見出し画像

【Essay】抽象的に思考するということ

〈抽象〉性と再生産論

「私って抽象的に考えられないんだと思う」

 彼女は中国東北部に生まれ、8歳の時に教育のために海を越えてこの国にやってきた。「みんな同じで、みんないい」という言葉に縛められた日本の社会空間で生きてきた。だからこそ、彼女は今、同じ境遇の子どもたちの居場所を支援する活動を模索している。自分とは、同じ大学で、同じ学問的方向性で、同じ活動をしている間柄だ。

 自分と彼女では、同じことを示唆していたとしても、そこに使われている言葉が少しずつ違う。自分は具体的な事象を(ときに教育学・社会学の理論的知見を引用しつつ)一段一般化された抽象的な言葉をもって論じる一方で、彼女は(本人が当事者である点も大きいと僕は思うのだが)具体的なエピソードを並べて語っている。そんなことを彼女は自分に打ち明けてきたのだ。

 言葉の〈抽象〉性は、教育という領域においては、その文化的再生産のプロセスを考える上では非常に重要なキーワードになっている。教育学における「再生産」という概念の(本人が意図していなかったかもわからないが)根拠となっているピエール・ブリュデューの理論を借用すれば、一般に、社会的階層が上位の家庭の子どもほど、家庭内で〈抽象〉的な言葉を介したコミュニケーションが図られる。一方で、社会的階層が下位の家庭ほど、コミュニケーションが必要最低限の指示体系に止まってしまう。それが結果的に、〈抽象〉的内容を扱う学校教育における個々人の学力や教育達成に格差を生じさせてしまうという。(これはブリュデューに限った理論ではない)

 教育における「再生産」という概念は –学校という装置には社会的格差を縮小させる機能はなく、むしろ子ども個人の「生まれ」に規定される階層を「再生産」しているという考え方だが–、言葉を介した(mediate)〈抽象〉的な思考と強く結びついていると言えるのだろう。

 教育という同じ界(champ)に立っている彼女も、もちろん、この「再生産」理論を少なからず意識していたのは確かだろう。しかし、あくまで実体験として彼女と接してきた中では、彼女が〈抽象〉的に考えることができないという印象は、自分には全くない。確かに、具体的なエピソードを並べて語っている彼女に対して、自分はかなり〈抽象〉的な語彙や表現を用いているだろう。それはあくまでも会話ややりとりの方法や形式に関するレベルであって、「考え方」というレベルにおいては、そこまでの明確な判断はできないようにも感じる。むしろ、頭でっかちな理論ばかりを並べたがる最近の自分に対して反省している節があるくらいだ。

 兎にも角にも、彼女からの突然の告白は、自分を思索の更なる深みへと落とし込んでいった。

〈言葉〉の役割

 そもそも思考の〈抽象〉性と言葉の〈抽象〉性が結びつくのは、人間という生き物が〈言葉〉を思考の媒介(mediam)として使用されているからだろう。

 人は言葉を使って物事を考える。この〈考える〉という営みは、五感を駆使した〈感じる〉という営みとは一線を画していると考えるのが自然だろう。この辺の議論は(これに限らず自分の考える「〈抽象〉的テーマ」はどれもそうだろうが)各分野における先人たちの思索や研究の膨大な蓄積が存在しているから、ここで特別細かく触れる必要もないだろう。

 〈言葉〉を持っていることは、その個人が物事を知覚し、咀嚼・解釈すること意味すると言えるだろう。色に関する語彙で「白」と「黒」というものしか持ち得ない人間が、澄んだ海の「青さ」をどのように知覚できようか。感情についての語彙を「楽しい」と「つまらない」しか持ち得ない人間が、満ちるとも満ちぬとも取れない初恋の淡い感情をどのようにして胸のうちに抱くことができようか。「透き通るような青」という言葉としての記号(signifiant)を知っているからこそ、その海の青さという意味(signifié)を知覚できるのだ。

 裏を返せば、己の内に〈抽象〉的な言葉を獲することで、人は〈抽象〉的な思考を獲得することができると言えるのだろう。こうもいえる。〈抽象〉的な思考とは、〈言葉〉と同じように、何かを説明する性質を持ち合わせている。

 少し脱線するが、このように〈言葉〉を思考の道具的手段と考えると、言語学習・外国語学習の意義も見えてくるように思える。

 言葉を深く学ぶということは、その言葉を話す人々の思考に寄り添うことと表裏一体の関係にある、という一面がある。

 英語の “have” は、日本語でしばしば「持つ/持っている」と訳される。「持っている」という日本語の動詞からすぐ連想されるのは〈所持/所有〉の意味合いだろう。しかし、英語にはこんな表現がある。

She has two elder sisters. -彼女には二人の姉がいる。

文中の “she” が3人姉妹の末っ子だとして、この文章における “has” を〈所有〉ととることができるだろうか。さらに興味深い例はこれだろう。

We had rain yesterday. -昨日は雨だった。

主語が “we” がある点も、日本語の思考では納得のいかない点としてあげられるポイントだが、それ以上にこの “have” が浮いているように感じたのは中学生の頃の自分だけだろうか。

 この謎を紐解く切り口は簡単だ。「持っている」だけが “have” ではないのだ。“have” という単語には〈所持/所有〉だけでなく、「いる/ある」といった〈存在〉の意味合いがあるのだ。本来、〈言葉〉は一つの単語に一つの意味が対応するような、–自動販売機に110円を入れれば必ず150mlの缶コーヒーが出てくるような-単純なものではない。そして、外国語とは、自身が生まれた時から自然に身につけてきた言葉と全く異なる言語である。このように一つ一つの単語や文、文章を熟考するという営みが、言語学習には肝要であり、それをして初めて、その言葉で〈抽象〉的な思考を理解することができるのだ。

 そんなことは当たり前ではないか、と学校教育関係者は言うかもしれない。

 しかし、本当にそうだろうか。高校生どころか最近は中学生も英単語帳が配られ、毎週水曜日の朝に10問ごと「日本語⇄英語」の単語テストが実施される。数にして10近いパラグラフのある英語長文プリントが、英語・日本語の単語が対になって縦に並んだプリントと共に配布され、後者を参照しながら前者を「なんとなく」「大まかに」読んでくる。終いには、「文法に関する説明は必要最低限に」止まって、授業中は教室中を歩き回る「アクティビティ」を中心に展開する。

「実践的な」「本物な(authentic)」といった、もっとらしい実用主義の文言に汚されて、〈言葉〉とじっくりと向き合うといった教育が軽視されている印象がどうしても否めないのだ。

〈抽象〉と〈理論〉

〈抽象〉性の話題に戻ろうと思う。〈抽象〉の対義語は〈具体〉だ。「りんご」「みかん」「ぶどう」という〈具体〉に対応する〈抽象〉が「果物」だ。「質量2kgの物体に20Nの力をかけたとき、その物体は加速度10km/m^2をもって等加速度直線運動する」「地球上では質量1kgの物体は毎秒9.8km加速しながら落下する」という〈具体〉に対する〈抽象〉が「ma=F(質量×加速度=物体にかかる力)」である。このように考えると、〈抽象〉とは自然や社会における〈具体〉的事象に対する〈理論〉と捉えることができるだろう。

 現在は外国語大学という文系の代名詞のような大学で学んでいる自分だが、高校時代に熱中していた科目は「物理」だった。物理に興味を抱いたのは、幼い頃からの宇宙への関心からだろう。「宇宙」という、決して手の届くことのない未知の世界への漠然とした憧れを、おそらくは歴史上の多くの天文学者と同じように、自分自身も抱いていた。しかし、アインシュタインの相対性理論を理論の基軸とした宇宙物理学は、当然ながら高校物理では扱うことはない。きっかけは「宇宙」であっても、「物理」に自分を惹きつけた魅力は別にあったのだろうと、今になっては考えている。

 一般に、科目としての物理(とりわけ力学)は、場における物体の運動を、数式を媒介として説明し、応用するものである。手のひらのうちにあるボールを今、そっと落とした時に落下する物体は、実はこういう法則性で動いているのですよ、と説明してくれるものが〈公式〉である。そして、時にいくつもの〈公式〉を組み合わせて新しい〈公式〉を練り上げて、応用する。この世界にある有限の物質が、どのように結びつき、どのように運動し、どのように循環していくのか。今、自分の目の前で起きていることの背景を説明する–存在の真理に至る切り口の一端に触れる–その知的な営みは、17の自分をどこまでも深く魅了した。

 大学にて社会学の一派としての教育学について曲がりなりにも学んでいると、高校生当時に熱中していた物理と同じような印象を抱くことがある。ブルデューの「再生産」理論にせよ、ソシュールの「記号論(これは社会学理論そのものとして捉えられることはあまりないが、構造主義の社会学理論の形成に大きく寄与した大切な理論的枠組みであることは確かだ)」にせよ、実社会や実際の人間関係における〈具体〉的事象を一段一般化された形で提示した〈公式〉であり、〈理論〉なのである。考えてみれば、物理学は数学を一段〈具体〉的な事象に応用した〈理論〉的学問であるのに対し、社会学も哲学を一段〈具体〉化した学問である。アリストテレスの時代から数学と哲学に親和性があるのと同じように、物理と社会学の間にも、(親和性とまでは行かなくとも)どこか同じ性格を持っているのは自明の話かもしれない。

〈理論〉とは社会や自然といった領域における事象へ見方や考え方を提供するものであり、それこそが帰納と演繹を行ったり来たりする学問なのである。それはつまるところ、雑然とした現実を説明する〈言葉〉である。

 幼い頃から日本の学校の「みんなの」文化に馴染めなかった自分。自分が周りとどこか違う理由を、常に求めてきたし、自分が他人と異なることを許容してくれる根拠を–説明してくれる〈言葉〉を–探し続けてきた。だからこそ、今は自分が誰かの〈言葉〉になろうとしているのかもしれない。脱線はこれくらいにしておこう。

地域研究と一般的諸学問

 学問という話になると、自分のいる大学では必ず「地域研究(Area Studies)」という話に至る。自分のいる大学は外国語大学であり、学生は必ず一つ以上の言語を専攻している。この大学の特徴は「言語から地域の文化と社会を研究する」と自分では理解している。

 しかし、大学教員となると、意見がキッパリと分かれることがある。人によっては、具体的な地域を対象として、その地域の性格を浮き彫りにする「地域研究」こそが研究であり、理論系の学者は「◯◯モデル」なんて作っても結局は何も知らない、というスタンスをとる。その一方で、「地域研究」とは具体的な枠組みも方法論もないのだから、学問としては認められない、という立場をとる研究者もいる。「フィールド」という〈具体〉か、「理論」という〈抽象〉か。またしても二項対立である。とはいえ、とある地域の性格を明らかにすることに寄与する地域研究と、一般的理論の裏付けや更新に寄与する理論研究と、それぞれの価値を認め、どちらの視点も取り入れながら研究に取り組む人の方が多いのではあるが。

 どちらがいいという価値判断は横に置いておいて、ここでは一つ、自分が2年間お世話になったあるタイ経済学者の「地域研究論」について触れておきたい。まだ大学に入学したてほやほやのタイ語専攻18名に、彼はこんなことを語った。

 地域研究とは料理をするようなものである。まず、野菜や肉、調味料など、料理を作るための「食材」がある。そして、料理を作るためには、その食材を切ったり、煮たり、焼いたりするための、包丁や鍋、フライパン等、「道具(調理器具)」がある。そしてできたものが料理である。地域研究とは、対象とするフィールドにある具体的な研究の題材、つまりは「食材」を、政治学や経済学などの理論的学問、あるいはタイ語などの言語、つまりは「道具」を使って、「料理」という研究(あるいは研究論文)にまとめることなのだ、と。

 地域研究に対するこの捉え方は、「理論」というものの性格を実に的確に例えている。理論とは、ある意味では「道具」なのだ。「道具」といってしまうとどうしてもプラグマティックに聞こえてしまい、あまり好かないので、自分はこう言い換えている。「(人文科学・社会科学における)理論」とは、世の中を見つめ直す〈物差し〉である。必ずしも数値的に測る必要もないので、〈視点〉と言い換えてもいいかもしれない。

 そう考えると、そもそも〈理論〉研究とは、「食材」のような〈具体〉的事象がなければそもそも検討はできないし、「地域研究」も〈理論〉という「道具」なしには人が咀嚼する美味しい料理には仕上がらない。「地域研究」と「理論研究」が決してトレードオフの関係にあるのではないことは自明であり、そもそもどちらがいいか悪いかという議論がいかに陳腐かよくわかる。

「理論」とはこの雑然とした社会を秩序をもって捉えるための〈視点〉であり、ものの見方である。そしてそれは〈具体〉的事象をまとめて見るだけでなく、〈具体〉的事象によって常に見直され、更新される性格(再帰性)を持っている。

 ちなみに、ここでいう言語は必ずしも「理論」と呼べない印象もあるが、言語からその地域に生きる人々の営みを検討する、という大前提を考えると、理論と同等の重みがあることは確かである。とはいえ、母語でない言語を1から学び、その言語で人々に聞き込みを行い、一次文献や学術論文に目を通すといったことができるほど習得するには、その外側の人間には想像だにできない努力と忍耐が必要とされることだけは、ここで念を押しておかなければならない。

〈抽象〉的思考の再考:〈抽象〉的思考についての概念の〈再生産〉

「私って抽象的に考えられないんだと思う」

 この告白から始まった〈抽象〉的思考への思索をまとめたいと思う。一般に、〈抽象〉的思考は、言語を媒介として行われる。〈抽象〉的な考え方は〈言葉〉と同じく、〈具体〉的事象を説明する性格を持っている。それは〈理論〉と同じ性格でもある。

〈抽象〉の範疇に属する〈理論〉とは、(少なくとも人文科学・社会科学の場合は)世の中や社会を秩序的。体系的に捉え直すための〈物差し〉であり、〈視点〉である。〈具体〉的事柄を捉えるためのものであると同時に、それらは常に〈具体〉的事柄によって更新され得る再帰性を持っている。〈抽象〉的思考は、それそのものだけでは成り立たない。常に〈具体〉と共にあり、〈具体〉と共にあって初めて意味が付与される。大切なのは、帰納と演繹を行ったり来たりする営みそのものなのだと思う。

 そしてまた、自分はすでに誰かがまとめ上げているであろうことを、つらつらと書いてしまった。しかし、これこそが自然な〈抽象〉化なのだと思う。一個人が考えることなど、他の誰かがすでに考えていて当たり前なのだ。純粋なオリジナリティなど存在しない。知識は組み替えられて、再生産されていく。この〈抽象〉的思考に関する考えも、すでにあるものを組み合わせた再生産物に過ぎない。社会に対するインパクトとか、社会に対する創造的な価値だとか、そんなものはおいておいて、この〈再生産〉という営みを自分で行うことこそが、〈抽象〉的思考を獲得する唯一無二の方法であり、同時に〈抽象〉的思考そのものなのだと、今では確信している。

2022/3/18 日記より

 


この記事が参加している募集

#学問への愛を語ろう

6,213件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?