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『プレイ・マターズ 遊び心の哲学 (Playful Thinking) 』を読んで

『プレイ・マターズ 遊び心の哲学 (Playful Thinking) 』を読みました。

石川善樹さんが『問い続ける力』において「では派」よりも「とは派」の重要性を説いていました。本書はまさに「遊びとは?」を突き詰めた内容といえます。まずはこういう思考の一端を覗くことから始めようと思います。

さて、「遊び」の深堀といえば、先行研究としてホイジンガが頭に浮かびます。人は遊ぶ存在、ホモ・ルーデンスですか。

で、著者は冒頭で「ホイジンガ的な遊び論の伝統につらなるものではない」と断っています。長い注釈を読むには「ホイジンガは遊びを儀式的にとらえ、現実の生活から分離しているということを強調しすぎ」とのこと。

長くなりそうなので内容に入ります。いくつかテーマがあるなかで初めの章「遊び」がやはり興味深かった。

「遊びとは何か?」について型にはめて理解しようとするとうまくいかない!

とした上で、遊びの移ろいやすさに注意しながらミニマムな定義=遊びの理解から始めます。

7つのアプローチのうち、とくにおもしろかった始めと終わりだけ紹介します。

[第一に]遊びは文脈に依存する。

(中略)遊びは、創造と破壊のあいだで緊張状態にある活動でもある。遊びはつねに危険が伴う。それは、リスクに手を出し、創造と破壊を行い、同時に創造と破壊のあいだのバランスを注意深く維持する活動である。

遊びは、秩序と創造から生じる合理的な快と、破壊と再生から生じる見境のない陶酔のあいだ、つまりアポロン的なものとディオニュソス的なもののあいだにある。

たとえば先日、『アメトーク』でドラえもんの道具ドラフト会議なる企画がありましたが、高度で素敵な遊びだと思います。スタッフが道具候補で四次元ポケットを禁止したのは、遊びの秩序の維持です。

そういった制約が、ドラフト会議さながらの演者の緊張感を生むのだと思います。本当に盛り上がる遊びって、秩序がそれなりにあって、だからおもしろいんですね。

[第七に]遊びは個人的なものである。

(中略)わたしたちの記憶は、実際に遊んだものやその勝敗だけでなく、ほかの人と時間を共有したことからも構成される。

遊びは、わたしたちの波乱ある人生のなかで孤立したものではない。むしろ遊びは、わたしたちの記憶や友情を互いに結び合わせる糸だ。遊びは、個人を定義する人格の足跡である

「何に笑ってきた」がその人の人格を規定していく、とみています。その意味で「遊びが個人を定義する人格の足跡」という表現は納得です。

遊びを哲学する内容ですが、このあたりは社会学っぽくてまた味わいがあります。

こういう学者の方の思考の結晶を、論文ではなく一般的な本で読めるというのはありがたいかぎりです。

というわけで以上です!

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