note祝福と呪い

「何者かになれ」が投げかける「祝福」と「呪い」

 「夢を持ち、語れ。そして、何者かになれ」という教育は、いつから始まったのだろう。どんな場面で、どういう言葉で教えられたのかは思い出せないけれど、子どもの頃の私は、ずっと違和感を覚えていた。
 「将来なりたいもの」を問われるたび、子どもの私は、「特にありません」と言いたかった。でも、教室には「何かを言わなくてはいけない」空気があって、仕方なく、何かを答えた。

 小学生のときは、とりあえず、「なりたいと言っても不自然ではない職業」を言った。習字とピアノを習っていたので、「習字の先生」とか、「ピアノの先生」とか。
 中学生になると、「それを目指すなら、こうするといい」というアドバイスをもらったり、それに従ってみせたりすることを考慮する必要があったので、「目指してもかまわない職業」について語った。本が好きだったので、「図書館のお姉さん」にした。

 以降の学生生活においても、たとえば、「10年後に何を成し遂げ、何者になっていたいか。そこを目指して進め」のようなことを、何度も言われた。
 そのたびに私は、「そう言われても、『今日の最善』と『明日の最善』と『1年後の最善』は変わるものだから」と思い、10年後について決めることができず、「いま立っている場所から10年間、一日ずつ真摯に、一番選びたいものを選びながら歩んだ先に、辿り着くことのできる自分。その自分になりたい」と思った。

(よく考えれば、10年後を先に決めるメソッドは、『今日の最善』と『明日の最善』と『1年後の最善』を、ある程度、直線で繋げられるようにするメソッドであるだろう。だが、それでも、今日を起点とするか10年後を起点とするかは、どちらにも長短あり、好みで採用して良いように思える。)

 もちろん、「何者かになれ」と繰り返されたことによって、目指す場所を見定め、明確な目的意識を持ち、最短を歩むことのできた子供達もたくさんいるのだと思う。彼らにとっては、「何者かになれ」という言葉は、背中を押し続けてくれる「祝福」であったはずだ。
 けれど、私のように、「これといった夢はないが、最善を尽くし続ける先に、幸せはきっとある」と信じる子供にとっては、「何者かになれ」という言葉は、あたかも「おまえのように生きてはいけない」「おまえの信じる幸せなど存在しない」という「呪い」のようだった。
 呪いのように感じていたのが自分だけではなかったと知るのは、大人になってからのことだ。

 結局、自分の信じるとおりに生きようと決めた私は、毎日、「今日という日」を起点として歩んだ。社会に出るときには、(「図書館のお姉さん」も素敵だと思ったけれど)「子供の頃には知らなかった専門職」に就いた。その仕事は、とても面白かった。のちに、病気をして続けられなくなったため、成り行きで別の仕事に就くことになったが、これもまた、とても面白かった。
 ついでに言うなら、病気をしたこと自体も、視野が広がって、悪くない経験だった。失いたくなかったものを失った代わりに、得られると思っていなかったものを得た。むしろ、得たもののほうが多いくらいだった。そうはいっても個人の感想に過ぎないから、他の人に病気を勧めることはできないけれど。

 そんなこんなで、先日、ふと、記憶の中に住んでいる「〇〇年前の私」に尋ねてみた。「今の私は、あなたがなりたかった私になれているかな?」
 これに対して、あっさりと返って来た答えは、「うん。いいね。とてもいい。本当に、思ってもみなかったくらい、とてもいいね!」だった。
 なりたかった私に、なれている。そう気づいて、じんわりと嬉しかった。
 では、「何者か」を目指さなくても、悩む必要はなかったのだ。

 そう理解してから、あらためて考えてみたら、当たり前のことだった。
 誰だって、生まれたときから、既に「何者か」であるのだ。

* * *

 さて、記事のタイトルを見て訪れ、ここまで読んでくださった「あなた」は、もしかしたら、周りの人から「このようであれ」と助言を受けるとき、「助言を呪いのように感じてしまうのは、自分が狭量で、間違っているせいだ」と苦しんでいるかもしれません。
 だから、参考になるかどうかは分かりませんが、経験から学んだ「見分け方」を書いておきます。

【祝福】と【呪い】の見分け方
 あなたの望みと喜びがどのようなものであるかを、受け入れてくれる人の「助言」は、たとえ口には苦くとも、「幸せであれ」と願う「祝福」であることが多い。
 逆に、あなたの望みと喜びがどのようであるべきかを、あなた自身の意志に反して規定しようとする人の助言は、親切に見えても、「言うことを聞かないと不幸になるぞ」という「呪い」であることが多い。
 つまり、「助言者が叶えようとしているのは、あなたの願いなのか、助言者自身の願いなのか、両方なのか」。そう考えると、見分けやすいように思います。そして、助言者自身が満足するためにだけ発信された言葉なら、それについて、あなたが深く悩む必要はありません。

 ネットの海で、ご縁があって読んでくださった「あなた」の旅が、幾多の嵐を越え、「全体を見ると、すばらしい旅」であるように願っています。
 あなたの旅にも、私の旅にも、どうか良い風が吹きますように!

つつましく暮らしておりますので、どうぞお気遣いありませんように。 (宝物を手にされた「おすそ分け」でしたら、ありがたく頂戴いたします)