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メタバース「見せる情報量カットでコミュニケーションに集中」 - 発達障がい者から見たVRアバターが自由である意義

 私は自閉症スペクトラム障害で障害者手帳1級。脳の処理能力が知能テストで70と非常に不便な肉体を持っている。コミュニケーション自体は好きなものの、常に相手の相手の目が気になって自分の身体の動かし方などを気にして消耗してしまう。雑音などの周囲の情報量が多いと集中できないうえに、異常に疲れる。これは、肉体や現実世界の情報量が発達障がいを持つ私には多すぎるからではないかと考えている。

 VRメタバースでアバターを使ってコミュニケーションを取ると、やりとりできる情報量を調整できる。周囲の雑音がうるさければ、音量を下げてしまえばいい。自分の肉体に気を使う必要もない。メタバース上の身体であるアバターも、笑う元気が無い時に賛意を伝えようとすれば、笑顔の表情を選択すればいいだけだ。相手もわかりやすい反応で示してくれる。もちろん、表情トラッキングで実際の動きを反映してもいい。選択肢の話だ。

 アバター自体も自分で表現できるため、最も自分が見せたい姿で相手と交流ができる。現実の肉体のように「恥ずかしい」ことを気にして脳のリソースを無駄に消費する必要がない。漫画的表現の存在でもいられるため、発達障がいが原因で出てしまう現実の肉体では不自然で「嫌われてしまうのではないか」と気になる動きも、キャラクター的で自然に受け入れられる。

 現実世界での私は地方紙の記者をしていた。実際に人間と向き合う仕事で、コミュニケーションのたびに集中して脳のリソースが尽きてしまうため、なかなか深い話ができず、数をこなすうちに消耗してこれ以上思考ができない状態になってしまう。現場や警察署で、「何を聞こうか」と同時に「変な風に見られたらどうしよう」という思考が割り込み、恐怖で背中から汗が噴き出す。上司から「不審だよ」と注意されたこともある。

 しかしVRメタバースなら、疲れたとき一時的に存在と観測をやめてしまえばいい。今の私は、前よりは気軽に人と話すことができるようになった。メタバースで自分の存在に気を遣わずにコミュニケーションをしているうちに、現実でもその習慣が身についてきたのだ。

 肉体という自分の意思ではどうにでもできない物体が、そのまま他者から見られる存在に直結する前に、アバターというインターフェースをワンクッション置くことで、本当に自分がやりたかったコミュニケーションに集中することができる。アバターで自由に自分を表現することは、コミュニケーションのインターフェースとして、自分がいちばん使いやすいように存在をデザインすることも可能になる。アバターは私にとっては認知の電動車いすのようなものだ。

 コミュニケーションのコストが掛からないのならば、「他人を巻き込んだ活動」もやりやすくなる。現実では何も出来なかったものの、メタバースでは「コミュニケーションを取る」「話し合う」「集まる」ことが簡単だ。発達障がい者の私にとっては、メタバースは「やりたいことをするため」の福祉システムでもあるのかもしれない。

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