見出し画像

台湾人になりたかった(1)母に中文で話してと頼む

こんにちは、Mikiです。
自己紹介を読んでくださった方もそうでない方も、
見つけてくださりありがとうございます。

自分が何者なのか、考えが深まった契機を残しておこうとnoteを書き始めました。

私が一体何者であるかを語るにはまず、言語について触れておく必要があります。


日本語ペラペラの母と幼少期

私の母は台湾人です。母の母語は中文(※中国語のこと)。
日本語はというと…
ペラペラです。それはもう、言わなきゃ分からないくらいペラペラです。イントネーションも自然でとにかくペラペラです(大事なことなので3回言いました笑)。
しかも通訳の仕事をしています。
さらにN1*(日本語能力試験の一番難しいレベル)も持っています。
本当にすごすぎて言うことありません…。
おかげさまで(?)、我が家では主に日本語で会話をしています。

*N1:幅広い場面において自然なスピードの、まとまりのある会話やニュース、講義を聞いて、話の流れや内容、登場人物の関係や内容の論理構成などを詳細に理解したり、要旨を把握したりすることができる。

日本語能力試験HP「N1~N5:認定の目安」より一部抜粋)

私は幼稚園から大学まで日本で過ごしてきました。どれも日本の学校です。
2歳の時は台湾にいたそうですが当時の記憶はありません。そのため私の母語は日本語(+ちょっぴり中文)です。
そんな私が小学生にあがってしばらく経った頃、たしか2,3年生だったと思います。
いつものように宿題をし、母と会話をしていました。
この頃は学校の友だちも増え日常的に日本語を話していましたが、ちょっぴり中文が分かる自分を誇らしく思っていました。
しかし、母に言われた一言によってその気持ちは変わってしまいます。


反抗期

母「幼稚園の頃はもっと中文できたのに忘れちゃったのね。もったいない。」(こんな感じのこと)

母のこの一言で、私にとって誇らしかった中文が少しずつ形を変えていきます。今思えば過去を美化するのはよくあることだし、
忘れたもなにも幼少期の記憶がないので…中文ができたかどうかさえ私には知る由もないのだから、もったいないもなにもないんですけどね…

でも当時の私は、

中文を思い出さなきゃいけない
できてたことができなくなってはいけない
中文ができないと母を悲しませる

という思いと同時に、

今生活してるのは日本だし日本語を主に使ってる
学校でも日本語しか使わない
成績に関わるのはむしろ英語
なんで中文を話さなきゃいけないんだ

という反抗心も生まれました。

そこからしばらく中文を話さないようになりました。

中文でやり取りしていたことも日本語で。
母から中文で話しかけられても日本語で返す。
聞けば意味は分かるし、中文を話した時に発音直されるのも嫌だし。
そう、例えばこんな風に↓↓↓

    例1:(ある夏の暑い日)
   私:今日暑いね
   母:そうね、多喝水(お水たくさん飲んでね)

   例2:(買い物から帰ってきた時)
   母:這個放冰箱(これ冷蔵庫に入れて)
   私:はーい
   母:你要吃水果嗎?(果物食べる?)
   私:今はいいや

……頑なに中文を話そうとしませんでした。


このままじゃいけない

しかし、ある時ふと思ったのです。

もし母が認知症になったら日本語を話せなくなるんじゃないか?
母語である中文しか話せなくなるんじゃないか?
そうなったら私は母とお話できなくなるんじゃないか?

そんな考えがよぎりました(おそらく認知症に関するテレビかなんかを見たせいだと思うのですが、なぜかあんまり覚えていません…)。

私は日本語が上手な母に頼みました。

私には中文で話して!

父も弟も日本語で話すので家庭内言語は相変わらず日本語でしたが、母と私は基本的に中文。
自分の言いたいことをうまく表現できない時は「○○ってペキンゴ*でなんて言うの?」と母に質問。あまりに何回も聞くので「○○はなんて言うの?」だけで中文の質問だと通じるように。
私の中文の実力はどんどん伸び、父よりも弟よりも中文が上手くなっていきました。私と母が中文で話すと父がポカンとしてしまうくらいに(笑)。

*ペキンゴ(北京語):北京话(běi jīng huà)のこと。"中国語"を指す言葉の一つ。我が家では中文のことをペキンゴど呼んでいました。

高校に上がる頃には、台湾にいる親戚とも中文で不自由なくやり取りできるくらいになりました(幼稚園の時に日本に来てからも、一年に一度は台湾に帰省していました)。
おじ(舅舅jiù jiu)やいとこ(表哥biǎo gē)たちも、私の中文がうまくなった!とたくさん褒めてくれました。

   いとこ:Miki的中文非常好!(中文とっても上手!)
   おじ:已經幾乎都聽得懂吧(ほとんど聞き取れるよね)
   私:那你們不會說我的壞話喔!(じゃあ私の悪口言えないね!)
   いとこ・おじ:哈哈哈!沒錯!(ハハハ!確かに!)

台湾へ帰省したらどこへ行くにも基本母がいてくれますが、
この頃になると伯父と弟と3人だけで出かけたり、
父と2人で夜市(yè shì)に出た時はレジでのやり取りは自分が担当するまでになっていました。

しかし、身近に「中文の先生」がいる環境も長くは続きませんでした。

大学進学を機に実家を離れたので、「これペキンゴでなんて言うの?」と思っても聞ける母は遥か遠く。私のまわりに中文を話す人はいなかったのです。

台湾人になりたかった(2)台湾短期留学へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?