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三月、淡雪と散る

今日は寒いから気をつけてね。

無理しないでね。

と、声をかけてくれるたびに優しさに触れて、通り過ぎる道の桜の花びらがたまらなく麗しく見えて、白と桃色が胸に滲んでいく気持ちになる。

恋とか愛とか、そんなのいつか消えていくんでしょう、何にも心を動かされない方がよっぽどマシだ。結局いつか傷ついたり傷つけたりして後悔して、でも戻るのこともないのなら、別に深く関わらない方がずっと楽だ。と最近はずっと思っていたのだけど、わたしの心の中の揺れ動きや、(かなり)めんどくさいさまざまな拗らせを、半分くらい相手に預けてしまっても、きっと相手は嫌わないだろうという気持ちが生まれた気がする。手を引いてくれたりもする、私の歩調に合わせてくれたりもする。そうやって私を照らしてくれるのは、きっと貴方だと思う。

自分を曝け出すのは苦手だ。曝け出して幻滅されたり、嫌われたりするのが怖いから、そうなる前に一定の距離感で人と接していないと自分が保てなくなってしまうからだ。ニコニコしてていつも優しいね、と言われたとして、その私の優しさは、嫌われることへの恐怖から来ていることも、多分にあると思う。つまりエゴ。

けれど、最近ようやっと、ただただ優しさに触れていて欲しい、幸せでいて欲しいという気持ちで相手に言いたいことを伝えたり、逆にあえて聞かないでおいたり、ということが少しだけできるようになったような気がする。

相手を思って愛を差し出すという行為は、とても難しいと感じる。そもそも愛とは恋心からくる産物というよりもっと、泥臭いもののような気がする。貴方が特別でなくとも、好きで、喜んでくれたらそれでいいという、ある意味意志で約束なのかもしれない。

ただただ、貴方が私を気遣っている、私が貴方を気遣っている、というその夕日のような暖かさが、もう好きだという言葉以上に優しいことなのだと、夕方5時頃に、雪のように細やかに色づく桜を目にして、心を滲ませている。


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