"〜ではない"というアイデンティティ
こんにちは!Mikiです!
今回はアイデンティティの話についてです。
日本人の父、台湾人の母がいる私にとって、『自分が何者なのか』という問いは複雑さを増します。
今まで台湾人・ハーフ・日本人と3つの視点から考えてきましたが、どうやら私は、「私は○○である」という言い方がしっくりこないぞ?ということに気が付きました。
「私は私」というのがまあ一番しっくりくるのかなとは思うのですが、ちょっと投げやりな感じもしたので、今回は「私は○○じゃない」という考え方で『私』を考えていこうかなと思います。
台湾人になりたかった
台湾要素のない私
「私は私」と腑に落ちるようになるまで、私は自らの台湾要素を見つけ出そうと躍起になっていました。
というのも、
・日本語母語、日本の教育、日本で育つ、パスポートも日本。
・台湾に住んだ経験もない(幼少期は記憶にないので除く)
・母は台湾人だが、私が台湾人なわけではない
・中文を話すことができない
そんな私には、私を台湾人たらしめるものが何も無かったのです。
特に中文を話せないことはとてもコンプレックスでした。
そのため、日本語ペラペラの母に中文で話してもらうよう頼んだり、台湾に短期留学に行ったり、中文教室で助手(?)をしたり、子どもの頃から日本語環境下でも中文に触れようと必死でした。その甲斐あって少しずつ中文を覚えていき、覚えていけばいくほど母や台湾の親戚とコミュニケーションが取れるようになり、私は自分の中の台湾要素を見つけ出したような、そんな感覚がありました。
中文の限界
やっぱり自分には台湾要素がある!
中文もこんなに話せるようになった!
ようやくそう思えるようになってきた矢先、祖母の葬儀を機に中文は楽しいだけのものではなくなります。
母方の祖母が亡くなり悲しみに暮れる中、母は私と父と弟に向けて”通訳“をしたのです(葬儀屋の指示を日本語に訳した)。
一生懸命に中文を勉強してきたのに母に通訳を「させてしまった」不甲斐なさ、自分の中文がまだまだ足りないという悔しさ、悲しさ、父と弟への怒りにも似た感情、私の気持ちはぐちゃぐちゃでした。学べば学ぶほど思い知らされる自分の未熟さ。
そうか、私はネイティブにはなれないんだ。
どこかでそう気付いてしまった時、私は「台湾人になりたかった」のだと何かを諦めたような、でもどことなく吹っ切れたような、そんな気持ちになりました。
散々台湾要素を見つけ出そうとしていた私は、台湾人にはなれませんでした。
私は日本人じゃない
中文がちょっと話せる日本人?
だってそもそも、自分より中文ができる日本人はたくさんいるし、同じように中文を話せない日本人もいる。日本語母語話者として中文という言語を選択して学んでいるんだから、ネイティブレベルにこだわらなくたっていいじゃん。
そんなことを考えるようになりました。でも日本人かと言われると、日本人と同じ選択肢を選んできただけで、日本人として生きてきたわけでもない気がする。
年一で台湾に帰省し、親戚に会い、家では中文も飛び交う。
『日本人』の環境とは異なるところが多過ぎる。
どうやら私が私に求める"日本人"像に自分は当てはまらなさそうだ。
「私は日本人です。」って最後に言ったのはいつだっただろう…?
私は自分を『日本人』とは言わない自分に気づきました。日台交流会とか留学生との交流会とか、相対的に日本人を選択したほうがいい場合を除き、自分で自分のことを『日本人』と言うのにはとても抵抗があるのです。
ハーフという呪縛
台湾人でも日本人でもないなら、じゃあハーフ?と聞かれると、「まあ両親の出身が異なる人のことをそう言うらしいね」という感じです。しっくりきていません。というのも、幼少期は自分がハーフであることに特別感を感じていましたが、私にとっては呪縛になってしまった言葉でもあり、あんまり好きな表現じゃないからです。
ハーフだから〜、と先入観を持たれるのも嫌だし、
どちらも分かっていなくてはいけない、と自分で自分の首を絞めている感じもして苦しささえ感じます。説明する時に楽、という理由で仕方なく使うことはあっても、自ら名乗ることはできるだけしたくありません。
『ハーフ』だからじゃなくて
これはハーフあるあるだと思うのですが、良いことも悪いことも『ハーフ』を理由にされることがあります。幸いにも私は悪い内容(例:ハーフだから日本語分からなくてもしょうがないね、みたいなこと)は言われたことがないですが、良い内容は記憶に残っています。(悪い内容を言われたことはあるかもしれないけど、思い出せないってことはすごく少なかったはず…)
・ハーフだから美人だね(ハーフだからではなく両親の顔がいいからです!!)
・ハーフだから中文が話せるんだね(めちゃめちゃ勉強したからです!!)
・ハーフだから頭良いんだね(得意な教科も苦手な教科もあります!!)
良い内容なら問題ないじゃないかと思われるかもしれませんが、両親のおかげのことや自分がしてきた努力を「ハーフだから」に集約されるのは良い気持ちはしません。また、一歩間違えれば以下のような悪口にもなりかねません。
・ハーフなのにブスだね(普通に失礼すぎる)
・ハーフなのに中文/英語話せないんだね(勉強しなかったら誰も話せないですが?)
・ハーフなのに頭悪いんだね(関係ねえだろ!!)
(すみません、少々取り乱しました…)
私は日本人/台湾人、あなたはハーフなのね
みたいに線を引かれた感じもしてしまいます。
私とあなた、ただそれだけなのでは?と思うのですが…
※『ミックス』『ダブル』という言い方もありますが、私は聞き慣れずこれらの表現もあんまりしっくりきません。
※『ハーフ』という表現も好きではないのはあくまでも私の場合であって、人によっては気にしない、むしろ嬉しいという方もいます。どう呼ばれたいか/呼ばれたくないか、ぜひ本人に確認してみてください。
日本人じゃないし、台湾人でもないし、ハーフでもない
「日本人」「台湾人」「ハーフ」
私がそれぞれの言葉に対してかなり厳密な定義を求めているだけかもしれません。
両親が台湾人という人が一度も台湾に住んだことがなくたって、その人が台湾人というなら台湾人だし、日本人という人の母語が日本語じゃなくたって、その人が日本人って言うなら日本人なんだと思います。
それと同じように、両親の出身が違うからといって私が「ハーフです」と言わない限り、私は“ハーフ”じゃないんです。
便宜的に呼ばれることはあるかもしれないけれど、自分では名乗りたくないと思います。
“ハーフ”という呼称が嫌いなのではなく、自分には合わないなと、自分を説明する単語として不十分だな、と思うから使いたくないのです。
同様に“台湾人”という呼称も“日本人”という呼称も、自分を表す単語として不十分だなと感じています。
アイデンティティを固めない
私にとっての「〇〇じゃない」という表現は、「〇〇」を否定しているわけではなくむしろ、「〇〇100%ではない」という意味にすぎません。数学のベン図*で言うとかなり広い範囲を指してくれています。
例えば、ハーフを表す集合を考えてみた場合、下記のような図ができます。
・ハーフの前提として両親の出身が異なる
1(青).出身(生まれた場所)が日本もしくは台湾
2(赤).バイリンガル
3(グレー).日本にも台湾にも住んだことがある
3つ全てに当てはまる人は中央の白い部分。私が私に求めていた『ハーフ』はこの白い部分に当てはまります。でもめちゃくちゃ少ないですよね…?
私の場合は
1(青).出身(生まれた場所)はシンガポール
2(赤).勉強したので一応バイリンガル
3(グレー).日本にしか住んだ記憶がない
ので、青ではない かつ 赤 かつ グレーではない
となり、かなり広い範囲(白の斜線部分)に当てはまります。
中央の白い部分に当てはまらないけど、事実として両親の出身が異なること、バイリンガルであることが挙げられます。
私は性格的に言葉に囚われがちです。『“ハーフ”という呪縛』でもあったように、ハーフはハーフらしくしないといけない(=日本語も中文も話せないといけない)と自らの首を絞める傾向にあります。
図は『ハーフ』を表していますが、私の思う『日本人』『台湾人』も同様に複数の条件が全て当てはまることを私自身に求めてしまいます。
だから私は、アイデンティティを固めないことを選びました。
多くの人には日本人に映るかもしれないけれど、私は日本人じゃないです。
台湾人でもないです。
ハーフでもないです。
私は○○だ!××だ!という認識の仕方ではなく、
私は○○ではない!××でもない!
という考え方もアリなんだと思います。
改めまして
私の名前はMikiといいます。
父が日本人、母が台湾人、
私は日本人でも台湾人でもハーフでもありません。
よろしくお願いします!
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