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『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』を読んで

『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』を読みました。

日本独特のメディアミックスを解き明かすため、1960年代のアトム、1970年代の角川春樹による映画・小説・音楽の三位一体、1980年代から90年代にかけての角川歴彦による世界観の構築、その後2000年代のハルヒに至るまで、それぞれのメディアミックスのモデルを事例交えながら紹介していきます。

個人としては後半にかけてのブロックが印象的で響きました。

それは、日本は独自にメディアミックスという手法が育ったがプラットフォームを無視しがちだった。

それゆえ、GAFAのような巨大プラットフォームの台頭によって、メディアミックスの可能性・創造性が失われるよ、というもの。

このあたりクリップ中心にいくつか引きます。

プラットフォームとは何か

プラットフォームとは
①UGCを共有し鑑賞するための場(ギレスピー)であり、
②文化の生産や創造が行われる場(コンドリー)、つまり今日の創造的な活動を可能にする状況であり、
③「ヒト、モノ、カネが集うところ」(角川)である。

この三つを全て合わせることで、プラットフォームのエコシステムとは、創造的な相互作用が発生し、新しい文化様式を生み出し、人々が金銭による取引で文化に触れることができる場所だとイメージできるだろう。

GAFAのようなプラットフォームの脅威

グーグルやアップルやアマゾンは、閉鎖的なプラットフォームやエコシステムを持ち、それらを使って既存のコンテンツを配信している。このエコシステムの部分こそ、デジタル経済で最も収益性の高い成長分野なのである。

1990年代と異なり、もう企業がコンテンツクリエイターにお金を払う必要は少なくなり、むしろ企業は喜んで配信事業者として振る舞って、既存のクリエイターに重労働をさせるようになった。

そうした企業の力の配分は、両立することのないプラットフォーム間の争いとなり、創造活動は閉鎖的なコンテンツ配信のエコシステムの中に閉じ込められていく
今日注目されているのは、メディア拡散のためのプラットフォームの構築と強化だ。音楽、本、映画、テレビ番組、何でも流通させることができるもの。特に重要なのは、閉鎖的な流通のプラットフォームで、どんなコンテントも囲い込み流通を仲介できるもの。

後で確認する通り、一般向けでも研究者向けでも、プラットフォームについて世界最大数の本や記事が蓄積しているのは間違いなく北米だ。 
日本の1990から2000年代にかけてのコンテンツの議論は、プラットフォームを無視しがちだった。この状態が続けば、日本の企業は複数形のコンテンツではなく、単数形のコンテントプロバイダーになってしまう危険がある
つまり、日本の2000年代の議論がコンテンツに集中し、流通と提供の手段をないがしろにしてきたことで、日本企業は映画や書籍やゲームを巨大プラットフォーム事業者のエコシステムのために提供するだけの存在へと堕する危険に瀕している。
この危険性は、経済と文化の両面で徐々に明瞭になってきていると考えられる。経済面の脅威は、アメリカの国際企業によってインタフェースが支配され、個人情報を収集され、流通チャネルも掌握されてしまうこと。

文化面での脅威は、アメリカのプラットフォーム設計が、日本のメディアミックスという文化のエコロジーとマッチしないと予想されることである。
たとえ奇妙に思えたとしても、(商売の技法でもある)メディアミックスを、デリケートな美学や文化としても捉えるという発想が、プラットフォームのエコシステムには必要である。そうしない限り、グーグルやアマゾンなどの姿勢は、

①インタフェースやプラットフォームの均質化、
②新しいメディアミックスの場としての可能性の喪失、をもたらすとぼくは危惧している。

メディアミックスの可能性

「メガ」は、グーグルやアマゾンに任せよう。その代わりKADOKAWA・DWANGOには、マイナーを受け止め、サブカルチャーを受け入れ、トランスメディア・ストーリーテリングやメディアミックスというデリケートな生態系の発展を支えてもらおう。地域にも、日本の国境を超えてグローバルにもなりうるとすれば、この可能性なのではないか。
真に創造的に文化を育む仕組みとしてもメディアミックスを捉えることができると思っている。

多数の作品に物語の断片が埋め込まれ、積極的な読者が、複雑な全体像を組み立てていくという創造的なトランスメディア・ストーリーテリングの場として捉えることは可能だ。

メディアミックスは、斬新で感動的な美の体験を生むことができる。

じつはGAFAに対抗するためのメディアミックスの可能性への言及はそこまで多くない。だけど、論理としてメディアミックスの今後とプラットフォームがつながるのがおもしろいし、ハッとしました。

なんとなく、感覚として持っていた文化的な文脈の欠如への危機感はこういうことかあ。

というわけで以上です!


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