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羊角の蛇神像 私の中学生日記⑲

冷たい町

線路沿いに歩くことのリスクを学んだ私の冒険のステージは、線(x)から面(xy)へと一拡大した。
地図と土地勘とサバイバルスキルの無い私にとって、無闇に移動することは、体力を無駄に削り、迷子になることを意味していた。
しかし私は歩き続けるしか無かった。

大きな工場や企業のビルばかりが並ぶ町へ来てしまった。
人の家や店が無い工業地帯は、私の心細さを倍増させた。

喉が渇いていた。
そうだ。
お腹も空くし、水分も必要だ。
プロの引きこもりで夜の国の元王である私には、サバイバルスキルが欠けていた。

あてどなく彷徨うこと、金銭や食べ物を持たないこと、それらの不安に不意に襲われ、たまらない気持ちになった。

とにかくそこは寂しくて、悲しい気持ちになる町だった。
滅入る気持ちを奮い立たせて次の町を目指した。

スマートフォンで地図を見ながら移動ができる。キーワード検索で目的の場所を探し、経路も案内してくれる。
そんな未来が来ることなど想像できなかった野蛮で愚かな私の足は、鉛のように重かった。

リコペルシカム・エスキュレンタム

山間の田園地帯を歩いた。
のどかな田舎の風情が不安な心を慰めてくれた。
喉の渇きは限界だった。

畑があり、見事なトマトが成っていた。
トマトが好きというわけではなかったが、あれをむしゃりと食べたらどんなにおいしいだろうと想像した。

はち切れんばかりに膨らんだあの赤い実に詰まった全てのものが、どんな高級食材よりも魅力的に感じられた。
張りのある薄い皮も、白っぽい種も。
そして、あの果肉。
口の中で弾けて、止めどなく溢れる赤い果汁が喉を潤す。
私の幾億の細胞たちが、トマト祭りに歓喜する。

リコピンが呼んでいる!

しかし。赤の魔術に心奪われ、人目を盗んでそれを手にする自分の卑しい姿がまぶたに浮かんだ。
それらのトマトを毎日世話した人の顔や姿が浮かんだ。
それをおいしそうに食べる誰かを見て、その人は満足して微笑むのだ。
育てた甲斐があったな、と。

トマトは学園でも育てていた。
トマトは貧栄養土壌で生まれた作物であり、肥料の与え過ぎは成長に支障があるというような話を聞いたことがある。
学園の農場のトマトは、適度な肥料を与えられていたのだろうか。ビール粕や鶏糞などの有機肥料をやたら与える印象があった。
私たちが育てて収穫したトマトは、食べたことの無い、甘い甘い果物の味だった。
市販のトマトとは異次元の甘さで、ジュースもすごくおいしかった。

学園のトマトとは違って酸っぱいかも知れないが、喉の渇いた今の私にはご馳走に違いなかった。
一方で、それを一生懸命育てた人から奪うのは、あまりにもひどいことだと思った。
育てる人の気持ちが私にもわかるのだから。

私は目をぎゅっと閉じてその場を離れた。

トマトのことで頭がいっぱいになりながら歩いていると、ある民家の軒先にプランターがあり、赤く萌える小さな果実が揺れていた。
ミニトマトだった。

1000円を盗むのと100円を盗むのでは、罪の重さは同じだろうか?

否、違う。
あの3億円事件も、被害額が3万円ならあんな大騒ぎになっていないはずだ。

私は「ミニだったら良いじゃない」という内なる悪魔にそそのかされて、ミニトマトをひとつ盗むと、ポケットにそっと仕舞った。
目だけで辺りを伺いながら100メートルほど進むと、周囲を警戒しながらそれを口の中に入れた。

赤く小さな太陽が、口の中で炸裂すると、私の視界は涙で歪んだ。
それは言葉にならない程おいしくて尊かった。

あの時、ミニトマトを盗んでしまってごめんなさい。
ありがとう。

賽銭泥棒から施しを受ける

ミニトマトの偉大なる恵みに感謝しつつ、なおも喉は渇き、お腹は空くのだった。
人気の無い郊外の道を歩いていると、小さな神社に怪しい中学生がいた。坊主頭の短い髪を明るい茶色に脱色したその男の子は視力が悪いのか、目を細めて私を見た。
私は彼を知っている。
学園を少し前に退園した他の寮の1年生だった。

「おお!Lくんやんけ!どないしたん、こんな所で」

人懐っこく笑いながら彼は近づき、スリッパを履いた手ぶらの私をじろじろと見た。

「もしかして『とんこ』したんか⁉︎やるやん」

まじめ枠の私が無断外出をしたことを、後輩の筆おろしをねぎらうように喜んだ。
そんな彼は賽銭泥棒をしているところだった。

学園には、卒業前に自宅へ戻る子どももいた。
本人の素行が良いとか、受け入れる環境が整ったとか、保護観察が終わったとか、そういうことだろうと思う。
いずれにしてもそれは10人に1人いるかどうかのレアケースだったと思う。

賽銭泥棒なんてやっていたら、また学園に戻ることになるのではないだろうか。そんなことが頭をよぎったが、今は他人の心配よりも自分のことだ。私はお金を持っていないことや、お腹が空いていることを伝えた。

彼は「任しとけ!」とうれしそうに言って、眉毛のへの字を縦に吊り上げた。

彼の住む町へ移動する途中にも、彼は賽銭箱を覗いたり、自動販売機の釣り銭口を漁るなどしていた。
コンビニの表に私を待たせて、惣菜パンとパックのジュースを買ってくれた。
彼はすっかり頼りになるタフガイとして舞い上がっており、いつの間にか私を呼び捨てにするなど持ち前のお調子者ぶりを発揮していたが、とにかくありがたかった。

駅ビルのような建物の、ひと気の無い階段の踊り場でしばらく待っていると、彼は白い半袖シャツと学生服のズボン、それからシューズを持ってきてくれた。トイレかどこかで私は着替えて、着ていた服やスリッパをビニール袋に入れた。

野宿の夜

服を着替えて礼を言うと彼は帰宅した。
明日また会う約束をした。
その時に2,000円をくれると言う。
なぜここまで親切にしてくれるのだろう。
賽銭泥棒をする不良少年ではあるが、私にとっては救いの神だった。

夜になるまで私はどこか屋内で時間を潰したように思う。
暗くなってから寝床を探した。

鍋やコタツの足の話が強調されてしまったが、季節は夏の終わり頃だったかも知れない。外で凍え死ぬような季節ではないことが、救いだった。

ここでひとつ断っておくべきことがある。
実は私は学園にいる間、トータル4回の無断外出をした。
そのため、季節や出来事が曖昧になっている。
この旅は、それら4回の無断外出の内容を一回分にまとめて綴ることにした。
あれこれと事件の多い旅になるが、そういった事情も念頭に置きつつ楽しんでもらえれば嬉しい。

さて、私は新興住宅地の、家があまり建っていない一角に目星を立てながら辺りを警戒した。
木材などの建築資材が積まれた建設予定地で休むことにした。
寂しそうに頭を垂れた街灯が、人家の明かりのない薄闇を際立たせていた。

野宿の家出少年がいるともしも通報されたら私はどうなるのだろう。
学園へ送り返されるだろうか。
寮で起こったいろいろな事件について説明すれば、家に帰れるだろうか。それとも、一時保護所に保護されて、これからのことなど相談するだろうか。あるいは電車を停めた件と私の背格好が警察に伝わっており、賠償金を求められる流れになるかも知れない。

愚かな私は木材を重ねた硬いベッドの上で、そんなことを考えながら眠気が来るのを待っていた。
その時、闇の底で物音と生き物の気配がした。

野良犬だった。

野犬と書いた方が迫力がありそうだったし、当時私はそう表現していたが、あぶれ者のよしみで今は野良犬と呼ぶ。

それは明らかな攻撃の意思を込めた唸り声を私に向けた。
街灯を背にした獣の輪郭が、黒く塗りつぶされていた。

羊角の蛇神像⑳へ続く

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