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『さよならソクラテス』(池田晶子)を読んで

子供の頃、不思議に思っていたことがあります。それは親と子の偶然性です。誰もが父と母という親の存在から生を授かるわけですが、「その親でなかったら自分は本当に生まれなかったのか」ということ。

たとえ引き継ぐ遺伝が変わったとしても(要するに親がちがっても)「この自分」は世に存在するはずだ、そんなことをふわふわと考えていた時期がありました。

『14歳からの哲学』でおなじみ(ほんとにその頃お世話になった)池田晶子さんは、本書でまさに家族の偶然性にふれています。

ソクラテス だったら、ひとりの男とひとりの女との然るべき行為によって、そこに生まれるのがこの自分である理由もないはずじゃないか。

クサンチッペ なに言ってんの、あんた。

ソクラテス そこに生まれたのは、自分でなくて別の子供だっていいわけじゃないか。

クサンチッペ それなら、あんたはいったいどっから生まれたってのよ。

ソクラテス 僕は、どこから生まれたのでもない。なるほど、五臓六腑は親から生まれたものかもしれない。しかし、この僕は、僕が僕であるところの僕は、誰から生まれたのでも決してない。生まれたのでない限り、死ぬこともない。

最後のソクラテスの言い回し表現は池田さんぽいなあと思いながら。ちなみにクサンチッペとは、ソクラテスの妻です。歴史的には悪妻で有名。本書は基本、空想対談形式です。

さあ、自分に親がいるという驚きです。そこから家族が家族である理由に目を向けます。結論、それは偶然でしかない。ソクラテスは幻想、ロールプレイとまで言います。

ソクラテスは極論の例としてプラトンを紹介します。生まれた子供をすべて母親から取り上げて、一律に国家の所有にするって考え。人類愛としての精神の教師は国家なのか?揺さぶってきます。

人間は生きるため、種を残すために文化という擬制に従ってロールプレイを演じてきたのでしょうか。もしかしたらそうかもしれませんし、「生まれてきた子は親を選べない」というお話があるように、家族の偶然性は疑いないもの。でも、それは偶然であり、同時にかけがえのない「ご縁」とも考えられるのだと思います。

本書は97年に出版、当時の時事きっかけ
にさまざまなテーマがあります。『失楽園』のヒットから考える愛、高級官僚の収賄事件から考える正義と嫉妬。ソクラテスとクサンチッペの文芸漫談は、わたしたちに考えるヒントをくれます。

というわけで以上です!


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