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『前髪に座る』
幽霊になっても、背は縮む。
年を取って膝の軟骨がすり減り、ちょっとずつ小さくなるのとはわけが違う。身長178㎝・享年35歳だった私は、まだ四十九日も経っていないのに、今や全長7㎝ほどだ。
そろそろ、玄関の窪みすら越えられなくなる。このペースで小さくなっていくのなら、いずれキッチンを通り抜けるだけで、2ヶ月かかるようになってしまうだろう。
7歳下の妻は、30日目を過ぎた頃からバラエティー番組の録画を観て笑うようになった。人生を立て直す一歩目としては、上々の滑り出しである。人間はたくましい生き物だ、夫が死んでも楽しい時は笑える。彼女の横に座って同じ画面を観ていると、CMを飛ばそうとする妻に声を掛けられないことが歯がゆい。私は結構、CMの時間が好きなのだ。彼女には言ったことなかったけど。
命日の晩は、泣きながらベッドで妻と添い寝をした。体重を預けたのにシワが出来ないシーツを不思議に思う、なんて余裕はなかった。そりゃ死んだばかりだったので。彼女の顔を見るのが辛くて、触れられない背中を、一晩中眺めていたのを覚えている。夜が明けた頃にようやく、やっぱり死んだ後は眠くはならないのだなと、考える余裕が出てきた。
3日目、気付けば身長は本棚よりも低くなっていた。霊の身長が縮むなんて、どんなオカルトマニアも言っていなかった。アイドルがよく見たと話す「小さなおじさん」とは、幽霊の類なのかもしれない。彼女たちにあるのは「嘘をつく度胸」ではなく「霊感」だったのかな。
小学校低学年ぐらいの背丈で、妻の顔を見上げる。それはなんとも不思議な光景で、心なしか、彼女の表情はいつもより大人に見えるのだった。
「君は若いからね」私の口癖が、彼女は嫌いだった。「ほとんど同い年ですよ」いつも笑って返してくれることに、少しだけ喜びを感じてしまっている自分がいて、いつしか口癖になってしまったのだろう。彼女からすれば、「年齢を言い訳に自分を卑下する男」を見たくなかったのかもしれない。
死んでからひと月以上が経った。私の背丈は、今では妻のくるぶしと並んでいる。明日か、明後日か、いずれ米粒ほどの身長になれば、もう彼女の顔すらよく見えなくなってしまうだろう。
テレビを眺める彼女のズボンのすそに手をかけて、脚をよじ登る。夏でよかった、ステテコは登りやすい。ちなみにTシャツは、プリントの部分だけ手が滑るので要注意である。
肩に立つ。耳たぶのピアス跡に足をかけ、勢いよくもみあげに飛び乗った。妻がまばたきをするたびに、「ヴン」と鈍い風の音がする。髪を手繰り寄せ、前髪の内側に滑り込む。
目に突き刺さりそうなほど、クルッと毛先が内側に向いた前髪。誰もが三日月の縁に座ってみたいと、一度は思ったことがあるだろう。そんな感じで、どうせ小さくなったなら、最後にあの前髪に座ってみたかった。
まるで滝を、裏の洞窟から眺めるような光景だ。
毛先のカーブに腰を添わせて、ゆっくりと前髪に座った。
目の前に広がる、まるで映画のスクリーンのような大きなおでこ。その中央にうっすらと、1本のシワが横へと伸びていた。
「ほとんど同い年じゃん」
僕が笑うと、妻も変なCMで笑った。
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