『「甘え」の構造』(土居健郎)を読んで
星野源のエッセイに「心を見透かされている気がして、子供を子供あつかいすることができず『です・ます調』を使ってしまう」とあって共感した。
気持ちはわかるし、いつかのドリームマッチでサンドウィッチマンの富澤たけしはネタのなかで生まれてきた子に「赤さん」と呼びかけて笑いを誘っていて、それが過剰であることもわかる。
著者によれば、甘えのイデオロギーを支えてきた社会的慣習の一つが日本の発達した目上と子どもへの「敬語の使用」だとか。
相手を気持ちよくする接頭語の「御」の使い方は、目上も小さな子供もじつはおんなじなんじゃないか?日本では子供と年配者がもっとも「気まま」を許される。
さて、本書は1971年(約50年前)に出版、「甘える」という語から日本人心理の特異性を明らかにしようと著者が一般読者向きに書き下ろした「甘え理論」の名著です。気になるところを自分の目線で切り取り、編集して紹介していきます。
甘えの着想
「甘え」に著者が着想したのは患者の治療のとき。日本語堪能のイギリス人婦人が子供の幼少時代について話をしていたときそれまで英語だったのに急に日本語で「この子はあまり甘えませんでした」と述べた。なぜかと聴くと「これは英語ではいえません」とのこと。
言語学的なアプローチから意味世界を読み解き、日本人の心理にアプローチしています。おもしろかったのは「甘え」を中心に据えたとき、じつに言葉の広がりが見えてくることです。
甘えの派生
甘えられない心理が「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」。
「すね」の結果としての「ふてくされる」「やけくそになる」。
人間関係のなかでうまく頼れない=甘えられないのが「こだわる」「てれる」、そして「すまない」。
ルーズ・ベネディクトの『菊と刀』がここで登場します。割愛しますが西洋は罪、日本は恥という「罪と恥」の言及にわれわれは引っ張られすぎているのかもしれません。
甘えの発生
基本的に「甘え」とは親子の間だとか何らかの関わりを持つ場合に発生します。親子・関係者・他人という3つの世界がグラデーション的に存在しており、そのなかで義理と人情もあれば遠慮もある。
「甘え」とは他人との分断・分離が起きるその痛みを止揚するものっていう指摘にハッとしました。『資本論』における異なる共同体との接触で初めて「商品」の概念が生まれるっていう構造に何か近いものを感じた。
甘えのよしあし
甘えを肯定的に解釈するならば、人間関係を円滑にします。ただ、著者からすれば社会全体に甘えがはびこっており、どうもハッピーではなさそうだと。
メディアの浸透によって子供と大人の境界線があいまいとなり、父なき社会を生み出した。そうしてヒッピーたちが生まれたわけだけど、漠然とした罪悪感に悩んでいるのが学生運動をするようなニュー・レフトのような活動家たちであろうと。
時は流れ、あれから50年が経っています。読んだ印象としては、甘えの本質は変わっているようには思えない。それでは甘えの氾濫はいまどんな現象として発露しているか、想像しながら読むとおもしろいです。
というわけで以上です!
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