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『子どものための哲学対話』(永井均・内田かずひろ)を読んで

タイトルに明記してある「年齢」が想定している読者層なのかは置いておいて『14歳からの哲学』をたしかちょうど14歳の頃に読んだ。本質にせまるような問いかけ、哲学的な言い回しとロジックにヒーヒーいいながらページをめくった記憶があります。

さて、本書はタイトルに「子供のための」とあります。中学2年の「ぼく」と家に住み着いた猫・ペネトレの対話の記録という体裁で、たしかに平易な言葉で語られていて読みやすい。でも十分、大人でも楽しめるし、意外と読むのに時間のかかる本です。

じつは本書の終章に猫・ペネトレが読者に対してこんな言葉を残しています。なにか自分にとって重要なことが言われていると思ったら、あとは自分で考えていければいいんだよ。たしかにそうですね。

本書の2章では「友達とは」「愛とは」「元気がないときどうすべきか」など普遍性のあるテーマが出てきて「おっ三木清の『哲学ノート』的な独自の定義が聞ける?」とワクワク。基本的にはヒント重視だけど、ハッとするものがいくつもありました。余白は残します、決めつけはない。

だから読者によって感じ方はちがうし、マーカーをどこに引くのか、ここはけっこう差があるんじゃないかな。もしかすると読書会に向いている本なのかもしれません。ちょっとだけ自分のアンダーラインを紹介します。

遊び

「遊ぶ」っていうのはね、自分のしたいことをして「楽しむ」ことさ。そのときやっていることの中で完全に満ちたりしている状態のことなんだよ。そのときやっていることの外にどんな目的も意味も求める必要がないような状態のことなんだよ。

友情

友情って、本来、友達なんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、成り立たないものなんじゃないかな?

対立

そもそも対立っていうのは、ほとんど前提を共有しているもののあいでしか、起こらないんだよ。

哲学

すでにある学問をひとりで勉強していくんじゃなくて、問いそのものを自分で立てて、自分のやりかたで、勝手に考えていく学問のことを、哲学っていうんだよ。

解説・文庫版あとがきと、最後まで対話形式を貫くわけですが、そこでは「なぜ対話形式なのか?なぜ猫のキャラクターまでつくって腹話術的に語らせているのか」という話が出てくる。哲学がプラトンの対話から始まったようにこの手法は普遍的。

そうだ、『嫌われる勇気』が対話形式でオーディブル版にはまっていたように、本書も朗読による音声があると対象の層がまたグッと広がる気がしました。やっているのかな?

というわけで以上です!


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