見出し画像

『さざなみはいつも凡庸な音がする』パッケージングされたノクチルと物を語らず人を語るということ

画像1

伝説的なギャングスタラッパー、2PACは無実を主張した罪で投獄されたあと、悪名高いシュグ・ナイトとの契約で保釈金代わりに彼の元で「All Eyes On Me(すべての視線が俺に)」というアルバムを制作した。
その視線は2PACという史上最高のラッパーの次の動向を伺う注目の視線でもあれば、2PACという「 Amerikaz Most Wanted」を監視する警察やFBIからの視線。あるいは、彼に嘘の罪を被せようとする人々の視線でもあった。
そして来る2020年。アイドルマスターシャイニーカラーズに登場したノクチルという幼なじみ四人組グループは、天塵というイベントで生放送番組を破壊し尽くす暴挙に出ることで鮮烈なデビューを飾った。
まさにアイドルコンテンツの問題児(=iDolz Most Wanted)であるノクチルの次の動向を、誰もが注目した。「次はなにをやらかすんだ?」「お前ら、本当にアイドルマスターのアイドルなのか?」「こんなアイドル、俺は認めない」「ノクチルしか勝たん」「なんだ、その衣装テキストは」「なにがギンコ・ビローバだ。ビローバなのはお前のほうだ」そういった視線が、ノクチルに集中した。
やがてノクチルはファン感謝祭やG.R.A.D.、「海へ出るつもりじゃなかったし」などを経て、その規格外ぶりを深めその注目度。好奇の視線はより強まったと言える。
そういった視線の中で、2021年8月31日、待望の新イベントストーリー「さざなみはいつも凡庸の音がする」が登場した。
それは、まさにそういった視線に対するカウンターと言えるシナリオだった。

過去記事はこちら

パッケージングされたノクチル

アイドルマスターでもこれほどまで売れていない姿を描かれているアイドルグループは他にいないだろう。登場から約一年とちょっと経過したノクチルだが、イベントシナリオで一貫として描かれているのは、「売れていない姿」だ。天塵では初の生放送番組を潰したあげくちゃっかり干され、町内会の祭で披露した初ステージは誰にも見向き去れないという結末を迎えた。次のイベントシナリオ「海へ出るつもりじゃなかったし」では年末の繫忙期をまったりと過ごす姿や、“売れていないこと”を活かした戦略でアイドル騎馬戦を勝ち抜こうとする姿が描かれていた。また、クリスマスの越境イベントでは他のグループがアイドル活動に勤しむなか、スーパーのアルバイトに応募する暴挙にまで出た。
とはいえ、見ている人は見ているものだ。今回のイベントストーリーで、ついにノクチル初の冠番組が登場する。その名も「ノクチル成長中(仮)」。この番組を通して描かれたのは、「ノクチルはみんなが思うより普通」ということだった。

今回のイベントシナリオで登場する「ノクチル成長中(仮)」のディレクターは、天塵で生放送を破壊するノクチルの規格外ぶりに目をつけてずっと仕事したいと思っていたそうだ。
まさに天塵のアホのディレクターとは正反対である彼は、ノクチルに「自由に振舞う」よう要望を出す。規格外で破天荒なノクチルが自由に振舞えばそれだけで絵になるという目論見だ。
ご存知のとおり、その目論見はご破算となった。なぜならノクチルはディレクターが思うより普通の娘たちであり、普通の娘たちが普通にしている姿を写したところで、なにも面白くなりようがないのだ。
例えば、自分の大好きな格闘アクション映画では、たまに本物の格闘家を使う時がある。その場合、本当にうまくやらない限り、地味で動きのもたついた面白みのないものになる。彼らは本当に強いが、映画というフレームの中で本当に強く見せるのは格闘アクション俳優のほうが上手いということだ。
また、格闘家同士を向かい合わせてよーいドンで本当に戦わせたところを撮ってもそれは面白くならない。結局のところ、本質的に優れたものであっても、なにかを面白く売り出したい場合はある程度の演出、パッケージングが必要となるということだ。
天塵の最後で何者にも囚われない本質的な輝きを見せたノクチルであってもそれは変わらない。
そもそもシャニマスは本質的であるからこそ正しいということはなく、虚構で構成された存在の放つ輝きの肯定をストレイライトというユニットで行っている。
だからこそ、ノクチルにもある程度の演出…パッケージングが必要となる。ノクチルはそのまま飲み込むと毒か白湯みたいになるユニットだ。
だがそもそも、パッケージングされたノクチルはノクチルなのかだろうか?

画像2

そういう意味では「アナタの投票でノクチルが変わる」というコンセプトの「ノクチル成長中(仮)」は、まさにファンによる「ノクチルがどうパッケージングされて欲しいか」を決める内容だ。
こういった他者からノクチルへの一方的なパッケージングが冒頭の時点で既にはじまっている。番組ディレクターもそうだ。「ノクチルは破天荒なもの」という一方的なパッケージングを行っている。
とはいえ、それが悪いことかというとそういうわけではない。そもそも何重にも隔てられた他者とコミュニケーションをとるにあたって一方的なパッケージングは不可欠だ。誰かが誰かを見るとき、その心の内側は低解像度でしか受け取ることができないし、その隙間を埋めるために勝手な解釈が発生するのは避けられない。
これは千雪LPにも共通する内容で、そこでは他者の視点「ファンから見た千雪」や「プロデューサーから見た千雪」など、様々な視点が肯定的に描かれていた。

一方のノクチルだが、実は可もなく不可もなく。他者からの視線など気にならないので別にパッケージングされようが雛菜は雛菜だしっといった感じだ。
小糸を除いては。小糸は明確にファンの望むことを実現しようと、成長(パッケージング)に前向きであり、同時にその姿も雛菜によって肯定的に描かれている。I'm ok,You're okだ。
そんな中、シャニPだけは明確にノクチルのパッケージングを潔癖なまでに嫌っていて、したくもないしされたくもないみたいなものを感じた。その様子は天塵のころから伺うことができる。ただそれは同時にノクチルをちゃんと見ていないも同然であり、ありのままを受け入れようとするあまり、ノクチルへの理解が不足していたと反省しているのが今回のシャニPだ。

画像3

結局のところ、千雪LPで描かれたとおり他者と関りの中でパッケージング行為は不可避であり、理解とパッケージングはほぼ同義なのだ。
だから「さざなみはいつも凡庸な音がする」は成長しなくていいという物語ではない。さらに言えば、パッケージングしなくていいという物語でもない。大衆という視線に晒される限り、ある程度見栄えがいいように提供されるのは避けられない。例えば、舞台に立つために衣装をしつらえ、メイクするのだってパッケージングだ。
大切なのはバランスと互いの意思を尊重した双方向のコミュニケーションだ。あまりにも一方的に「こうあるべきだ」という正しさを押し付けられると「自分たちは自分たち」なのでノクチルは自動的に反発するし、逆に「ありのまま」で放置されると別になにか特別なことをするわけではない。
ノクチルは善悪を規定するものではない。ものごとの良し悪しや正義を規定するものではない。ものごとの基準をゆらゆらと定め、だからこそ良くも悪くも揺らぎがなく、いつもそこにあるがままたゆたうさざなみのように、凡庸な音がするのだ。

物を語らず人を語るということ

他者からのパッケージングは不可避であることを描きつつ、それはそれとしてどういうわけかシナリオの節々からはライターによる「ノクチルの自我は確固たるものであり何人たりとも侵されるべきではない絶対領域」みたいな美学が伝わってくる。
多くの人が言及しているように、今回のイベントシナリオは現実のファンに対するメタ的なカウンターとなっている。
天塵での鮮烈なデビューで誰もがノクチルに注目するようになった。ノクチルを「何者にもとらわれないエキセントリックで挑戦的な反逆児」といった視線で見ていたオタクも少なくないはずだ。かくいう自分もその一人で、「次はどんな物語を見せてくれるんだ」とワクワクさせられたものだ。
だが今回描かれたのは「ノクチルはお前らが思うより普通」ということ。それは、現実のオタクに対する綺麗なカウンターパンチとしても機能している。
シャニマスが恐ろしいのは、それを伝えるために物語を凡庸なものにしてしまうということだ。物語の形がテーマに直結しているということだ。スリリングな事件やエキセントリックなことは起きず、言ってしまえば今回のシナリオは面白くはない。面白くしていないのだ。
シャニマスと言えばアイドルの実在感を極限まで高めることで有名だが、今回のイベントシナリオに至っては「ノクチルは実在るので、別に物語に面白いも面白くないもクソもないのだが?」みたいなスタンスを感じた。末恐ろしい。
アイドルの実在感を高めるために「ストーリー」や「おもしろさ」すら放棄している。その実在感こそ「何人たりとも侵されるべきではない絶対領域」だ。
前々から思っていたけどノクチルのライターは(樋口円香が安易にデレたりするような)雑な二次創作が嫌いでしょ。

シャニマスのアイドルは人間か、キャラクターか

シャニマスはアイドルの実在感を大切にしているが、アイドルを人間として扱えば扱うほど彼女たちをゲームのコンテンツとしてシステム的に扱う問題にぶち当たる。シャニマスがすごいのは、そのことすら自己言及的に批判を行うことだ。
シャニPが節操も無く25人のアイドルを同時にプロデュースすることは冬優子のファン感謝祭で、アイドルの親愛度をシステム的に管理することを【ギンコ・ビローバ】樋口円香のコミュで自己言及的に批判が行われている
シャニマスがすごいのは、それが物語上わざとらしくないことだ。

画像4

なんかホントにすいません

そういう点で言えば、今回のイベントストーリーは「実在するノクチルという存在を物語化すること」に対する批判であると言える。
だからこそイベントシナリオを面白くする必要はないし、あるがままを描いた内容となっている。
考えすぎかな?でもありえそうだよね。シャニマスなので。それに考えすぎることはシャニマスのオタクの基本的なスタンスだ。
実在感を大切にするからこそ、アイドルをシステム的に扱うことに時に自己批判的になる。そう考えるとシャニマスはとんでもないコンテンツだ。

あとイベント前にやったツイッター企画のノクチル実在感めちゃくちゃやばかった。

画像5

Twitterにアップした画像をダウンロードするとスマホに雛菜の写真フォルダが出現するのでオススメ。

おわり

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?