ることと同義であり、二重で矛盾が発生する。
つまるところ天檻を語ることの不可能性とは、独立した主題を並列して提示しているので語り切るのが構造的に難しく、さらに言えば「一方的かつ断定的に語ることの暴力性」を提示しているため、天檻を語ろうとすること自体矛盾になる。ざっくり言うとこんなところだ。
こういった様々な要素が幾重にも折り重なってそれを薄い膜のようなもので包み込んでできている。さらには天檻自体をノクチルが包括しているので、循環参照みたいになってしまっている。これもまた語りづらくしているものの一因だ。
なんでこんなユーザーばかりに殴りかかっているんんだと思うかもしれないが、現実問題相互理解不能な個をコンテンツとして切り売りしているのは他でもないアイドルマスターシャイニーカラーズというコンテンツなわけで、そのことへの批判も自己言及も行っているのでノクチルのシナリオライターはちゃっかりしている。
そしてこれはまさに吉本隆明が言うところの「登場人物、語り手、作者、読者が重なり合う世界」(参照:現代文学の条件)だったりする。
終わりに
自分は大抵の場合、noteを書くときは最初に結論を出しているし、出てなかったとしても書いていくうちに結論が見えてくる。しかし、今回だけは違う。「ノクチルを一方的に語ろうとすることの暴力性」を突き付けられたところで自分はどうするべきか、結論が全く見えてこない。
他者(ノクチル)を理解するなど現実問題不可能と諦観によって断絶を受け入れるべきか、それとも「わかろうとする意志が大事」と耳障り良い言葉で納得するべきか。多分両方かもだが、とりあえずのところ自分はまだ答えを出せずにいる。
あなたはどうだろうか?
……とはいえ、こんなにも掴みどころのない、掴むことのできないイベントシナリオの中でもただ一つ確かに信じられることがある。
それは「ノクチル最高だ」ということ。もしかしたら、それだけでいいのかもしれない。
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