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タコツボに潜む賢者と声高く広場を走る愚者と大衆

タコツボに潜む賢者と声高く広場を走る愚者と大衆

最近は大衆の行動、心理的なものが如実に証明されていくのが可視化されている(機会が多い)世界にいるなぁと思うところです。
何もこのようなことを感じる機会がなかったわけではなかったですし、ネガティブな日本人の大衆論というものは戦前、戦中、大正の関東大震災でも色々なところで語られていますしあったので今にはじまったものではないということははじめに断っておきます。

それを話したうえですが、賢い人たちの言葉というものはあまりにも事実を言い得ているからなのか批判の対象となったり、キャンセルカルチャーとしての対象となることが多いように思えるのです。
それゆえ、本当に賢い知識人のような人たちはヒットアンドウェイのように少し表舞台に立ってはクリティカルなことを言い放ち、そこからまた消えていくそんな事を繰り返しているようにも思えるのです。
また、その活動というか発言には慎重にもなってはいるものの閉ざされた狭い中でその考えを共有するというようなことをしているのが目立つように思えます。
それはまるでタコツボにひそんで大衆には言葉を向けないようにとしている節さえあると考えるくらいです。

これは丸山眞男氏の本でも書かれていますが昔にも同じことがありました。
悲惨に向けてなだれ落ちる戦争への勢いを戦前、戦中の知識人がなぜ押しとどめることができなかったのか?
これは高度な知識人や専門家がタコツボに潜んでしまい共通の言葉を持たなかったからだと考えられました。
この強い反省は丸山眞男氏だけではなく、「悔恨共同体」の動きは様々に起こって後に丸山眞男氏はその協同作業のために知識人の共通の言語を作り出すことをリードしていきました。

こうした事がなされていたはずなのに、現在でも大衆の動きというものは似たようなものへとなり知識のある者が何かを話すと多くの愚者から様々な要因によって潰されてしまうのです。
それは正常性のバイアスによるものかもしれませんし、フェミニズムという要因、貧困差別などの弱者というものを盾にして行くものなど様々です。

この大衆、集団というものは共同体というものとは、ほど遠いもので刹那的で誰もが反射的に動いてしまうようなそんな弱者「心理」というか有り様に乗っかるようなもので動きだすのです。
少し前の弱者の連帯という共同体としての働きはそこにはないようには思えるのです。

以上のようにインターネットやSNSなど発信する媒体が増えたのに、いえその性質上、増えたからこそまた知識人はタコツボへと潜むようになっていくように思えるのです。
そして、愚者、いえ流れやすい大衆の声はどんどん大きくなっていくように思えるのです。

無知な者は多弁になり、知る者は口をつむぐ

これは世の常なのかもしれません

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