組合官僚はどこへ向かう?
全逓や国際郵便電信電話労連の書記として活躍した江田三郎派の初岡昌一郎の回想録では、かなり興味深い内容が載っています。初岡は郵便や電信の労働者経験は一切ない労働組合専従でした。労働組合から雇用された人。海外でもこの人達のことを揶揄して「労働組合官僚」と呼ばれる事があります。
基本的に企業別労働運動中心の日本の労働組合では初岡の様なケースはかなりレアで、全逓という親方が郵政省という官公労だったから成り立つケースです。と言っても、日産労連も塩路体制の頃は自分の息がかかった人間を次々と専従に採用していたので官公労以外でも成り立つシステムです。この組合官僚と呼ばれる人達は中央からやってきて、あれこれと理想ばかり押しつけ、結果現場に混乱をもたらすという意味であまり好かれてはいません。日本の様にそういう人が極めて少ない場合はまだしも敏腕組合官僚は産別間で転職する事もあり、海外労働運動を知らない人に説明することはかなり複雑で難解だと思われます。
さて初岡は全逓に就職したのは29歳。それまで社青同の専従など、割とというかある意味当たり前の給料なんか求めるな!俺たちにはかけがえのない運動があるじゃないか!という団体職員として月給を頂戴する立場でした。全逓の初任給は24000円。これは郵便職員の給料体系に準じたものであり、とびきりと高額ではないですが、当時はまともな額でした。さらに語学力に優れた初岡は「通訳手当」という役員手当にも等しい給金をもらっています。
さて前述した様に特に西欧やアメリカの労働組合幹部には、そもそも労働経験もない「組合官僚」は当たり前でした。日本の労働組合は企業別のために当時巻き起こった学生運動の新左翼セクトにいた人材を企業は敬遠し、だから労組にも加入しにくいという状態でしたが、西欧の場合、学生運動の経歴はほとんど問題にならず、労働組合の専従になる事はたとえその組合の事が分からなくても、運動に目覚めるうちに立派な労働運動家に成長していくケースが非常に多いです。労働組合専従職員という職業がまだまだ現在でも未発達な日本では、こうしたキャリアは非常に取りづらいのが現状です。
セクトを利用できなかった日本労働運動
ボリシェヴィキを起源とするコミンテルンとその支部は各国で共産党という巨大なセクトを作り、ソ連が民族主義的な国家を作り上げると当然それを批判する共産党員も大勢いました。そうした人達は党を割り、いわゆる「新左翼」となっていくのですが、こうした運動は当時巻き起こった学生運動と結びつき運動が急進化する要因にもなりました。もちろん新左翼も色々あって、穏健的な議会活動を目指す団体もありましたが、ニュースで目立つのは過激派ばかりでした。学生は一生なれるものではなく、就職の時期になればセクトの出版社に就職できる人はそれなりに「上」の覚えがめでたい人でそうではない人は原点回帰の学問で何とかするか、加入戦術のタマでした。企業も組合側もそうした運動家は敬遠され、次第に専従職員の募集を縁故で採用します。これは組織防衛ならディフェンスとして成立していますが、組織活性化としてみれば落第です。内輪向けどころか身内しかいない同族労組となった組合運動は地域労働運動から離れ、結果として地区労文化は継承されませんでした。新左翼学生運動といっても、そもそもは社会運動を組織、運営していた人たちで労働組合としては即戦力。単純に適応力を教育すればいい事で、それすら尻込みして学生運動出身者を敬遠したのは、日本の労働運動にとって悲劇でした。
これはひとえに日本の労働運動が企業別、産別と言っても有力単組の集合体という現実があります。現場上がりの元専従だった私が言いますが、労働組合でも運動をより発展するため労働組合に雇用されたバリバリのテクノクラートを採用した方がいいです。結局同じような経歴の人間が集まれば、同じ様な事しかしません。労働運動の発展、改革は専従職員の「正社員化」にあると思います。
江田三郎の国際観
江田三郎という稀代な社会主義者は、そもそも派閥は小さく案外根回しが異常に下手で、国際通でもありませんでした。しかし総評内屈指の江田派だった初岡昌一郎は優れた国際社会主義運動家と断言します。当時社会主義インターナショナルの事務局長ボー•カールソンと江田が対談した事がありましたが、カールソンのこの言葉は江田にとってわが意を得たりと思ったそうです。「ヨーロッパの社民党は政権をとる可能性が生まれたり政権についたときには、現実を重視した政策を前面に打ち出す。しかし、政権を離れて野党に下った時には、従来の政策を脱皮して新しい課題に大胆に挑戦する政策を模索する」。日本社会党は社会主義協会と反協会派と年がら年中対立し、民社党も何でも反対社会党と揶揄しましたが、彼ら自身も何でも社会党の反対民社党というのが実態でした。言うほど自民党から地盤を奪えず同盟解散、連合結成で消滅するぐらい基盤が弱いイデオロギー的な集団でした。現実を重視も、大胆な挑戦もしない日本の野党勢力は55年体制で埋もれていくのは当然です。国際活動を通じて、偏狭的な民族主義者になる人もいますが、江田の場合はヨーロッパ社会主義運動の良い点は参考にし、あくまで日本の社会主義運動を盛り上げ、それが世界の社会主義運動にさらに力をつける。そうした構想を持っていたのは、皮肉にも党内権力闘争には優れていなかった江田の真骨頂でした。リベラルと名乗る政治家はごまんといますが江田の感覚に近い人はゼロに近いです。国政に至っては、間違いなくゼロです。彼らは日本の運動を盛り上げることで世界の運動をより良いものにするのではなく、世界がこれをやっているから日本も遅ればせながら行動するという極めて後退的な思考しか持ち合わせていません。
どうする立憲民主党
常に既存勢力に対抗する人というポジションは誰かにとって変わるものです。都知事選で維新の会の推薦を断った候補が立憲民主党系候補を得票で上回りました。すでに維新の会は既得権益側と見做されているという事です。都議補選では、維新は完敗しました。 ポピュリストは継承できない。易姓革命の様にそのポジションを力で奪うだけ。維新の半壊は、立憲民主党にとって、新しいピンチが生まれました。一度政権をとった民主党の流れを汲む、日本社会党時代を含めれば、かなり与党経験もある立憲民主党。自民党が既得権益とみなされている様に、立憲民主党も同様です。それなのに日常活動は成田三原則の時代と同じ60年変わらず不足、大幅な改善は見込めないです。
日本の「リベラル派」は深刻です。西欧の真似ばかりで、日本のリベラル運動は何一つない。社会主義協会が書記局を掌握する日本社会党も問題でしたが、あっさりと社会党を見捨て、民主党を江田憲司に売り払い、さらに民進党を小池百合子に差し出したいわゆる旧社会党デモクラッツグループ。小池が排除した理由は思想も大ですが、人間性もあったのかもしれません。政治信条よりもその態度は永久に良くならないでしょう。だから東京が変われば全国が変わるという上から目線で乗り切ろうとしたのでしょう。これは痛烈に批判しておきます。その思い上がりは甚だしい。地方を歩き、中央を改革し、世界の運動に刺激を与えるという視点は政党も労組もほとんどありません。極めて腹が立つ話ですが、それについてうまく実行しているのは反動右翼の方です。最もグローバル化反対という一本槍ではこれも10年後はどうなるか検討もつきません。剥き出しの差別主義で最後は身を滅ぼします。
私は立憲民主党を支持していません。これが世界基準と言いながら、地方の革新運動を軽視し、騒ぎたい人だけが大都心駅前で馬鹿騒ぎする様なことを肯定するなら、彼らは立憲民主党をいずれは安売りし、今度は違う党名でまた同じ事を繰り返すでしょうね。
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