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巨獣という物と化した人間の集団

大衆というものの厄介さというものはメディアやSNSなどを見ていると嫌でも目につく物であります。
特定の個人への攻撃だったり、不公平さの訴えなど、正不正に関係ない動きというものはこの大衆という集団の巨獣においては必然のものであると言っていいでしょう。

この人間の醜さというものはいかにして生まれてくるのでしょうか
この醜さというものはご自分では気づかないようでありまして、当事者からはずれて外から見ているとこれまた滑稽なものなのです。
これに適当な言葉を充ててみようと思うのであれば次のようなものになるでしょう

巨獣という人間の集団の中に身を隠したとき、人間は個人でいるときは抑制を余儀なくされている欲望を際限なく放出ができるのであります。
ソクラテスのいうこの集団、巨獣というものは精神で生きているのではなく物として動いているからであり、これが常に何度も繰り返されているわけです。

現代における「ええじゃないか」はSNSという集団においてじぶんの身を隠すことで普段は抑制されているものを悪意と気づかずにぶちまけるのであります。
その死臭たる悪意という腑は周りの人間を汚染していき、ひとつのトランス状態を作り出すのであります。

これが時には人の足を引っ張ることになり、最悪になりますと誰かの命を奪うのです。しかし、そうなったとしても当の本人はまるで他人事なのであります。
なぜならば、集団というものに隠れた悪意というものは際限なく放出されているもので当の本人でさえどのくらいの物だったのかというのは意識していないのであります。

この死臭の腑という無意識な悪意とはどのようなものなのでしょうか
それはなぜ気づかないのか、この無意識とはどのようなものなのか
これを説明しますと……
それは桜という集団的な無意識にあります。
誰もが一様にさくらというものを美しいと声を揃えてその花を見上げては立ち止まります。そこに何か理由はありませんし、理由づけをすることもありません。
これと同じものなのです。
自己の人生の虚妄を冷酷に鑑賞したときにそれと向き合うことのできる人間というのは現代においては少ないものなのです。
ほとんどの人がそこから目を背け、痛みを回避しようとするのです。
そして、その絶叫するほどのことを処理せずに心に多くの多孔をこしらえていくということを繰り返すのです。
そして、この多孔を少しでも何かで埋められればと誰かを攻撃するという行為へと移っていくのです。

そして、痛みの回避というものが前提にあるがゆえに集団の中に身を隠した攻撃をするのです。
人はその絶望の逃避を繰り返し、現在に至るのです
自分がどのような状態かを気づくことなく……

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