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羊角の蛇神像 私の中学生日記⑫

ひとりの寮生活

入所してしばらく、寮生は私ひとりだった。
寮長先生が退屈しないように漫画版三国志を貸してくれた。
私は漫画好きだったが、呂布が聖骸布の力で「聖帝⭐︎ざんぎりウォーリョンリョン」に進化して、聖槍「ロンギヌスディルド」を持ってダークジパングに侵攻する辺りで読むのをやめた。

私は古典が苦手だ。
勿論作品によっては好きなものもあるが、漫画・映画・音楽など、古い作品があまり好きではない。
それぞれのカルチャーには時代の技術や価値観が反映されており、古い作品には少なからず今の自分の価値や感覚と乖離がある。
それを興味で補うような処理が苦手で、古い価値観から学ぶという姿勢が欠けているのだろう。
ビートルズや「市民ケーン」に興味を持ったことがない。
例外的に、つげ義春は好きだ。

しかし、寮の食堂の本棚にあった「スラン」という古いSF小説は読了したと思う。
内容は全く覚えていない。

寮の庭の隅に鶏小屋があった。
その小屋は中の仕切りでふたつに分かれており、手前に1匹の雄鶏と5匹の雌鶏、奥には大小のうさぎたちがいた。
私はそこで彼らを抱いてぼんやりしたり、餌を与えたりした。

寮長先生は十景の中で、最も農業を愛する人だった。
定期的に回収する鶏やうさぎの糞も、畑の追肥として使うことがあったし、野菜の食べられない所や枯葉などを、木材で作った高さ150cm程の箱のような所に溜めて発酵させて腐葉土を作ったりした。
一輪車(手押し車や猫車とも呼ぶ)に肥料のタネとなるクズを山盛り積んで、この箱に板を渡した30度ほどの傾斜を駆け登ったりした。

こういうグリーンの一輪車を使っていた

その箱の一面は、板を上にスライドして開けることができた。
野菜や草花のクズだったものが、底の方では黒い肥沃な土となっており、自然の偉大な力に感動したものだった。

学園での職歴の長い先生ほど農業に精通していた。
他の寮の寮生や先生たちも基本的には一年を通して何らかの農作業に参加するのだった。

日中はそういう作業をし、余暇時間には動物と触れ合ったり本を読むなどして、学園の生活にゆっくりと慣れていった。
入所してすぐには本館(敷地内の学校)に行かなかったと思う。
まずは寮の生活になれてから、徐々に活動範囲を広げていこうという、登校拒否エリートの私に対するケースワーカーや園側の配慮だったのかも知れない。

野山を駆ける

朝、決まった時間に寮長先生はNHKのラジオをつけた。
大音量のラジオの声や音楽で私たちは目覚めるのだった。
身支度をして、玄関前や庭などを掃除した。
朝の起こし方は寮によって違うと思うが、他の寮の子どもたちも同じ頃に表を竹ぼうきで掃くなどしていた。

掃除が終わると、グラウンドを5周走った。
寮長先生は長距離走が趣味だった。
独特の、体を斜めに振るフォームで軽やかに走る先生と、元々運動が不得意で昼夜逆転していた私との体力にはかなり差があったと思う。

グラウンドを走り終えるとそのまま崖のような所を駆け上り、山道を走った。
このコースは犬たちの散歩コースでもある。
でこぼこした山の中の道を3周ほど走っていたと思う。

これらのコースを朝夕2回走る私たちは現代の忍者集団のようだった。これは私たちの寮の独自の活動だった。

先生は農業だけではなく、走ることに関しても十景No.1だった。
「U寮は走らされるし作業多いししんどそうやな」と他寮の子に言われることがあったが、私はそう思わなかった。
走ることも、作業も、たいへんだったが嫌いではなかった。

十景の中には、寮生の運動や作業を監督するだけの人もいた。中には初老の先生もいたので無理はしなくて良い。
ただ、うちの寮長先生がいつも一緒に取り組んでくれたのは嬉しかったと思う。

走る喜び

私は走るのが遅かった。
走るだけではなくあらゆる運動が苦手だった。

小学5年生の夏休みに4回目の転校をした時のことを話そう。
2学期の始業式には私以外にも何人かの転入生がいた。
私たちは全校生徒に向かって挨拶をするために、号令台の横に並んでいた。
「5年にイギリスから来たやつがおるらしいで!」
色めき立つ5年生たちの声を聴いて私は苦々しく思った。
「その帰国子女はぼくじゃない」

転入早々、帰国子女のやつと比較されるのはいやだったが、私と帰国子女の男子は同じクラスに入った。
彼は小柄で少しふくよかだったが、育ちの良さそうな、イギリスの風景が似合いそうな少年だった。
栗色のマッシュルームカットの下で利発そうな印象的な目をしていた。

私たちの初めての体育の授業は体力測定だった。
50m走で私は彼と一緒に走ることになった。
みんなが転入生ふたりの力量を見るために固唾を飲んで見守っていた。

結果、私たちはほぼ同時にゴールした。
しかし、私たちを見守るクラスメイトたちは、その顔に失望の色を隠すこともせず、散り散りに去っていった。
私たちの50m走の結果は驚異の11秒だったからだ。

学園で朝夕走る時にタイムを測っていた。
後半は山道を走るので、道に慣れることでそれは確実に縮んでいった。
数字として結果が出るのがうれしくて私はがんばった。
ある朝、私はグラウンドを走りながら、突如として「早く走る走り方」を頭で理解した。
効率的な手足の振り方、最も効果的なそのタイミングを感じ取りながら体を動かす。
長い間ばらばらだった心と体が繋がったようで心地良い疲労感が私を満たした。
それからはどんどんタイムが縮んでいった。
高校の授業では7秒を切ることがあった。
素晴らしい成長ではないか。

私は走ることに自信や喜びを感じて、うれしかった。

健康的な生活を送り、寮生活に慣れてきたある朝、学生服を着て本館へ行った。
私のことはちょっとした噂になっていた。
何人かの子どもに次のような質問をぶつけられ、私は始めその言葉の意味がわからなかった。

なぁなぁ、まじめなん?

その男、不登校につき

施設内の学校、即ち本館には、その校舎の大きさからするとかなり少ない人数の子どもたちが登校していた。

中学生は男女ひとりずつ。
私の学年も他に3人ほどしかいなかった気がする。
3年生は10人ほどいたかも知れない。

授業が終わり、寮への短い帰り道、私は他寮の3年生から質問された。

「何してここ来たんや?」とたずねられて、「登校拒否…、学校に行かなくて…」と答えた。
私の答えを聞いて、「学校行かへんかっただけでここ来たんか?ウソやろ!」とその人は笑った。

家栽(家庭裁判所)
審判
保護処分
鑑別所

私は学園でこれらの言葉を知った。
なぜなら、学園にいる中学生の殆どが、少年法における保護処分として学園に送致された子どもたちだったのである。

他の子どもたちの素性や背景を知るにつれ、私が「まじめか?」とたずねられた質問の意味や、なぜ私の入所が噂になっていたかが理解できた。

私は、不登校で学園に入所した、初めての子どもだったのだ。

学園でも異邦人だった私に、事件はそっと忍び寄る。
弱肉強食の修羅の園で果たして平穏に日々は過ぎゆくのか。

羊角の蛇神像⑬へ続く

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