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どんなに便利な世の中になったとしても、わたしはきっと図書館に行くことをやめない。

クリック一つで物が買えてしまうこの便利な時代に、あえて本屋へいくことの意味とは。そういうことに切り込んだ記事を見つけた。

日本国内で約2万人にアンケート調査を行った結果、所得や学歴よりも「自己決定」が幸福感に強い影響を与えていることがわかったというのです(『幸福感と自己決定――日本における実証研究』(西村和雄、八木 匡))。

具体的にいえば所得、学歴、自己決定、健康、人間関係の5つが幸福感と相関するかについて分析したところ、健康、人間関係に次ぐ要因として、自己決定が強い影響を与えることがわかったのだとか。

つまり幸福度をアップさせるには、「自己コントロール性」が重要だということ。アリエリー氏によれば、それは「オートノミー(自主性)」と呼ばれるのだそうです。
本屋では、好きな順番に好きなコーナーへ移動することが可能です。

哲学であろうと、行動経済学であろうと、あるいは雑誌であろうと、どのコーナーへ行くのも自由であるわけです。

一方、アマゾンでは非常に洗練された買い物方法が導入されているものの、アマゾンがつくった手順に従わなければなりません。

確かに、Amazonを始めとしたECサイトでは「この本もあなたにおすすめ!」というように、買い物のレールが引かれている。
さらに、お買い物の入り口としては「自分がこれに興味がある」という「調べる」という行為を持ってして始まる。表紙やタイトルをみてなんとなく惹かれ手に取る、というような偶然の出会いは生じない。

だからこそ、人はAmazonではなく本屋にいくのだ、と。


ただ、わたしは第三の候補を示したい。
Amazonより本屋、本屋より図書館だ。( ※ あくまで個人の見解です )

断っておくが、大前提わたしは本屋が好きである。
本屋によって置いている本やおすすめしている本、取り揃えているジャンルは違うし、組んでいる特集も違う。

だが、その裏には「この本を売りたい」「この出版社と仲が良い」というような大人の思惑も働いているんだろうな、という邪推もしてしまう。真偽のほどはわからないけれど。

その点、図書館は素朴である。各ジャンルが棚ごとに取り揃えられていて、1から10までずらっと並べられている。ない本はもちろんあるが、誰かが借りてるから読みたいならちょっと待っててね、というスタンスだ。そこには「この本を特に推したい!」というポップもレコメンドもない。最近出版された本も、名著と呼ばれる古くからある本も、ただただ平等にじっとそこに並んでいる。

わたしはそんな図書館の空気が好きだ。押し売りせず、素っ気なくて。でも全てを蓄えていて。知りたい、と思えば教えてくれるけれど、知りたい、と言わなければ教えてくれない。向こうから、「これを読んでみなよ」と薦められることもない。ふと目にして気になったものがあれば、「気になるのであればじゃあそれ読んでみれば?」と所在なさげに呟かれているような、そんな気分になる図書館が、わたしは好きだ。

思えば、小学校のころは毎週末に必ず家族で図書館に行っていた。
兄弟もいとこもおらず、周りに同世代の親戚を全く持たなかったわたしは、幼少期から一人で過ごす時間が格別に長く、その殆どを本とともに過ごしていた。
両親は積極的に図書館へとわたしを連れ出したし、わたしは違う世界へと連れ出してくれる本という移動手段が好きだった。
平日は学校の図書館に毎日足繁く通い、休日になると両親に連れられて市民図書館に行っていたわたしは、図書館に住みたいと本気で願っていた。ここは、夢のような場所だと。

原田マハさんは「楽園のキャンバス」にて、「絵画はわたしの友達、美術館に行くことは友達の家に行くようなものだ」と描写していたが、わたしにとって本は友達、そして図書館は友達の家に行くようなものだったのかもしれない。

大人になれているかどうかは別論点だが、歳を重ねるに連れ図書館に足を運ぶ回数は減った。ECサイトはワンクリックで欲しい本を届けてくれるし、本屋では今話題の本にも、自分が出会ったことのない本にも出会うことができる。

ただ、それでもきっとわたしは図書館に行くことを生涯やめてしまうことはないのだと思う。

だってそこは一番素朴で平等な場所だから。かけがえのない出会いを与えてくれる場所だから。わたしの友達がたくさんいる場所だから。

昨年引っ越した今の家の近くに、図書館があるのが本当に最高なんですよね。

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