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【エッセイ】成長と欲求

あなたは『成長』という言葉にどのような印象を抱くだろうか?

「前向きな考え」「面接の志望動機」「意識が高そう」

いい意味で捉える人も悪い意味で捉える人もいると思うが、私は肯定的に捉えている。
むしろ肯定を超えて『人生のテーマ』としているくらいだ。

今回は私の人生のテーマにもなっている『成長』についての考えを綴っていく。

まず、私にとっての『成長』とは何かを定義しておく。

私の考える成長は、
過去の自分を振り返った時「あの時は未熟だったな」と思えることだ。

例えば、私はエンジニアを本業としておりプログラムを書いているのだが、業界に入りたてのころは右も左も分からなかった。ネットで見つけた情報を意味も理解せずそのまま流用してバグを出してしまう、なんてこともしばしば。
今となっては、その行いがいかに危険なことだったかを理解しているし、業界についても詳しくなったので「あの時は本当に未熟だったな」と感じる。

スキル面以外でも、周りの人々や社会に対する見かた、性格の変化などを実感した時「あのころは無知だったな」と思うことがある。

このように過去の自分と今の自分を比較して、今の方がレベルアップしてると感じられることが『成長』だと思っている。
成長は過去との比較なしに感じられない。

そんな『成長』を人生のテーマに掲げている私の内側はどうなっているかというと、

「成長をやめてしまえば死んだも同然」
「常に何かをアウトプットするためにインプットを繰り返す」

こんな感じの過激派ハードモード状態。成長にとりつかれているようだ。

私は、半年から一年に一回周期で『自己分析』をする(したくなる)のだが、その度、最初から決まっていたかのように『成長』というワードが頭に浮かんでくる。
そのワードを何の疑問もなく選択するので、自己分析メモの一番上には毎回『成長』と書かれている。

なぜ『成長』に対してここまでのこだわりを持っているかを掘り下げてみると、

「今の自分を誇りに感じ、自分自身を肯定できる」
「周りから『努力してる』『実力がある』と認めてもらえる」

という感情があることに気がつく。
そして、その感情の根源は『承認欲求』である、という事実を分かりやすく突きつけてきた。
忌々しく、逃れることのできないアレだ。

瞳に未来を爛々らんらんと映し「私は『成長』を人生のテーマにしています」と聞こえの良い言葉を並べながら、本心では自分自身からも他人からも承認を受けようとしている。
言葉とはとても便利だ。

結果、自身の承認欲求を正面から認められない私は『成長』を盾に自分を鼓舞し続けているのだが、もちろん疲れる時がある。こんな成長過激派の考えをしているのだから当然だろう。

そういう時、noteの記事やSNS、本などを読んでいるとやたら目に入ってくるのが
「今ある幸せに気づく」「何気ない日常に感謝する」といったワードだ。
この言葉を見た瞬間は自分を客観視し「恵まれているな」と感じることができる。
「衣食住に困らない」「大きな病気や怪我もない」「今日も生きてる」
このような当たり前は当たり前じゃないんだ、と。

しかし、同時に違和感も感じる。

この客観視は客観的な他人との比較だと。
そういった当たり前が叶わない人と自分を比べて優越感に浸っているだけ。
自分で書きながら、なんとも卑屈な考えだと思う。
単純にあの言葉の本質を理解できていないだけかもしれない。

とは言っても、その当たり前が自分から奪われれば、困惑、絶望するのは容易に想像ができる。
『成長』はそれら『当たり前』の上に成り立っているのだから。

アメリカの心理学者であるクレイトン・アルダーファーによって提唱されたERG理論というものがある。この理論は人間の欲求について言及されたものだ。

ERG理論
  • E: Existence(生存欲求)

  • R: Relatedness(関係欲求)

  • G: Growth(成長欲求)

の三つで構成され『成長』が最も高次の欲求となっている。

これの図を見た時とても腹落ちしたのを覚えている。

私はもう十分に生存欲求は満たされている。衣食住に困らないし、身の危険を感じることもない。
さらに身の回りや職場の人間関係にも恵まれている自覚があり、関係欲求も満たされている。
だから、必然的に『成長』を求めてしまうのではないか?

自身の『成長』と『承認欲求』の関係を紐解いた後にこれを見ると、成長欲求は承認欲求や物欲、知識欲など、あらゆる欲望を原動力としている強い欲望なのではないかと感じた。

今ある当たり前に目を向けるだけでは抑えきれない人間丸出しの欲望。

「あの人のようにたくさんの人に認められたらどんな気分なのだろうか」
「あんな家に住んで過ごす日常はどれほどのものなのか」
「もっと色んな知識や経験を得た後に見る世界は私の目にどのように映るのだろうか」

もし、誰かに「そんなものは大したものじゃないよ」と言われても納得できない。本当に同じ気持ちになるかは自分で体験しないと分からない。その物事が簡単には手に入らないものであればあるほどに、そこに到達したいと思ってしまう。であれば、今より成長するしか無い。
もしそれが叶った時、本当に「大したものじゃなかったな」と感じたならそれも経験。後のことはその時考える。

そうやって『成長』という仮面を被って欲望のまま進み続けるしかない。

そして、この欲求に終わりがくる時になってやっと、何気ない日常のありがたさを感じ、渇望することだろう。

後にこの文章を見返した時、私は『成長』を感じるだろうか。

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