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「文法学」と世界を正確につかむ力/リベラルアーツの本質

「文法」って聞くと、「やだなー」と感じる人は多いです。ポジティブに捉える人は少ないでしょう。「コミュニケーション重視」の現代英語教育においては、なおさら、文法は目の敵になっているとすら言えます。そんななかで、今回は、文法学が、自由人が世界を的確に見るための訓練だったというお話をご紹介します。

さて、すこし話が変わります。ビジネス界隈で続いている「教養」ブームですが、この教養という考え方のルーツ、といいますか、理想形として、ほんとうにしばしば引き合いに出されるのが、古代ギリシア・ローマの「リベラルアーツ」です。

リベラルアーツ(liberal arts)とは?

日本で「リベラルアーツ」と言えば、「職業に直接関係のない学問、芸術のこと。実用的な目的から離れた純粋な教養」であり、とりわけ大学では、「専門に分かれる前の一般教養。大学の教養課程」(日本国語大辞典)のことで、日本の大部分の大学生(プラス卒業生)には「専門とは関係のない幅広い教養・知識」ぐらいの理解が一般的でしょう。しかし、これでは、なんでliberal「自由な」atrs「技法、技術」であるのだか、意味がよく分かりません。

むしろ、もともとリベラルアーツは、古代ギリシア・ローマの時代には、自由人たる市民が身につけるべき教養であり、そして近年では、「人を囚われから自由にする」ための教養とされることが多いようです。

なぜ、リベラルアーツに「文法学」があるのか?

これに関連して、絵画を使ったトレーニングで「知覚力」を高めることを提唱する神田房枝さんは、「本来のリベラルアーツは、知覚を起点とした知的生産のためにデザインされたトレーニング」であると定義づけています(『知覚力を磨く』)。とりわけ、「自由7科」のうち、基礎的学芸として習得が必須の3学(trivium)に、「文法学」(Grammatica)が含まれていることに注目しています(なお、3学の残り2つは、「修辞学」(Rhetoric)と「弁証法(論理学)」(Logic)です)。

もちろん、リベラルアーツで、「文法学」として教えられていた言語は、古典ギリシア語であり、ラテン語です。これらの言語の特徴は、語が人称、性、数、格、時制、法、態などなどの要素によって変化し(曲用、活用)、文中での用法、機能、関係性などの情報を指し示している点にあります。したがって、それぞれの語の微妙な違いを几帳面に区分・分類しながら、その文が言おうとする真の意味をくみ取っていく必要があります。このためか、ラテン語は理系出身者との相性が良いともよく言われます。

情報に溢れた世の中を的確に見る観察法・知覚法の基礎訓練

それだけではありません。「文法学に習熟するにつれて、学生たちは同時に、あるシステム内の各要素を観察しながら、それをより大きな部分集合に位置付ける力を身につけて」いくと言います。すなわち、「文法学は、言語学習でありながら、その実質は、情報の溢れたコンテキスト内で、「部分」をじっくりと観察したうえで、それを「全体」へと関連づける能力を育てることを兼ねて」いたと結論付けています。

ちなみに、リベラルアーツ4科に含まれる、算術・幾何・音楽・天文についても、「あるルールに従って関連付けられる要素の部分集合から成り立って」いるものに変わりありません。ですから、「文法学」は、4科に進むために欠かせないの基礎学芸であり、観察法・知覚法の基礎訓練の役割も果たしていたという構造になっているわけです。

というのが、本来のリベラルアーツにおける「文法学」の位置付けです。私たちが受験英語とかで悩まされた英文法のイメージとはかなり違っていますね。細部だけでなく、部分と全体を関連付けて、全体図を捉える訓練だったというのはとても新鮮な捉え方です。

「出来の悪い答案」から分かること

外国語、翻訳の秘密について取り上げるこの記事で、わざわざリベラルアーツのなかの「文法学」の意味についてとり上げたのは、西語、伊語、仏語、英語を対象に、生徒さんの訳文を添削したり、自分自身が翻訳を行う時に常々感じていたことが、「そういうことだったのか!」と思わず膝を打つくらいに、ずばり思い当たるからです。

というのも、出来のよくない生徒さんの答案では、まず、訳語の選び方の点で、辞書の最初の方に載っているものをあてて、また、語のちょっとした変化を見過ごしているために、文中での役割を誤って理解しており、結果として、全体として意味が不明の訳例になることが相応にあります。もちろん、こういうケースでは、だいたい、前後の文との間のロジカルなつながりも切れています。西語、伊語、仏語では、名詞の性数の違いなどが、形容詞や動詞の変化に反映しますから、この点を注意深く辿っていけば、かなりの程度の誤訳は防げるのです。が、まず、こうした変化を無視しています。

先日、出会ったイタリア語の答案では、前置詞per(ずれはありますが、ほぼ英語のfor)の意味をほとんど無視して、文全体をフィーリングで訳しために、日本語の意味が正反対になっているものがありました。

まあ、私自身も、学生の時は、時間切れで、とんでもない訳を無理やりひねり出していましたので、他人のことは言えません。

英語はほんとうは難しい

これが、英語になりますと、ラテン系言語のような微妙な変化は歴史的に消えてしまっていますから(たとえば、動詞の三単現のsは昔の複雑な語形変化の痕跡です)、現代では、目に見える手掛かりがありません。手がかりがないだけに、むしろ、それぞれの語句が置かれている位置と前後関係からその場で果たしている役割(英語では、同じ綴りで品詞が違う単語は大量にあります)、単語レベルで持っている使われ方の独特の癖(文法事象では割り切れず、それぞれの単語ごとに癖を覚える必要あります)などから、その場その場で正しく判断していく必要があります。目に見える印が消えていることを前提に判断していく必要があります。だから、難易度は格段に上がります。

実は英語の文法は、とくに複雑で躓きやすいことについては、別で書きました。また、たとえば、発音について、英語ネイティブ自身が苦労していることも書きました。

とはいえ、人間の潜在能力というのはすごいもので、そこは人が作り上げてきたものですから、訓練を繰り返すことでなんとかなるものです。

訓練次第で、それぞれの語のちょっとした変化が表す意味、他の語との関係、文の中におけるその後の役割、などなどについて、かなり気が付くようになります。そんなことに気をつけながら、文の部分、文全体、さらに前後の文との関係、ロジックをチェックして、この文章全体で書き手はなにを言いたいのかのレベルで理解できるようになると、誤訳はほとんどなくなります。また、そもそも、文章を読むのが楽しみにもなります。

音楽と文法学の共通点

ちなみに、これは音楽の世界にも似ています(音楽は自由7科のひとつです。脱線しますが、たくさんの星の運行やコンステレーションを読み、意味を見る、天文学も同じですね)。音の高低はヘルツで決まります。音を組み合わせたそれぞれの和声には特徴があり、また、和声の進行・遷移は、ある特定の情感を産み出します。作曲家は、この法則を活かして、美しい旋律を組み立て、交響曲ともなると、まるで壮大なカテドラルのようなストラクチャーが欠かせません。

楽曲は、細部があり、部分があり、全体があるひとつの世界です。優れた楽曲ほど、枠組みがしっかりしていて、かつ細部に至るまで配慮が行き届いているものです。これを成り立たせているのは、フィーリングではなく、理論です(楽理)。それでいて、音楽家が伝えたい情感、感情を運ぶことができます。「言葉に似ている」なんて感じるのは私だけでしょうか、、、

いずれにしても、リベラルアーツのなかに音楽が含まれているのもちゃんとした理由があるわけです。

神は細部に宿る、しかし全体の把握が大事

文法については、しばしば「些細な点ばかりにこだわる」という批判を耳にします。しかし、文、そして文章を的確に理解するという目的のためには、文法に伴う「些細な」違いは無視できません(無視したら、出来の悪い生徒さんの答案になってしまいます)。

しかし、だからと言って「些細な点」にだけ注目したのでは、書き手が全体として言いたいことについて理解できないことも、事実なのです。だからこそ、「情報の溢れたコンテキスト内で、「部分」をじっくりと観察したうえで、それを「全体」へと関連づける」ことが非常に大切になるわけです。

日ごろからこんなことを感じてきただけに、リベラルアーツの中で「文法学」が世界を的確に見るための基礎訓練であったという指摘が見事に腹落ちしました。むしろ、もっと早く、学校文法に悩まされていたあの頃に聞きたかったというのが、正直な感想です。

情報に溢れたこの世界を的確に見る訓練

さて「情報に溢れたコンテキスト」とは、古典語の世界に限った話ではなく、まさに私たちが生きているこの世界そのものにほかなりません。もしも、フィーリングでなんとなくやって「誤訳」のようなことをやらかし(状況認識の誤り)、さらにそれに基づいて重大な決定をやったとしたら、とても怖い話です。的確に捉えられるかどうかで、結果には大きな違いが出てくるからです。

私の普段の仕事は、大小様々な情報から、課題を的確に発見し、全体で見て重要なものから改善に向けた提案をしていくものなのですが、これは文法学のプロセスそのものです。細部をないがしろにできず、かといってそればかりでは、全体としてなにが重要な問題なのか、どうすれば適切に改善できるのかについて見失ってしまいます。

しかし、『頭のいい人が話す前に考えていること』(安達裕哉著)でも紹介されているように、自分が理解できることだけを切り取ってとんでもない判断をする人は意外に多いものです。私のいる業界でも、課題の本質を見抜き、的確に改善の提案をできるプロは非常に貴重な存在です。

実は、文法学とは「情報とコンテキストに溢れた世界を的確に捉えるための基礎訓練」だったなんて、かっこよくありませんか?

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