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『日本の思想』(丸山眞男)を読んで

丸山眞男『日本の思想』を読みました。

本書には講演の収録だとかいくつテーマがあるなかで『「である」ことと「する」 こと』の話がとくに印象に残っています。

まず、「である」ことと「する」ことって何でしょう。

ざっくりいえば、

*である=状態重視

*する=目的・機能重視

といえます。

たとえば資本主義システムにおいて近代社会化はじわじわと「である」論理から「する」論理へシフトしました。

明治時代以前の日本の身分社会なんて「である」そのもの。武士「である」ことが行動ひいては人生を規定しました。

さあ黒船来航、富国強兵。時代を経て、そこから生産力が高まります。やがて社会関係は複雑多様になっていきます。

家柄や同族といった素性に基づく人間関係にかわって、その目的のかぎりで取り結ぶ関係や、制度の比重が増していく。

すなわち「する」論理への移行です。

福沢諭吉の明治維新時代の著書(子ども向け)では、まさに「する」という動詞を頻繁に使用しています。

ちなみに『「である」と「する」が混在して社会が複雑化してしまった』と、夏目漱石が指摘したようです。おもしろいなあ。

で、「する」ことへの偏重がいまも地続きであるのをつくづく感じたのがこの一文。

レジャーは「『する』こと」からの解放ではなくて、もっとも有効に時間を組織化するのに苦心する問題になったわけです。

たとえば現代の仕事は目的・機能の制度が研ぎ澄まされていますから何かを「する」ことに特化するのも仕方ありません。

けれど、休みの日くらい「休日であること」にフォーカスしてみるのもいいなあ。

何か「する」ことがないと、もったいなく感じてしまう。そもそも企業は生活者に対して「する」啓蒙をしているわけですが。

自分が古典に惹かれる理由がわかった気がしました。アンドレ・シーグフリード『現代』のなかに、こういう一節があります。

芸術や教養は「果実よりは花」なのであり、そのもたらす結果よりもそれ自体に価値があるというわけです。

こうした文化での価値規準を大衆の嗜好や多数決できめられないのはそのためです。

「古典」というものが何故学問や芸術の世界で意味をもっているかということがまさにこの問題にかかわって来ます。

役に立たないからこそ古典を読むと考えているのですが、なるほど。たまには「する」よりも「である」ことを見つめてみましょう。

果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚をもつこと、これが問題なのだ。

というわけで以上です!

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