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傷と誰かのための光

そういえば先日、中学の頃の同窓会があった。
先日というかもう結構前だったのだが、大勢いるラインに写真がまとまって投下されていた。大勢いるので通知が多く、通知オフにしていたのでそのまま見るのを忘れていたのだ。

誰にでも青春時代は準備はされていると思う。
正確にはいつが青春なのかはよくわからないけど、自分らしく楽しく過ごしている時だとしたら、少なくとも中学時分ではない。もっと別の時に風と夜と星を感じた時もあった。けれど、祭りのさなか棒立ちになって、人にぶつかられても倒れるほどの衝撃さえなく体がぶれるだけ、みたいな時もあったのだ。それが私の中学時代だ。なので、同窓会にお誘いしてもらうこともあるし連絡を取る人もいるものの、同窓会の話を聞いても行くという選択肢はなかった。ていうか会いたい人には会えているからいい。会いたくない人もいるし、どうでもいい人もいるわけだが、そういう人の近況を横目に推測したりなんとなくリサーチしたりされたりするのは勘弁だ。

今もまだまだ若輩者ではあるが、若い時に「手放しで全力で」頑張れたことが全然なくて、自分の素直な感情や五感に触れられた時だけは自分の過去を肯定できている。何もかもいつも必死に背伸びをしていた。柄に合わないことを取り繕った。何か興味を持ったり、ちょっと頑張ろうとすると横やりが入ってきて一瞬にして気持ちが反転してしまう、ごく普通の中学生だったと思う。みんなそんなもんなのだと今なら思う。他人には見えてないだけで、みんな反発したり嘘をついたりして楽しそうに過ごす。もちろんそうでない人もいた。そうでない人は大人になってもあんまり変わらなかった。
素直であることが子供らしさのようにイメージが植え付けられているが、素直に生きられるようになるのは大人になってからだと思う。子供時代を素直に生きられていたらもっと楽しく過ごせただろうし、もっと生き生きしていたと思う。大人たちは過去の微妙な後味の悪さを若者や子供に託して「子ども=すなお」であってほしくてそんな風に仕向けるのかもしれない。

子供のほうが色々生きづらかった。
未熟ゆえの生きづらさは不自由で、とっぱらえば楽になれそうなものばかりを身につけていた。わざと子どもらしく振舞ったり、強制されることがストレスだったり、興味をつぶされるのを恐れて秘密にしたり、実際につぶされたりした。子供の自分に求められることは、やりたくないことばっかりだった。やりたいことは笑われたり、否定されたりするので、ちょっとずつ歪んで、思い出しくないことばっかりになった。
もっと精神的に強ければ。コンプレックスを抱えるほど縛り付けられず、否定されても流されずにいられる強さがあったら、きらきらで楽しい中学時代を送れていたのかな、私にとって背景だった人みたいに。具体的に嫌なことがあったわけでもない中学時代だが、思い出すような状況は避ける。
好きにやってたらやってたで、いろんな失敗をして思い出したくないことだらけだろうし、どちらでもわたしは、同窓会に行く選択肢はなかっただろう。自分の可愛くない不器用さはどうせ変わらない。

子供の頃、学生の頃とは、社会に出てから同じ失敗をすると傷が深いから、先にけがしておいてしまう時期なのだとなんとなく思う。
だからこそ、今はその頃よりは素直に生きられている。素直でいられなかった傷がここにある。今よりも年をとった時、今の自分のことは振り返ってもいいと思えるかもと、思ったりもしている。他人と共有することも、褒められることも、認められることもなかったとしても。(同窓会がそういう場だと穿った解釈をしてるわけではないが)
そんなことはなくても生きていけて、けれどそれが生きてゆくための明かりだった。それが私の若さでもあった。ただ、その明かりがもっと違ったらよかったなと、私が子にとって明かりの一つになってしまうのであれば、もっと別の彩度で、もっと違う光度で、何も託さずまっすぐ光っていたいのだ。


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