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映画レビュー 「花束みたいな恋をした」

祝日明けの水曜日、レディースデイ。前から気になっていた映画を見るために、オットとの散歩を短めに切り上げて電車に揺られ、隣町の映画館に行った。


席に座り見渡すと、今日はわたしを含む8名の女子たちと共にこの時間を過ごすらしい。どうぞよろしくおねがいします。


映画を観る前から考えていたことがあった。
「花束みたいな恋」ってどんな恋だ?
予告で、なんとなくこの2人は別れる話なんだということは察していたので、余計に「花束みたいな」という感覚がピンと来なかった。


映画の最中には時代的に身近なものとレトロなものが一緒こたんに出てくる(たぶん「一緒こたん」は方言だよね)。


前田裕二さんの人生の勝算という本だったり、スマホだったり、インスタントカメラやお部屋の証明…観ていてどこか心地よくて、今日座ったファミレスの隣にいそうな2人を想像できた。


今、半径数メートルに座っている7名の女子たちとわたしは接点ないけれど、彼女たち1人1人にストーリーがあるんだろうなぁと思うと、映画にして、ちゃんと観てみたいなぁなんて思った。


素朴な日常ほど最強なコンテンツはないなぁなんて。


で、観終わった後、ある種のスッキリ感があった。
「花束みたいな恋」の答えに、自分なりの納得感を見つけたからだ。


映画の正式レビューを観ていないので、創り手さんの本音はどうなのかわからないけれど、わたしなりの解釈はこう落ち着いた。


花束って、もらったときが1番新鮮でキレイ。
時間とともに鮮度が落ちていく。これは悪いことではなく事実として当たり前なこと。
でも、ケーキと違う点は(例えがいきなりケーキなのは許してください)、ケーキは食べて消えて無くなるが、花束は消えて無くならない。


大切にケアすれば、その花の色をそのまま残して素敵なドライフラワーができるのだ。記憶からは消えてしまうことも、ドライフラワーは現物として残り続ける。


もらったばかりの花束もキレイだけどドライフラワーを見て、もらった頃をふと想い出してエモい気分に浸りながら歳を重ねていく。


振り返ったときにドライフラワーになっているような恋のことなのかなぁ、と納得した。


もらって良かったし、今も想い出は生きているし、色褪せない。
もらわなければよかったなんて思わない恋。
枯れてしまうのが自然の摂理だとするならば、死まで添い遂げることができる愛はなんて尊いのだろう。


でも人は死ぬから、どの恋もいつかは終わる。


その時に花束みたいだったと思えるか、わたしもいつか誰かにドライフラワーのように想いを馳せてもらえるような人生が送れたら、生きた意味もあるのかなぁなんて、そんなセンチメンタルなことを想った。


そして、ポップコーンMサイズセットが食べきれず持ち帰ったことを少し誇らしげに思った。よしよし、このまま胃がサイズを整えて太らない身体になりますように、なんて思いながら現実の世界に戻っていった。


さぁ今日もいい天気だ。しっかり生きよう。


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