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左脳派でも鈍った感性を呼び覚ませるのか【Well-being思索記vol3】

自分の感性は、しっかり耳に届いているだろうか。

well-being思索vol2では、自己表現と感情表現の違いを明らかにし、
感情表現、すなわち「心が世界をどう解釈しているかを表現すること」の尊さを検討した。

今回は、そもそも
「私は、心がどの様に世界を解釈できるかを認知できるのだろうか。そして、どの様に認知すれば良いのだろうか。」
ということを思索していきたい。

つまり、自分の感性を呼び覚ます方法についてだ。

サンプル数の少ないデータではあるが、僕の周りでは女性の方が自分の感性に敏感で、自覚的な人が多い。
いわゆる右脳派だ。
一方、僕は多分いわゆる左脳派だ。
何が違うのかというと、

眼前に現れた、ある現象に対して、
右脳派は、
「その現象を受けた自分がどう感じたか」を真っ先に感じるし、大事にする。
現象の本質にはさして興味がない。

一方左脳派は、
「その現象は何故起きたか」を真っ先に分析し始める。
現象を受けてもそもそも心が動きづらい。また、動いたとしてもそれが自分の思考や行動に与える影響は少ない。

具体例を示すと、
殺人事件が起きたとき、

右脳派は
「ああ、とても悲しい。平和な世の中になってほしい。」
左脳派は
「この事件が起こった環境要因はなんだろうか。」

他人に「バカ!」と言われたとき

右脳派は
「なんでそんなこと言うの。ムカつく。」
左脳派は
「(ガチで)なぜ相手はバカと言ったのだろう?」

また、発信する際も

右脳派は、
相手も感情を大切していると思っているので、わかりやすい言葉を選ぶ。
一方左脳派は、
相手もしっかり自分の文脈を読み取ってくれるだろうと思っているので、周りくどい言葉、正しさに拘った言葉、メタ的なメッセージがこもった言葉を選ぶ。

(わかりやすさのため、「右脳派/左脳派」と二項対立で整理しているが、実際はグラデーションであり、全ての人が綺麗に分類されるわけではない事は明記しておきたい。)

僕は何事もすぐにその現象の背後にある構造を突き止め、本質に迫ろうと思考が働いてしまう。

そのため毎回自分の感情は二の次になってしまうのだ。

それが良いことなのか悪いことなのか置いといて、少なくとも僕は感情を素直に表現できる人に、人間らしさを感じる。
しかし、僕の場合は、感情を表現できるか否かの前に、
・感情が動いているか
・動いた感情を認知しているか

つまり表現すべき感情を明らかにしなければならない。

自分の感情を明らかにするメリットは他にもある。
右脳派とコミュニケーションを取るとき、想像力を働かせ、相手への配慮を意識しやすい。
主観的な真実が正義か、客観的な真実が正義か、この分断を大きく超えたいのだ。

今回の本題は、そんな左脳派の僕が
鈍りに鈍っている感性をどう呼び覚まそうとしているのかを紹介したい。


ずばり


「アートへの触れ方を見直す」
ということだ。
最も感情を動かしてくれるものと言われて真っ先に想起するものはなんだろうか。
僕の場合はアートが最初に想起された。

エンタメも候補に上がったが、
エンタメは強制力が強い。
「自分は悲しいと思った」のではなく、
エンタメによって「悲しくさせられてる」方が強い。
つまり製作者側が僕の心をデザインしているような感覚だ。

万人がほぼ同じ感情になるのがエンタメだ。

一方アートは、製作者側が閲覧者の感情までデザインする事は無い。と言うか、それはアートでは無い。デザインだ。

アートは受け手が解釈する余白をしっかり残している。

ところが、僕の場合、やはりいつも分析してしまう。
「なぜこのような表現になったのだろう」
「この表現は何を示しているのだろう」
「どのような歴史的背景があるのだろう」
「この表現はどのようになされているのだろう」
「何がこの作品の凄さたらしめているのだろう」

など。
こういったアートへの触れ方を意識的に変える必要がある。

それは何かというと、、、
「この作品を見て僕はどう思っただろう」
にひたすら向き合い続けると言う事だ。

先日上野の国立西洋美術館に行ってきた。

学割万歳!

その際は、
「作品を見て何を感じたか」を言語できるまでその作品の前から離れない
と言うルール
を課して観にいった。


これがすごく難しい。。。

通常、平均滞在時間は1時間ほどで、長い人でも3時間くらいらしいのだが、
5時間ほども滞在してしまった。

すごく疲れた。

自分の感情に向き合うと言うのはこれほど難しい事なのかと実感した。

作品を前にすると気がついたときには自動で分析的思考に切り替わってしまう。だから気がついたタイミングで感情に目を向けるよう都度都度直す。

でも普段感情に向き合ってない僕は自分の感情に気づくなんてのは至難の技。全然何も感情が湧いてこない。

だからちょっとした心の動きを逃さずキャッチすることが求められた。

それをすぐさま言語化してみる。

ただ感情を示す言語も多く持ち合わせていないので、最初はありふれた言葉しか出てこない。
「虚しさを感じる」とか、「楽しい感じがする」とかだ。
しっくりした言葉に落とし込まれるまでも時間がかかる。

でも徐々に、

「希望が見えた時の喜び、と言うより、安堵のフェーズに入った喜びを感じる」

とか

「カテゴライズ不能な物体が出てくる時、自分の既知の概念を駆使して解釈を試みる。それでも解釈ができなかった時は、一定モヤモヤが残るがもはや解釈できない理解不能というカテゴリーに入る。そのカテゴリーに入ったものに対して他人の解釈のレンズを通した瞬間理解不能カテゴリーから脱してしまう。そのことにもモヤモヤを感じるから、理解不能なものは理解不能なものとして理解したい」

(↑鑑賞した時のメモなので何言ってるか分からないと思いますが、、、)

と言ったように、具体的に作品を観た時の感情やその感情が呼び起こされる背景を認知できるようになっていった。

自分の感情を認知するトレーニングとしては、かなり良い方法だと思う。

この体験を通して、
いかに今まで自分の感情を見過ごしてきた事かを実感したし
見過ごしたことで失ったであろう僕の人間としての土壌の存在を自覚した。

「現象に対して感情を抱く」という事は、その現象との繋がりを持つという事だと思った。


「分析」を通じての関わりは、被験者/実験車という、極めて構造的で希薄な関係だ。
一方、
「感情」を通じての関わりは、二項対立的に語れない関係を構築することになる。つまり関係に役割が付与されない。


二項対立的関係は、人工的な関係だ。
一方、非二項対立的関係は、自然の中で育まれる偶然的な関係だ。

「人間」というものを感じるにあたって、やはり二項対立的な関係の理解だけでは到達できないのだと感じた。

とても言語化が難しいのだが、
言語化する時点で感覚が人工的なものに再生産されるだけなので、
このままふわっとした感覚のままでも良い気もしている。

とにかく、贅沢な時間だった。


22年間左脳派として生きてきた僕なので、まだまだ自分の感性認知能力は高くないし、
でもだからこそ、探索のしがいがある。

右脳派だろうと左脳派だろうと、
是非、今一度自分の感性に耳を向けて頂きたい。

もし美術館めぐり興味ある人は是非ご一緒に
DMお待ちしてます。

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