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坂口安吾『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』を読み返す

学生時代以来の再読です。堕落論の言葉だと思って携帯にメモしていたのが、じつは恋愛論の一文であることに気づいたり、あれ?そもそも恋愛論なんてあったの?だっり、いろいろ忘れていました。

坂口安吾を一躍有名にした堕落論が収録されたエッセイ集。頭からページをめくると文学・芸術・創作論から始まります。目次をご覧になって興味ある箇所から拾っていく、つまみ食いの読みがおすすめです。

徹底的な欺瞞の否定

坂口安吾という作家は付箋が多くなりがち。現代でいうヒップホップにも通ずるようなライム。物事の本質にグサリと突き刺さるパンチラインの数々。

その根っこには徹底的な欺瞞の否定が見えてきます。象徴的なのが「続堕落論」です。

たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ!
人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一条件だ。

立川談志的な「業の肯定」とも読めるし、それは『失敗の本質』に描かれている当時の日本に流れていた「空気感」を打破するための渾身のイチゲキではないでしょうか。

堕落論は46年4月、続堕落論は46年12月の発表。混迷の日本でどれだけの読者が救われたか。当時からすれば、まっすぐな自己啓発なのかも?

他にも旧態依然の伝統に対して無思考でありがたがる崇拝の姿勢も斬っています。「ブルーノ・タウトが日本の美を発見しただか知らないが、つまらないものはつまらないだろう!」と。

そこもなんとなく空気で生きてきた日本人に目を覚めせと警告しているよう。

時代を経ても色褪せない

読んで古く感じさせない本はたしかに存在します。本質・感情・意志といった普遍性が正体なのか、不思議と坂口安吾の本は色褪せない。きっと高校生でも好きな人は好きでしょう。

原子バクダンで百万人一瞬にたたきつぶしたって、たった一人の歯の痛みがとまらなきゃ、なにが文明だい。バカヤロー。

太宰治の死を嘆く「不良少年とキリスト」は安吾の歯痛の話から始まります。この一節はたけしさんの脳内ナレーションがかかり、思わず笑ってしまいました。

ときに口語調で書きなぐったような跡もあって、そういう面にぐっときてしまうのもたしか。

芸者さんへの苦言を呈する様も、キャバクラに置き換えて読んでもじつは違和感がなかったりする。経年に耐えうる本、文章とはいったい何なんでしょう。

認める・認めない軸

正宗白鳥、志賀直哉、小林秀雄。こういった面々をこき下ろすわけですが、一ついえるのは安吾は「認める・認めない」の軸を持っている。で、ある程度のリスペクトの上で認めないと言っている。

認めているからこそ、おれは認めない!と言いますか。

現代はだんだんと「良し・悪し」から「好きかどうか」に軸が動いている。少なくとも自分はそうです。

いいね!の中身は「Good」ではなく「Like」。「良し・悪し」で語れば、どの口が言ってんだ!とツッコミが入る。

あくまで自分の主観とことわった上で「好き」を言う。なんなら関根勤的に「好き」を見出すわけです。その発見する努力、姿勢は大切だと思っています。

しかしながら、いまって「認めます!認めない!」とまっすぐ言える方ってなかなか少ない気がします。

だからこそ、坂口安吾の歯切れのよい斬込みは心地よいし、居酒屋の隣の席にいたらずっと耳をそばだてておきたい。

そういえば小林秀雄を「教祖」と皮肉るのだけど、目はいいけれど創作者ではないよね、あくまで鑑定人だよねっていう刺し方は、小林秀雄批判の源流をみた気がしました。

一度読んだ本も「その場その場の取引」というように、読むときによって感想は変わってくるなあと思うのでした。

というわけで以上です!


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