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「アレはどこだっけ?」「アレはそこですよ」が通じてしまうのはどんな時?

その前に"I don't like natto. "の続きから

さて、前回は「意味のストライクゾーンの違い」のために起こりがちなコミュニケーションの問題の例として、「私は納豆が苦手です」を英語にした時に、しばしば ”I am not good at natto. ” という訳されてしまうことがあることを挙げました。

これは日本語の「苦手」という言葉が「ストライクゾーンが広い」ために起きてしまう問題なので、よりユニバーサルな "I don't like natto." の方がいいよね、というところで終わっています。

さて、ならば" I don't like natto."  だったらどんな場合でも通じるのかと言えば、そうではありません。

当然のことですが、"natto"=「納豆」を知らない人からすれば、”What is it?" ってなるわけです。

そんなの当たり前じゃん、って思うかもしれませんが、当然知っていると思っていることを実は相手は知らなかったり、自分が英語だと思っている言葉が実は英語ではなかった、という例は非常にたくさんあります。

まあ、単純な例だと”I like パン." みたいなやつですね。

「パン」は英語で bread ですが、「パン」が英語だと思っている人も英語初心者には案外たくさんいます。

ところが日本語の「パン」は英語の pun(ダジャレ)に聞こえるので「ああこの人はダジャレが好きなのか」という誤解も生まれる可能性があるわけです。

コミュニケーションが成り立つ条件とは何か?

このように、相手が当然知っていると思っていることが共有されていないとコミュニケーションというのは成り立ちません。

極めて当たり前なことではありますが、この共有の問題というのは異なる文化、言語、習慣さらには世代や性別の間で結構根深いものとなっています。

私くらいの年代になると若い人の使う省略語はよくわかりませんし、最近話題の「NFT]とか「メタバース」などという言葉も今のところはわからない人の方が多いでしょう。

そして、自分にとって当たり前だと思っていることが相手に共有されていない時に「なんで知らないの?」という不満をぶつけてしまうことが往々にしてあるのですが、これは考えてみたら怒ってもしょうがない部分なのかもしれません。

老夫婦の奇跡のコミュニケーション

一方で「えーっとあれはどこだ?」「あれはそこですよ」みたいなほとんど具体性の無い会話であっても、長年連れ添った夫婦だったりするとそれで通じてしまうこともあります。

それは旦那さんが朝新聞を手に目を細めてキョロキョロしていたら、奥さんは「ああ、新聞を読むためにメガネを探してるんだな」と察知し、さらに旦那さんがいつもよくメガネを置き忘れる「例の場所」を「そこにあります」と表現して教え、それを聞いて旦那さんは「ああ、いつものそこか」で会話が成立するわけです。

これは二人が長く連れ添う間に他の人にはわからない共有の知識や認識があることで可能になるコミュニケーションだということになります。

ということは、人と人がより理解を深めるための原則として、「共通の知識や認識」を広げ、深めていくことが重要だってことになりますね。

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