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草原の中で祈る

シルクロードを旅していた商人達の足跡が積み重なったその層が、幾重にも続いている。
キャラバンサライで心身を休めた彼らの息遣いや声は石壁に染み込み、差し込む光の向こうへ昇り、風に乗ってどこまでも届いていく。

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タシュラバットへ続く道の始点で車から下ろしてもらったあと、3時間の道のりを歩き始めた。距離にすると15kmほどだったが、登るに連れて標高が上がるのを感じ空気が薄くなった。息を切らしながら、足を進め続けた。

見渡す限りの青空と草原。
強い風が吹いていて耳の冷たい痛みが余計に孤独感を強めていたが、朝日の暖かさのおかげで少し歩きやすくなった。
果たして本当に辿り着くのか、と絶え間ない不安が私の身体中を巡っていたけれど、目の前に広がる真っ直ぐ続く道を見ると、どこまでも歩いていけそうな気もした。ただ、それは最終的な目的地があるとわかっている中で、自分で「歩く」という意志をもって旅をしているからそう感じられるだけだったのかもしれない。

草を喰み、歩く一頭の馬。あまりに美しくて思わず写真を撮った。

草原の中を歩き続ける中で、人々は旅をし、立ち止まり、また旅をしながら考えることで、生を実感できると思った。故郷、と呼ばれる場所から始まりある場所へ移動し、また別の場所へ移ってゆく、というものが旅だと思っていたが、キルギスに来て、遊牧民を目にしながら歩いていると、故郷というものは物理的に存在する自分の生まれ育った場所という意味合いだけではなく、心の中に深く深く根を張る、より精神的なものでもあるということが、(頭ではずっとわかっていたことでも)本当にそうなのだという実感を持って感じた。
また、果てしなく、どこまでも続くその旅路は、直線的な時間の中でその瞬間に全て過去になってしまうというものではなく、過去、現在、未来全てに存在していて、未来という閃光が自分の方へやってくる、というものなのかもしれない。

郷愁というのは、自分の思っているよりもずっとずっと切実であり、遠くへ過ぎ去ったものだけではなく、今そこで動く心の中の故郷を想い歩き続ける中で生まれるものもあるのではないだろうか。

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1時間半歩いてきたころ、目の前には小川と残雪の美しい山々が見えてきた。小川を流れる水の音が聴こえる。山々からは冬と春を混ぜたような冷たくさびしい、でも緑の青さを少し感じさせるような香りが漂ってきている。
さびしさと同時に、それでもまた春はやってくる、という懐かしさにも似た気持ちが胸の中に滲んでいった。
目を閉じると、自然の与えてくれる音楽が静かに響いているのを感じた。そのときは、時間が止まっているようにも感じたし、それはつまり時間が過ぎゆくということから引き裂かれた隙間に、永遠を感じられる、ということだった。


少しずつ自分の体力が奪われていくのを感じながら歩き続け、
3時間半たったころ、やっとタシュラバットに着いた。
石造りでできた、長い間忘れ去られてしまったようにも思える寂しさを纏っていた。
シルクロードを旅してきた商人たちの残した足跡が、風で消えて、また歩いてきた商人によって残され、また消えてゆく。その幾重にも重なった層を、今、私は目にしているのだと思うと胸が熱くなった。

タシュラバットの内部。それぞれの部屋の中の上部に穴が開いていて、光が差し込んでいる。

上から差し込む光の眩さを、あのころシルクロードを歩いてきた彼らも見ていたのだろうか。今、同じように私もその光を受け止めていられているだろうか。そんなことを何度も思うことで、当時と今を行ったり来たりした。心の中で、何度も旅をした。彼らも私も、いくつもの山を越え、果てしない草原の中を歩き、坂を上り、また下り、いつかどこかへたどり着いていけると感じながら、ここで心身を休めていた。立ち止まり、また次の休憩地まで移ってゆくことの寂しさを、歩き続ける限りまたその「寂しさ」を感じる未来が来ることの寂しさを、身体中に沁み渡らせた。


この旅路で出会った人、自然、動物は自分と深くつながりをもっていること、その存在のもつ愛を教えてくれる。この旅路を思い返していると、この世界は、自分が生を受けた意味があるのだと感じられる。それはこれからも自分を照らしてくれると、信じていたい。

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